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大きな物語の死、無意味な生と神経症

本を読んでいるとしびれるような一節に出くわすことがある。
最近私は、なぜ現代社会は精神疾患を患う人間を大量に生産するのかを考えていたが、それに対して力のある記述を目にすることができた。もちろんこの記述をそのまま精神医学の現場に輸入したとて、対症療法として有効とはいかないだろうが、神経症や精神病を生み出す母体としての場、それを支配する観念の、つまりは時代精神の大きな枠組みの把握としては、有効だと思われる。

そこではもはや個人の生は超越的な価値に支えられることがなく、人は経験的な価値のみに従って生き、死んでいくしかない。それはある意味では無意味な生である。したがって、その過酷さに耐えられなければ、新興宗教に入信したり自殺未遂を繰り返したり、無意味なガジェットを収集したりするほかない。他方で世界や社会はそのような矮小な生とは全く無関係に動いている。私たちの大部分はこの虚無にあまりに慣れているので、もはやそれが奇妙だと思うこともない。しかし、実はつい数十年前まで多くの人は世界や社会ともっと意味的につながった生を送っていた。少なくともそう思い込んでいたのだ。私は時折、昭和期の文学や批評を読んで、そのあまりの違いに驚くことがある。

東浩紀 郵便的不安達βより 

現代社会はなぜ精神疾患を大量に生み出すのかに関しては、個人的に精神医学の進化と深化によって発見できなかった、見えなかったものが見えるようになったのかも大きな力としてはたいているように思う。それに伴う、あらゆる精神現象の病気化、治療対象化も大きいだろう。

ただ精神医学のことだけを語っていたようでは、精神疾患は説明できない。人々の交流する場、母体としての日本社会に対する観察と考察をこれからも続けていきたい。

大きな物語が死んだ時代に生きている立場からすれば、それをいっぺん体験してみたいと感じたくなってしまうものだ。生の無意味さに苛まれることもないのだろうか。ちょっとばっかしうらやましさを感じたのであった。

私の考えでは、1920年代から60年代まで大きな物語の亡霊は少なくとも2種類さまよい続けていた。1つは共産主義である。20年代以降の世界においては、国民国家はもはや私たちの生に意味を与えてくれない。しかし、階級闘争と世界革命の理念は私たちの生にまだ意味を与えてくれる。第1次世界大戦はロシア革命を生み出し、それ以降、この世界史の物語に驚くほど多くの人々が惹きつけられた。

そしてもう一つは、冷戦期の黙示録的な哲学、一般に実存主義として知られているものである。国民国家は私たちの生に意味を与えてくれない。しかし、45年以降の世界においては、全面核戦争の可能性が私たち全員の死に同じ意味を、あるいは無意味を与えてくれる。それゆえ、私たちはもはや生の意味ではつながっていないが、死の無意味において繋がっている。共産主義の千年王国的な明るさと対をなしている。この暗い思想は、哲学的にはすでに20年代にハイデガーによって準備されていたことが知られている。しかし、それが大衆文化にまで浸透したのは、核兵器の存在が広く知られた第二次世界大戦後のことだ。全面核戦争の可能性は、ハイデガーの運命概念をそのまま続拡化してしまった。そして、60年代に花開いたあの独特のフランス現代思想は、共産主義とハイデガーの交差点、つまりこれら2つの亡霊の明るさと暗さが交わったところに生まれている。

これらの亡霊はあくまでも大きな物語のフェイクであり、共産主義も実存主義も実際にはあまりに観念的すぎて誰の生にも意味を与えてくれない。しかし、20世紀半ばの世界はそれらの観念にしがみつくことでかろうじて人間に意味があるふりをすることができた。例えば、具体的には共産主義や実存主義の術語を用いて文学論や芸術論を交わすことができたし、またジャーナリズムもそれに追随することができた。

その虚構さえ壊れてしまったのは、一方で左翼運動の挫折が起き、他方で急速なメディア化と消費社会化が進んだ60年代後半のことである。その結果、70年代には無目的なテロリズムの頻発、カルトの急進、サブカルチャーの断片化とジャンク化が生じた。それらの現象はすべて旧来の人文的な教養が機能を止め、文化全体が新しい方向を求めて動き始めたことを示している。70年代以降のサブカルチャーはもはや共産主義や実存主義の言葉では理解することができない。

かつてスラボイ・ジジェクは「イデオロギーは二度死ぬ」と述べた。それに倣えば、19世紀的な人間の観念もまた二度死んだと言える。まず10年代に、続いて60年代に死んだ。そして、私たちが今生きているこのポストモダンの世界、リオタールの言う「大量生産の時代」は、第一次世界大戦というよりその二度目の死から始まっている。そこではもはや個人の生は超越的な価値に支えられることがなく、人は経験的な価値のみに従って生き、死んでいくしかない。それはある意味では無意味な生である。したがって、その過酷さに耐えられなければ、新興宗教に入信したり自殺未遂を繰り返したり、無意味なガジェットを収集したりするほかない。他方で世界や社会はそのような矮小な生とは全く無関係に動いている。私たちの大部分はこの虚無にあまりに慣れているので、もはやそれが奇妙だと思うこともない。しかし、実はつい数十年前まで多くの人は世界や社会ともっと意味的につながった生を送っていた。少なくともそう思い込んでいたのだ。私は時折、昭和期の文学や批評を読んで、そのあまりの違いに驚くことがある。 

東浩紀 探偵小説の世紀、SFの世紀より一部抜粋

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