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江戸幕末期 日本とロシアをつなぐ歴史

‐江戸幕末期の日露交流について

皆さんは、ロシアに対してどのようなイメージを持っているでしょうか?

「おそロシア」と揶揄されることもあるロシアですが、実際にロシアの方々と話していても、そのようなことはなく、優しい方々ばかりであると身を持って感じています。

ですが、実際に外務省が令和2年度におこなった「ロシアに対する親近感」を問うた世論調査によると、特に日本から見たロシアにおいて、あまり良いイメージを持っていない人が多いというデータがあるのです。

それによると、ロシアに「親しみを感じる」と回答した人の割合は13.6%、「親しみを感じない」とした人の割合は85.7%でした。また年齢別に見ると、18~29歳の若者が「親しみを感じる」と答えた割合が高く、反対に50歳代が「親しみを感じない」と回答した割合が高かったことがわかりました。

日露戦争、第二次世界大戦、そして冷戦という大きな戦争において対立した日本とロシアでは、いまだお互いの国をよく思っていない人が多いことがわかります。

しかし、実際に歴史的に見ると日本とロシアの関係が非常に良好であった時期がたくさん存在します。今日、私がお話しするのはそんな日露交流の中から、166年前に行われた「戸田村」でのエピソードについてです。

このJ-anime meetingという企画を始めとして、現在でも全国各地で日露交流が盛んに行われています。しかし、江戸の幕末期、まだ日本がいわゆる 開国 をするかしないかという議論が激しく交わされていた時代にも、現在の静岡県の沼津市戸田という場所で、日露交流が行われていたのです。まずは、当時どうしてロシアが日本にやってくるようになったのか、ということからお話をしていきます。

ロシアは早くから日本と国交を結びたいと考えており、1800年代には様々な事件もありましたが、ここでは主に、いわゆる幕末期である1840年からのことについて述べていきます。

まず、なぜ異国船が渡来するようになったのかということについてです。これは、中国がアヘン戦争に敗北したことに由来します。当時の中国、清は、イギリスとの南京条約により上海など五港を開港します。この条約は不平等条約であり、欧米列強が中国を完全に押さえ込んだということを意味しています。
     
そして、中国へ進出した欧米列強は日本にも目を向けるようになります。オホーツク海から日本海へかけての海域が捕鯨の好漁場であったからです。

 こうした欧米列強に対して幕府は、異国船打払令の復活を図ります。しかし、異国船打払令というのは非常に強硬であり、異国船を見かけたらすぐに攻撃するというものであったため、欧米列強の怒りを買うことが目に見えていました。
     
 こうして欧米列強への警戒が高まる中、1853年、アメリカから使節のペリーが浦賀にやってきます。そして同年7月、最も早くから対日関係樹立に取り組んできたロシアからの使節プチャーチンも長崎に来航しました。その後、幕府は1ヶ月前に来航していたペリーへの対応に追われていたため、プチャーチンを長崎で待たせることになってしまいます。


ようやくロシアと向き合うことができるようになった幕府は、プチャーチンが持ってきた書翰を受け取ります。そこには国境の画定と通称関係樹立を求める内容が書かれていました。幕府はアメリカからの書翰を受け取ったことからロシアの書翰も受領しますが、幕府側の全権、筒井政憲、川路聖謨、古賀謹一郎らは「国境画定にはなお調査が必要であり、国際情勢の変化により貿易の必要性は理解できるが日本には国力がない」とします。
   
しばらくして、プチャーチンは交渉のためにもう一度日本にやってきます。箱館 天保 山沖 下田とたらい回しにされたプチャーチンでしたが、下田で川路聖謨らと再度交渉することに成功します。

 しかし、プチャーチン一行が下田に到着してから20日後の1854年12月23日、安政の東海大地震が発生します。マグニチュード8.4という、関東大震災よりも大きな地震でした。推定6~7mもの津波が伊豆下田を襲い、甲府では7割の家屋が倒壊しました。

『ディアナ号』は自力で航行できなくなってしまったため、日本人たちの助けも借りて、幕府が修理地に指定した静岡県沼津市戸田まで引っ張って行こうとしましたが、戸田に向かう途中で強風により船が大破され、富士沖まで流されてしまいます。

「ティアナ号」

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そこで、500人ものロシア人たちは徒歩で戸田村に向かうことになってしまったのです。
 
現在でも、500人も一気に自分たちの町に外国の方がやってくるとなったら非常に驚くはずです。ましてや、当時はまだ外国人を見たことがない人々が多かったため、戸田村の人々は初めてみる外国人たちに興味津々だったようです。

戸田についたロシア人たちは、幕府側の全権・江川太郎左衛門英龍、川路聖謨を中心に、日本人たちと共に船を建造することになります。
 
当時、まだ日本では外洋できる船が作られていなかったため、ここで作られた船が鎖国以来初めての、本格的な航行用の洋式船になりました。

幕府側の江川英龍は、オランダ語を介して高島秋帆などから造船技術を学んでいましたが、そもそもロシアと日本では単位が異なっていたために設計図も手探りで作っていきました。この時作られた設計図は現在まで残っています。ロシアから学んだ造船技術はその後の日本全体の造船に大きく関わっていて、例えば石川島造船所、大阪造船所など、明治以降の日本海軍や造船業を育てた人々の多くはこの戸田から輩出されています。明治政府の海軍卿でもあった勝海舟も、ヘダ号の建造が日本の造船業の先駆けとなったことを述べていました。のちにプチャーチンに対して、当時の外国人としては例のない、勲一等旭日章を明治政府が送ったことも、日本の造船業を大きく支えた証明として挙げられます。

この船はのちにプチャーチンによって戸田村にちなんで『ヘダ号』と名付けられることとなります。

また、この戸田村に滞在していたロシア人たちと村人たちとの交流が非常に面白いと個人的に感じているので、いくつかご紹介します。

まず一つ目は、日ロ合作の絵巻です。画像はないのですが、ロシア人が書いた絵に日本人が俳句を添えたものが戸田の造船記念博物館に残っています。

二つ目が、日本人とロシア人の相撲対決です。これは沼津市原の要石神社というところで行われた奉納相撲大会に、ディアナ号の乗組員たちが飛び入り参加をしている絵です。この相撲大会には幕府側の江川太郎左衛門英龍も参加したとも言われており、まさに国際的なスポーツ大会の先駆けとも言えます。

最後に、日本人とロシア人の間で恋愛関係があったということです。当時、異国人との恋愛は禁忌とされていたため、おおやけにはなっていないのですが、実際に日本人とロシア人のハーフの子が生まれていたということも記録に残っています。

滞在中のロシア人に対しては、「もらうな、やるな、つきあうな」という禁制があったそうですが、戸田村の人々は非常によくロシア人たちと交流をしていたそうです。

そして、その間に、幕府とロシアとの交渉も進められていきます。1855年2月7日、幕府側の全権・川路聖謨、筒井政憲、ロシア側の全権・プチャーチンとの間で日露和親条約が締結されます。
 
 それまでは日本とロシアはお互いを対等に見ていたのですが、全権である川路聖謨とプチャーチンが、ヘダ号の建造を通じてお互いを尊敬し、認め合うようになったためにそれまであまりうまくいっていなかった話し合いがスムーズになったと言われています。

ここまで友好的に進められてきたように見える日露関係ですが、実はこの条約が元で現在までも「北方領土」問題について引きずられている点があります。この条約では国境に関する問題についてあまり詳しく決めなかったため、南千島の4島はもともと日本固有の領土であるとして、第二次大戦中のソ連の占領行動を批判するなど、様々な問題に繋がってきています。この辺りは非常に複雑で私もまだあまりわかっていない部分があるのですが、日露間の問題として重要視しなければならない問題の一部です。これについて、まだ日露和親条約の文章を読み解けていない部分があると感じるため、これからさらにしっかりと読み解いていきたいと思います。

政治的外交はもちろん、日露間において幕末期に民間の交流があったというのは非常に面白いことであると、この分野を研究して感じています。

下田にも様々な日露交流の名残があり、日露国交150周年の際には国を挙げて盛大なイベントが開催されるなど、現在でも日本とロシアの幕末期の繋がりは目にみえて生きていることが分かります。特に下田には日露和親条約が締結されたお寺や、当時のロシア人が撮影した写真などが残されています。ぜひ静岡に遊びに行った際には、日露交流を感じに、下田や戸田に立ち寄ってみてください。


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執筆者 伊藤優花



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