「消費者」として生きれても、「労働者」として生きていけない


 先日、政府から新型コロナに対する緊急事態宣言が出され、多くのお店や企業が休業等の対応を行いました。宣言が出される前から、感染を避けてお客さんが来ず、売上が激減しているお店がたくさんあります。今回の宣言を機会に、お店を休業して売上が完全に「ゼロ」の状態となるところも多く出るでしょう。

 こうした最近の状況において、私は「『消費者』として生きれても、『労働者』としては生きていけない」という矛盾を感じるようになりました。

目次
・「消費者」として生きることはできる
・「労働者」としては生きていけない
・「消費者」と「労働者」は表裏一体

「消費者」として生きることはできる
 私達が、単に生きていく(生存する)ことを目的とした場合、主に必要なものは「食料、インフラ、住宅」だと思います。
 ご飯を食べなければ当然生きていけませんし、電気や水、ガスが無ければ調理やトイレも使えません。そして、安心して睡眠を取ったりプライベートな休息を取るためには住宅が必要です。
 「生きる」という最低限の目的を達することを考えると、今回の新型コロナは震災や大雨等とは異なり、食料やインフラ、住宅の供給やそれ自体に被害を与えてはおらず、これらが充足すればその他のサービス等が休業により提供されなくても、「生きる」だけならばあまり問題はないように思われます。
 ただし、これはあくまでも食料を購入したりインフラ等を利用する「消費者」の立場において問題がないというだけです。私達は、消費者であると同時に、消費するためのお金を稼ぐ「労働者」の立場もあります。

「労働者」としては生きていけない
 「労働者として生きていく」というのは、「仕事を通してお金を稼ぐ」という意味です。仕事ができなければお金を稼ぐことはできず、労働者として生きていくことはできません。
 新型コロナにより、多くのお店や企業が休業等を実施すれば、当然仕事ができなくなります。休業中でも給与を幾分か出してくれる場合や、政府から補助金支給がある場合もありますが、仕事ができない状況は変わりません。
 休業するお店や企業が提供しているモノやサービスは、食料やインフラ等とは違って、「生きるために消費者にとって絶対に必要」とはいえません。しかし、労働者の立場で考えると、たとえ人々が生きるために絶対必要な仕事ではないとしても、自分がお金を稼ぐためは必要なものです。さらに、労働者として生きていけないことは、同時に消費者としても生きていけなくなることを意味します。

「労働者」と「消費者」は表裏一体
 ここまでの「消費者」と「労働者」の立場を連続して考えてみます。
 まず、消費者の立場では生きるだけを考えた場合、世の中の全てのモノやサービスが必要なわけではなく、最低限必要なものの提供があれば大丈夫です。
 感染を防ぐために、生きるために必須のモノやサービスを提供する仕事を除いて、その他のお店や企業を休業にします。
 すると、それらのお店や企業で働いている人々は、休業で仕事ができないためにお金を稼ぐことが出来ません。
 お金が稼げなければ、今度は消費者として最低限必要なモノを購入することが難しくなってしまいます。

 このように、はじめは消費者の立場で「生きるのに必要なモノやサービスさえあればよい」と考えて休業を行うと、今度は労働者の立場で「休業で仕事ができず、お金を稼げない」という状況になり、最後はまた消費者の立場に戻って「お金がないから生きるのに必要なモノやサービスが買えない!」となってしまいます。

 今回の新型コロナで浮き彫りとなったこの矛盾に、私たちはどう向き合えばよいのでしょうか。

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