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人は苦しい時の気持ちを忘れてしまう


こんなに苦しいのは久しぶりだ。思えば2022年はかなり恵まれた年だった。平たく言えば充実していた。

写真が面白くなった。今年の頭に、むやみに彩度を上げることをやめ、Lightroomアプリに最初から備わっているマット調のプリセットを使い始めた。すると写真に質感が生まれ、味が出るようになった。

そして今年の半ばに新しいレンズを買った。換算50mmの単焦点。それまで高倍率の望遠レンズ1本でスナップしていたこともあり、最初は広く写りすぎることに戸惑ったが、F値1.8のボケ味、明るさに感動し、単焦点ならではの描写力に魅了されていく。

下半期は大阪の街を狂ったようにスナップした。

…それはちょっと盛った。これでも働いているので、平日の撮影はたまにしか行えなかった。正確には、週末に狂ったように撮りためた。

抑え目だった彩度もまた少し上げ始め、ティールアンドオレンジを意識して映画っぽいレタッチを好んで施すようになった。jpg重ね塗りだ。

多分僕が撮るスナップは風景写真の要素を含んでいるのもあり、SNSで多くの方に見られるようになってきた。いわゆる「自己満の映えないスナップ」ではなく、少しストーリー性を持たせて、今は多くの人に見られることを意識している。もちろん大前提として自分がやりたいからやっているんだけど。

SNSの刺激もあり、写真は1年間楽しむことができた。それが恵まれていると感じた理由。

そしてまた写真つながりになるが、カメラは僕を色々な所へ連れていってくれた。

大阪の中心部をとにかく撮り歩いた。用事があれば必ずカメラを持参した。たまには昔の思い出の場所へ行ったり、少しニッチな町を撮った。とにかく撮るのが楽しかったし、何より大阪という街の魅力を伝えるのが楽しかった。伝わっているかは分からないけど。

充実していた!!

11月までは!!

◇◇◇

ここ数日書いている後輩の話だ。彼女には僕のコンプレックスを深くえぐるバックボーンがあり、また不思議なカリスマ性もあった。

このコンプレックスが掘り起こされる感じは精神的にかなり良くないとわかっているのに、どうしても彼女を知りたいと思ってしまう。

恋愛の気持ちじゃないと思いたい。そもそもそういう立場に僕はいない。

あえて言わないようにしていたけど、言う。

直感というか、この感覚には身に覚えがある。

僕は2021年の頭に悲しい失恋をしている。

その時の彼女と一緒にいる感覚ととても似ている。自分が自分らしくいられない、コンプレックスが刺激される、そしてどこか掴みどころがない。ずっと上手に嘘をつかれ続けている感覚。事実、この約2年前の失恋時にはかなりの嘘をつかれていたことが発覚する。そして僕も。

考えれば考えるほど似ている。だからこの後輩との関係はきっと良くならない。同じことを繰り返す気がする。

でも同時に、心のどこかできっと期待している。この子がこの情けない自分を肯定してくれることを望んでいる。エゴすぎる。気持ち悪いから本当に今は自分が嫌だ。期待するからこんなに落ち込むのだ。頭ではわかっている。

思えばここ1年が良すぎた。この情緒の不安定さが自分のデフォなのだ。それを忘れていた。1年間、苦しかったことすら忘れていた。

仮にこの苦しみから解き放たれたとして、また自分は楽になったり苦しんだりを繰り返していくのか。そうするうちに人生は終わってしまうのか。「残機が1で…」とまた彼女の言葉がこだまする。

ほんまに自分きしょすぎる、今は寝るしかない。

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