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眩暈

一瞬、眩暈のようなくらっとした感覚がした。

 眠気眼のエマは差し込んでくる光に目を細めた。
 軽い倦怠感に埋もれていた意識はくっきりと輪郭を帯びてきて、体中の感覚を取り戻していく。ラベンダー・ピンクのカーテンは薄明かりの波となって、波から零れ落ちた光の粒はエマの肌に弾けて、乳白色の肌を溌溂と輝かせていた。

「ん……明るい」

この光の波がエマの意識を呼び起こしたらしかった。
気が付くとトシヤが仰向きになって天井をぼんやりと見つめていていた。
アパートのワンルーム、なぜか裸にブラだけを身に着けているエマは彼の頭を抱えて、細い指でその輪郭をなぞっていた。
手に伝わる感覚、男の肌。
若い男の匂いがつんと来る。
指先は脂っ気を吸ってしっとりとしていた。

昨日はどうしていただろうか。なぜ下は履いてないのか。
記憶はかけらもなかった。
しかし、長年の経験上、どうやら、部屋の中を見やっていると帰ってきてからの動線がありありとわかった。
玄関から奥の部屋に行くまで狭い通路にエマとトシヤの服が散らばっていた。
先にエマがシャワーを浴びたのだろう。バスルームの前にエマが脱ぎ散らかしたであろうシャツとスカート、シャワーを待っている間にトシヤはたたんでくれたのだろう。
彼のシャツとスラックスの横に、エマが昨日身に着けていた服が一式丁寧にたたまれて置かれていた。おそらく、几帳面で潔癖の気があるトシヤのことだからエマの下着はネットに入れられている。

それから、エマがバスルームから出てきたのだ。
なにせ、エマの衣装ケースからはパステルカラーの雪崩が起きていた。トシヤはこういうのを見ると必ず片づけるはずだ。バスルームから出てきたエマがここを漁ったのだ。エマが今身に着けているライム・グリーンのブラも、ここから発掘したものだろうと思う。雪崩はエマの無茶な発掘が原因だろう。よく見れば履く予定だった下の下着が丸まって転がっている。エマは履く気力もなくそのまま寝たらしい。
雪崩がそのままにしてあるということは、たぶんトシヤが片付けるような気力がなかったのだ。トシヤは自分のケースに手を付けたような形跡もなかった。
と、すると、トシヤはそのままエマが待っているベッドの上に忍び込んできたのだ。今、シーツにくるまれているトシヤは全裸だ。

いつからこうしていたのかはわからないが、いつもは自分の頭よりも高いところにある頭が今はエマの胸の中にあるのが奇妙でたまらなかった。
鼻の形、耳の形、瞼の形、がっしりした顎、唇、髪の毛をすき上げる。
いつもは自分のはるか頭上にある男の頭をそうやって指先で調べ尽くした。
男を慈しんでいるうちに記憶が底の方から浮き上がってきた。

エマの耳元に記憶の中の荒い息遣いが聞こえてきた。
彼女は仕事が終わるなり、ヒールの音が弾けて、街灯が煌々と照らしている通りを駆け出した。具体的な時間は分からなかった。

ともかくエマは急いでいた。
トシヤとの約束で金曜の夜は一緒に帰ろうと決めていたのだった。
洋食店の裏手の扉をノックすると、厨房に勤めるトシヤの声が聞こえてきた。トシヤは肩で扉を押して少しだけ開けると、「ごめん、最後のお客さん、食べてる途中なんだ。ごめんね」としょんぼりした顔をのぞかせた。
彼が言っていたことの記憶が確かであれば、最後のフランス人のお客が22時を回っても食べかけのエビフライを皿の上に置いて談笑しているらしかった。それが終わらないことには帰れないとのことだった。

「エビフライが皿の上で冷え切っているのに、そのくせ、しきりにビールだけは欲しがる」
「変な人たち。トシヤのエビフライおいしいのに」
「伊勢産の活きクルマエビだよ。フライで食べるのがもったいないくらいの」

エビフライ。
食べてもないどころか見てもいないのに、パンコをまとったエビが脳裏にありありと見えてくる。
スーパーの特売で買ったような衣ばかりのエビフライではなく、嘘をついていない、身がみっちりと詰まったエビフライ。
口いっぱいに頬張って揚げたての衣が刺さる感覚や嚙み切った時のぶりんとした感覚が伝わってくる。
トシヤは指先でそれとなくサイズを教える。右手と左手の人差し指はゆうにエマの肩幅ぐらいあっただろう。立派すぎるエビだ。
エマは「それはうそ」と微笑んだ。
鼻息を漏らして「ホントだよ」とトシヤは申し訳なさそうな顔をする。
そのあとは、……なんだっけか。
妙にエビフライのところだけは覚えている。いよいよ記憶があいまいだ。

……そうだ、確か、それからエマは中に入って皿洗いの手伝いをしていた気がしたが、やはり記憶は定かではない。何度か同じことがあったような気がしたので、先々週の記憶か、一年前の記憶かもしれない。

それから、くったりした二人は連れ立って、ワンルームに戻ってきたのだ。おそらくは鍵を開けて熱いシャワーを浴びて、そのままベッドに辿りついたことまでは思い出せた。

「――く、ァァアァ」
胸を動かして大きくあくびをすると、ラベンダー・ピンクのカーテンはエマの吐息に揺れて、オレンジやパープルの陰影が目くるめく。
記憶はなぜかエビフライしかはっきりしていない。
いや、探れば探るほど昨日の記憶がエビフライに置き換わり始めた。
何度思い出してもエビフライが口の中に突っ込まれて思い出せない。
思い出す景色がすべて弾力のある紅白と空から降り注ぐ芳ばしいパンコ、海は黄金色のサラダ油の海になって、次々とエマの口の中に飛び込んでくる。
エマはパンコを纏いながら洋食屋に向かい、トシヤのエビフライに二度揚げされて、おしゃべり好きのエビフライのフランスの前に出されて、すっかりと冷え切ってしまうのだ。
エマはエビフライ時空にマヨってしまったようだ。
不意に、グレゴール・ザムザの名前を思い出して、エマは二マリと口角を上げた。
「ある朝、エマとトシヤは不安な夢からふと覚めてみると、ベッドのなかで自分の姿が一匹の、とてつもなく大きなエビフライに変わってしまっているのに気がついたのです」
エマは徐々に正気を取り返してきたが、すっかりエマはエビの気持ちになっていた。

「ね、トシヤ。もう、昼だよ……たぶん」

エマが起きたころには日はもうすでに高かったように思える。
外では子供の声が聞こえていた。どこかに遊びに行こうとしているのだろうか。今はもう昼を過ぎてしまったのではないだろうか。
生憎だけど、この部屋に時計はない。正確な時間は分からない。カチ、カチ、と規則正しく時計の針が無機質に時間を刻む音はしない。

「もしかして、死んでる?」

しきりに触れているのに反応は返さないが、たぶん、トシヤはいきてる。死んだエビではない。たぶん。時折トシヤの首元に手をやって、両手の指でこっそりと鼓動を感じていた。生きてはいるようである。
しかし、反応は返してこない。もうずいぶんこうしている気がした。わざとこうしているのだろうか。
せっかくのお休みの日なのに、このまま、起きないつもりなのかも……。

「ねぇ、トシヤ。エビフライになってないよね」

不安に駆られて一聴すれば突飛なことを聞いてみた。トシヤの頬を両手で挟んだ時、ざり、という感覚がしたので、もしかするともうすでにエビフライになっていて、揚げたてのパンコが肌を刺しているのかと錯覚した。
もしかしたら彼の意識はエマと同じようにエビフライ時空に飛ばされて、油の海の底で意識が朦朧としているのかもしれない。

「いい加減にしないと、タルタルかけるよ」

エシャロットとたまごのみじん切りがたっぷり入った特製のタルタルソースをかける妄想をして、トシヤの髪をなであげる。
そうしているうちに、トシヤの意識は帰ってきたようだった。
エマはトシヤの瞳がぐっと自分にフォーカスするのを感じると、今の今までエビフライの妄想に取りつかれていることに急に恥ずかしくなって、ゆであがったエビのように顔を真っ赤に染めた。

「僕は君のキャベツの中」
「キャベツ?」
 トシヤはエマのライム・グリーンのブラをつついた。
「そう、キャベツ」

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