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日常の謎

 前の記事で『氷菓』について書いたのだが、実は米澤穂信の小説の中で僕が初めて読んだのは『さよなら妖精』であった。というのも、僕が書店で『氷菓』を買おうとしたとき、ちょうど売り切れていたのだ。仕方なく他の文庫を見ていたところ、たまたま目に入ったのが『さよなら妖精』だった。 
 以前の記事でも書いたが、僕はアニメ作品としての『氷菓』を既に視聴していた。それに、この作品が『氷菓』を含む〈古典部シリーズ〉の完結編として構想されたものであるらしいという話も聞いていたので、買って読んでみることにした。

 本作の主人公である守屋路行は藤柴高校の3年生で弓道部に属している。何かにあまり熱意を持つような性格ではないが推理力があるという点は、どことなく折木奉太郎を彷彿とさせる。そして、本作の舞台となっている藤柴市もこれまた観光を主産業としている地方都市である。守屋路行と同級生の太刀洗万智の2人は、学校からの帰り道で、ユーゴスラビアから来た少女マーヤと出会う。マーヤが目撃した「傘を持ちながらも傘を差さずに団地から走った男」の謎解きをきっかけに彼らは交流を深め、ともに日常を過ごす中で様々な謎に挑んでゆくというあらすじである。ユーゴスラビアという国については、旧ソ連のようにいくつかの共和国が連邦を構成していたが、冷戦後に紛争が起きて各国が独立したくらいのことしか知らなかった。本作では、マーヤがユーゴスラビアへ帰国する少し前に、スロベニアとクロアチアが独立を宣言し、紛争が始まる。そして、マーヤはどの共和国に戻ったのかというのが最後にして最大の謎である。

 推理という行為を行うには、他者への想像を巡らせる必要がある。だれが、なぜ、どのように行動した結果、事件が起きたのか。その対象は国家であるときもれば、見知らぬ人物、さらには同級生の場合もある。つまり、自分の頭で考えながらも自分と他者を分離し、客観的に認識できなければ、推理を始めることはできないということだ。守屋たちとマーヤは2か月藤柴市で暮らした。それだけ同じ空間を共有しても、彼らはマーヤの「日常」を理解できたわけではなかった。本書を読後にユーゴスラビアについて簡単に調べてみたが、「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、3つの宗教、2つの文字、1つの連邦国家」と称されるように、その実態は様々な民族や宗教を持つ集団が入り交じっている。これがユーゴスラビアの「日常」だった。マーヤは自国がこのような状況であることを理解したうえで藤柴市で暮らしていたのだ。だからこそ、6つの共和国のどれでもない、7つ目の共同体としてのユーゴスラビアの文化を築こうとしていた彼女にとって、日本という他者の「日常」の謎解きを通じて、自分の中で連邦国家としてのユーゴスラビアとの距離感をつかもうとしていたのでないだろうか。このような連邦国家が崩壊し、民族ごとに独立しようとすれば、凄惨な紛争が繰り広げられることも彼女には想定の範疇だったのかもしれない。しかし、そのような現実は、日本の「日常」で暮らしている一高校生の想像力では、あまりにも手に負えないものだった。

 〈古典部シリーズ〉や〈小市民シリーズ〉など、初期の米澤作品は「日常の謎」に分類されることもある。「日常の謎」とは殺人などの凶悪犯罪ではなく、日常生活の中で起こる出来事などを題材とした推理小説であり、探偵役は刑事や専門家というよりは、一般市民(学生を含む)であることが多い。参考だが、法務省の犯罪白書によれば令和4年(2022年)に発生した殺人事件の認知件数は853件、人口10万人当たりでは0.23件となり、世界各国と比べてもかなり低い水準である。確かに現代の日本において、殺人事件は日常からは程遠いといえるだろう。僕がこの本を買った時期は正確には覚えていないのだが、おそらく2021年だったと思う。ユーゴスラビアが解体されて20年近くがたち、ヨーロッパの大地で国軍同士が大規模な戦闘を行うというのは、ずいぶん昔の話であるように思っていた。しかし、翌年の2月、ロシアがウクライナへの侵攻を開始した。ロシアの電撃的な攻撃により短期間で決すると思われていた戦闘は長期化し、2年半近くたった現在も継続している。死傷者は数十万人とも言われており、ヨーロッパ大陸での戦争は再び日常になっている。

 個人的な想像は自由であり、そこでは世界は自分の思うがままである。しかしそれは自分の「日常」であり、他者を理解し、真実に近づくことはできない。そこで推理の力が必要になってくる。自分とは異なる存在、客観的なデータ、論理的思考。自分ではないものを自分の脳で扱う。これは人間に与えられた素晴らしい能力である。そこでは、受け入れがたい結果が導き出されるかもしれない。「自分の思っていた結果とは違っていたが、結論はこうだった」これを素直に認められる人間はどれくらいいるだろうか。結論に対して感情を抱くことは個人の自由だが、それによって結果を捻じ曲げて解釈していないだろうか。家族、恋人、友人など多くの時間や空間を共にした人ほど「自分と同じように思っているはずだ」と無意識に思いがちではないだろうか。家の中、学校や職場、果ては遠い国の紛争さえ、すべての出来事は誰かの日常なのだ。そのような「日常」のすれ違いが事件を引き起こしている。そう考えると、「日常の謎」を解き明かすのは思ったより難しく、やりがいのあることなのかもしれない。


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