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哲学メモ2 真の自分について

 「真の自分」などというものは存在するのだろうか。
 私たちは名称や属性を与えられることによってこの社会の一員となる。名称も属性も、他の名称や他の属性と並列されることによって初めて意味を持ちはじめる。言い換えるならば名称も属性も概念として交換可能である。
 「男性」という概念と「女性」という概念は交換可能である。「文系」という概念と「理系」という概念は交換可能である。「肉体労働者」という概念と「精神労働者」という概念は交換可能である。このように考えていくと、私たちの自我は交換可能な概念のパッチワークによって作り出されているということになる。
 それぞれの属性には「この属性に当てはまる人間はこのように振舞うべきだ」という固定観念が付着している。私は「男性」だからこのように振舞おう、私は「文系」だからこのように振舞おう、私は「肉体労働者」だからこのように振舞おう……このような思考法は人間から自由を奪う。
 近代の自由主義者たちはこのような思考法を打破するため、「全ての人間は『真の自分』を持っている」という哲学を生み出した。真の自分は名称や属性を受け取る前からその人間の精神を支配している。名称や属性がアポステリオリ(後天的)なものでしかないのに対し、真の自分はアプリオリ(先天的)な概念なのだ。
 後天的な固定観念(他律)ではなく、先天的な真の自分(自律)に従って生きていこう。このような倫理学から自由主義者たちは「近代」という時代を作り上げた。ほんらい自由主義とは非常に規範的な理論なのである。
 さて、真の自分などというものはどこに存在するのだろうか。またどうすれば我々は真の自分に辿り着けるのだろうか。
 自由主義者たちは「真の自分は自分自身にしか認識できない。よって人は他者の本来の姿についてとやかく言うべきではない」と考えた。それに対しマルクス主義などの社会主義的な思想家は、「その人間が明らかに本来のその人から外れている(疎外されている)場合、我々はその人の疎外を解消する手伝いをしなければならない。人類全体の疎外が解消されないかぎり個人の疎外もまた解消されないのだから」という立場を採用している。
 私たちを束縛する後天的な固定観念は全て社会によって作り上げられている。よって、「社会を改善しなければ個人が真の自分を取り戻すことは出来ない」というマルクス主義者たちの発想は正しい。固定観念を容易く拒否できる少数の人間が社会から自発的に逸脱したところで世界は少しも良くならない。(このあたりのことは以前書いた『マハーヤーナ・ボリシェビキ』という記事の中でも述べられている)

 しかし、マルクス主義者は本当に人々の「真の自分」を知っているのだろうか。「真の自分」を知らないかぎり、「真の自分」から疎外された状況として現代を批判することは出来ない。健康という概念を知らない医師に病気を病気と診断することは出来ないのだ。
 上で私が述べたことについて反論しようとする者もいるだろう。「健康を健康だと直観的に理解することは出来なくても、病気を病気だと直観的に理解することは出来る。『健康』という概念は、病気という現実を否定するために作り出されたテコとしての理想なのだ」と。これを本題に沿って言い換えるならば、「真の自分を理解していなくても『真の自分を喪失した状態』を感じることは出来る」となる。
多くの場合「真の自分を喪失した状態(疎外)」は私たちの前に漠然とした不快感として立ち現れる。よって上記の主張は、「人間は不快感から逃れるために『真の自分』という理想を編み出す」とも言い換えることができる。しかし、このような形で編み出された「真の自分」が疎外以前にアプリオリなものとして存在していたという根拠はどこにもない。「真の自分は実在する」という主張よりも「真の自分などという概念は幻想でしかない」という主張の方が、論理としては遙かに容易なのである。

僕は『本当の君』を知っている。今ここにいる君は『本当の君』ではない。

良き医師や良き社会主義者はみなどこかでこのような態度を他者に取らなければならない。しかし人々はこのような態度を取る者に対し強く反発する。人々は、「僕は『本当の君』を知っている」と言う者こそが自分たちを新たな枠に押し込んでしまうのではないか、と心配しているのだ。そしてこの心配は妥当である。「疎外の解消」というスローガンは、容易く「新たな疎外」へと転化してしまうのだ。
 「今ここにいる君は『本当の君』ではない」という態度に基づくコミュニケーションは非常に危険である。それに対し、「今ここにいる君しか『本当の君』ではない」という態度に基づくコミュニケーションは安全だ。現代の資本主義は基本的に後者のドライな原理に則って動いている。
 しかし人間は必ず危険を求めてしまう。多くの人間は、「真の自分」を含まないドライな関係に耐えることが出来ないのだ。かくいう私も危険を求める者の一人である。
論理を超えたウェットな地平において、人はいったい何によって自らを守るべきなのか。私は「技術」こそが危険を求める者の命綱になると考えている。技術は論理ではない。しかし技術は論理と同じく、形式として人間の同一性を守る。
 非論理にも上手な非論理と下手な非論理がある。私は上手な非論理を目指したい。

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