ケン・ローチ監督最新映画「家族を想うとき」〜家族を分断する仕事とその回復〜
ケン・ローチ監督の最新映画「家族を想うとき」を観てきました。忘年会シーズンの平日夜にもかかわらず、映画館はほぼ満席。ガラガラのミニシアーを想像していたので驚きました。
「家族を想うとき」の簡単なあらすじ
2008年の金融危機で家を失い借金だけが残された中年男リッキー。建設作業員の職を失い、仕方なく配送の仕事に就きます。ところが、この配送の仕事の契約形態が問題であり、リッキーとその家族は疲弊していきます。リッキーは、個人事業主(フランチャイジー)として配送の仕事を請け負う契約形態のため、自らまたローンという名の借金でバン(配送車)を買う羽目に。社員として法律的に保護されることもなく、1日休むと罰金100ポンド、怪我をしても自己負担、盗まれた郵便物の賠償。トイレに行く暇もなく、し尿瓶を持ち運んでいます。そして、人間としての敬意を払わない口うるさい上司。挙句にスマートフォンのような機器で常に宅配時刻に正確に届けたかを監視されストレスを抱えていきます。
一方で、妻のアビーは訪問介護の仕事。これも朝6:30から夜9:00まであちこちに住む介護が必要な利用者を訪問してはそのケアをしています。わがままな人、暴力を振るったり、糞尿を擦りつける人。おまけに人手が足りないからと休みの日にも携帯電話に仕事の依頼が入り、心落ち着く暇がありません。
そんな両親の息子セブが反抗期を迎え、スプレーで落書きをするなど素行が悪化。それをきっかけに父リッキーとセブの関係に亀裂が入り、またリッキーのセブへの接し方について妻アビーと夫リッキーの間でも喧嘩になります。一時は家族関係も持ち直すものの、ついにセブが万引きをし、ある決定的な出来事が起きて・・・
これはイギリス映画ではなく、日本の映画である
「家族を想うとき」は、仕事により家族が分断され、分断された家族を取り戻そうとする物語に見えます。そして、個人事業主という契約形態を盾に、全てを自己責任化していく社会へのケン・ローチ監督による警告かもしれません。
日本でも、同じ職場で似た仕事をしているのに、正社員には支給される電車の定期代、ボーナス、退職金、こうしたものは非正規社員には支給されません。副業解禁、組織に縛られない働き方という新しい流れの中で日本でも個人事業主という契約形態が前向きな意味で広まりつつありますが、常に弱い立場にあるのも事実です。外国人研修生も安く使われているでしょう。世界的に新しい働き方により人間性を失わせる社会になってきているのかもしれません。
世の中には2つの仕事がある
この映画では、世の中には他者から何かをもらえる仕事と何ももらえない仕事が描かれています。夫リッキーは配達という人々に欠かせないサービスを提供しているのに、受取人からは無愛想な返事や否定的な言葉をもらうばかり。一方で、妻アビーは、夫と喧嘩して泣いているときに慰めてもらえる足の不自由なケアサービス利用者のおばあちゃんがいる。アビーとおばあちゃんはお互いに足りないものを補完し、愛し合える関係なのです。そのおばあちゃんが言うセリフ「わたしでも役に立てることがあるのかね」がなんだか心に残りました。
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