シンヤベーカリー(小説)
コンテスト「ここで飲むしあわせ」にエッセイで応募しようと思ったのですが、お酒にまつわる体験談があまりなかったので、フィクションで参加させていただきました。「こんなお店があったらいいなあ」という妄想ですが、お付き合いいただけると嬉しいです。
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1.
スマホの明かりが顔を青白く照らしていた。バイトでも始めようと思い、ベッドで横になりながら求人のアプリ画面をひたすらスクロールしている。
昼間は学校があるので、できれば夜勤がいい。20歳になったのもあり、すこし背伸びがしたかった。大人の世界を覗いてみたいと思った。
その時、ひとつの求人が目にとまった。
「シンヤベーカリー」
パン屋だ。だけど、募集要項を見ると「21:00〜翌5:00 週1回からOK!」とあった。
パン屋なのに夜中?
好奇心に勝てなかった僕は、ここへ応募した。すぐにメールが来て、トントン拍子に面接の日程が決まった。
2.
「橋口郁人くんね。履歴書は持ってきた?」
お兄さんともおじさんとも形容しがたい男性が僕の前に座っていた。
「はい」
僕は汚い字で書かれた履歴書をクリアファイルから出して、白いテーブルにすべらせた。
「ハタチかぁ。僕が言うのもなんだけど、なんでこんなとこに応募してきてくれたの?」
お兄さん(迷ったけど、おじさんよりはこっちが近い気がした)は履歴書をザーッと見て、僕の目を見て訊いてきた。
「パン屋なのに深夜営業って変わってるなぁと思って…」
「そうだよね、変わってるよね。うん、わかった!じゃあ早速3日後から来てもらおうかな」
お兄さんは少し笑ってそう言った。この人、店長さんなのかな。なんかさりげなく採用されたっぽいけど、そういえば名前すら聞いてないぞ。
「丸山晋也と申します。晋也が深夜にやってるパン屋さんだから、シンヤベーカリー」
…ダジャレかい。
「よろしくお願い致します」
とにかく面接は通ったようだったから、僕は深く頭を下げて部屋をあとにした。
3.
シンヤベーカリーはパン屋というよりはバーに近いお店だった。
お酒と一緒に焼きたてのパンが食べられる。そういうコンセプトでやっているのだとか。
僕が働き始めて1週間が経っていた。パンは焼けないので、もっぱら注文をとる係だ。メニューには聞いたこともないカタカナが並んでいて、発音すると舌を噛みそうになる。
店長の晋也さんは33歳なのだと後で知った。
「ちょうど一年前かなあ。夜型人間の僕でもできるパン屋を開きたくって」
オーブンに鉄板を突っ込みながら晋也さんは話してくれた。
「僕、朝早く起きられないからさ」
この人の話をどこまで信用していいのか分からないが、パン屋としての腕は確かだ、と直感で思った。
僕はパンに関しては素人だ。だけど、単純にこの人の作るパンが美味しかったのだ。
フランスパンはかたくてまずい、というイメージがあった。パンといえば柔らかくてふわふわで然るべきだと思っていた。
だけど、晋也さんの焼きたてのフランスパンが僕の価値観を変えてくれた。
パリッとした外側と、生地が糸を引くほどもっちりした中身。パン切り包丁すら入っていかないモチモチの焼きたてパンをちぎって口に入れると、幸せが脳内を通り抜けた。
小麦の匂い、ちょうどいい塩気、歯ごたえのある外皮は噛めば噛むほど味が出る。サンドイッチにしたり、なにかを塗っても当然美味しいけど、本当に美味しいフランスパンというのはそのままでも絶品なのだ。
お酒の名前とパンの名前を同時に覚えなければいけないので、四苦八苦している。だけど、楽しい。焼きたてのパンの香りのバーは、大盛況とはいかないけど、根強いファンを獲得していた。
4.
「晋也さんって面白いよね」
ある日、僕の2つ歳上のタクさんがそう言った。
タクさんはオープン当初からいらっしゃる古参のバイトで、頼りになる先輩だ。バイトは僕と彼の2人だけなのだ。
「面白いけど、ちょっと変な人ですよね」
僕は言葉を濁した。晋也さんは僕がどんなミスをしても怒らないし、笑って許してくれる。
でも、本音が見えてこない感じがちょっと怖い。
「こないださ、晋也さんが試作してたパン食べさせてもらったんだけど」
テーブルを拭きながらタクさんが言った。
「お豆腐が入ってるパンなのね。練り込んであるとかじゃなくてさ、ドーン!ってパンのど真ん中に豆腐入ってんの。醤油で味付けしたらしいんだけど、これが意外なことにめちゃくちゃウマくてさ」
お豆腐パンかあ…。日本酒に合うかも。
だんだんこのお店に適した思考回路になってきた。シンヤベーカリーではパンとお酒をあわせることを大前提としている。だから基本的に味が濃いめだし、少量をつまめるようなサイズにしてある。
機会があったら僕もお豆腐パン、食べてみたいな。
5.
今日、ちょっと変なお客さんが来た。晋也さんと同い歳くらいの女性だった。
「ナッツはないの?」
と訊かれたので「ないです」と答えると「そんなバー聞いたことないわよ」と怒りだした。
「その、うちはあくまでパン屋としてやらせていただいてるので…」
僕がそう言うと、そのお客さんは仕方なくベーコンエピを注文した。
「エピ」とは麦の穂のことだ。その形状からそう呼ばれるようになったメジャーなハード系のパン。
その方はベーコンエピを口にするなり
「石みたい」
とだけ口にして席を立った。幸い、お金は払ってくれそうな雰囲気はあったけど、僕はちょっとムッとした。
「あの、それ石じゃなくてパンです」
「わかってるわよ!」
急に血相を変えて怒られた。しまった、これは良くなかったかもしれない。
「だいたいね、パンしかないって分かってたら最初からこんなところ入らなかったわ。普通に飲みたかったのに」
ベーカリーって書いてあるのに…。反論をかろうじて飲み込んだ僕は押し黙ってしまった。
すると、厨房から晋也さんが現れた。
「お客様、どうされましたか」
クレームをつけた女性は晋也さんに向き直り、こう言った。
「このお店、従業員の教育がなってないんじゃないの」
晋也さんは頭を下げた。
「不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございませんでした。お代は結構ですので」
女性は二度と来ないけどね、とつぶやき店を去っていった。
「ごめんね、グッチ」
晋也さんは僕のことをグッチと呼ぶ。恥ずかしいからやめて欲しいと言ったけど、タクさんにもそう呼ばれるようになって定着してしまった。
「晋也さんが謝ることじゃないです。あの人、ムカつきます」
彼女が言った「石みたい」というワードが頭の中でずっとこだましていた。
一口だけかじられたベーコンエピを見た。綺麗な麦の穂にベーコンが実っているみたいだ。こんな夢の中みたいなパンの魅力が伝わらなかったのが悲しかった。
「僕はさ」
晋也さんが言った。
「朝は忙しくてパン屋なんかに行ってられない人でも、仕事帰りなら焼きたてパンを食べてもらえるかも、と思ってここを始めたんだ」
そしてこう続けた。
「パンってお酒に合うんだよ。僕がそういう飲み方が好きだっていうのもあって、夜に焼きたてパンでワインやビールが飲めるお店を開くのが夢だったんだ」
知らなかった。朝に弱いだけの人だと思っていたけど、そんな理由があったなんて。やっと晋也さんの本音を少しだけ聞くことができた。
「初めてのことだらけでお店を開いて、ファンだって言ってくれる人もちらほら出てくるようになって。だから僕はこれでいいんだ。今が一番幸せなんだよ」
「あとは僕のパンを『石みたい』って言われてグッチが本気で怒ってくれたこともね」
言われて、顔がカーッと熱くなった。なんて子供なんだろう、僕って。
僕が「すみませんでした」と謝ると、晋也さんは「こっちこそ嫌な思いをさせてごめんね」と言って、こう続けた。
「今日はもうお店しめちゃおっか」
6.
まだ夜の12時頃で閉店時間には早かったけど、早じまいをした。
タクさんも呼んで、余ったパンを食べながら少し飲もう、という流れになった。
「パン食べ放題!?行きます!」
タクさんのLINEにすぐに既読がついて返信が来たのが面白かった。
「そういえばグッチってお酒あまり飲まないよね?」
3人揃ってから晋也さんがこう言って、僕にビールを勧めた。
恥ずかしい話、僕はビールが苦手だ。というか、お酒をあまり美味しいと思ったことがない。20歳になってすぐ飲んでみたけど、もういいやって思ってからはチャレンジしていない。
「ビールはちびちび飲むから不味いんだって。もっとこう、喉ごしを味わうというかさ」
タクさんがここぞとばかりに先輩風を吹かせてくるので、1口くらいは飲んでやるかと思い、冷えたビールを豪快にゴクリとやってみた。
炭酸と麦の香りが鼻に広がった。そしてアルコールが巡る感覚があり、体が火照ってきた。
あれ、苦くない…。というか、ちょっと美味しいかも。
「仕事が終わったあとってなぜかビールが美味しいんだよね」
晋也さんが優しい顔で笑っていた。
「無理して飲まなくて大丈夫だからね」
牛肉が乗っかったブルスケッタを食べながらビールを飲む。なんだこれ、美味しい…。パンの塩気とビールの苦味がちょうどよく心地よかった。
何も分からないままバイトを始めて、パンの世界に飛び込んで…このままで良かったのか不安だったけど、ようやく「これで良いんだよ」と言われた気がした。
今日来たちょっと面倒なお客さんの話をすると、タクさんはお腹を抱えて笑ってた。
「えっ!『石じゃなくてパンです』って言ったの!?そりゃそーだよ、お前ばっかだなあ、怒られるわそれは」
「もういいじゃないですか、それは。恥ずかしいからやめて下さい」
僕の抵抗もむなしく、タクさんはそれからしばらく何度も「石じゃなくてパンです」と僕のモノマネをしながら言った。
晋也さんはそんな僕らを見て笑っていた。
明日も明後日も、深夜に焼きたてパンが並ぶ。
シンヤベーカリーはパンの幸せの香りと、お酒がつくる幸せを同時に運んでくる。そんなパン屋さんだ。
(おわり)
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