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胸糞悪い映画代表格「マーターズ(オリジナル版)」への思い

まず今回は胸糞悪い表現&作品ネタバレ注意です。オリジナル版及びハリウッド版「マーターズ」に関してはほぼ完全にネタバレします。それから、沙村広明氏のコミック「ブラッドハーレーの馬車」のネタバレも一部含むと思います。また猟奇的な事柄についての記述が多分に含まれると想定されます。その点をよーく、よーーーく!ご検討の上、この先をお読み下さい。

何故この映画について語ろうと思ったかについて、先に述べておきますと、ワタクシ、この映画を胸糞悪いと思っておりません。というか、思えません、というのが正直な気持ちです。
勿論世の中的にどうしてこれが胸糞悪い映画だと言われるかは百も承知です。こんなものを好んで観るのは猟奇趣味の好事家だけかもしれません。おれっちちょっと人とは違った感性なんだぜなんて言ってイキって観る輩は悪趣味が過ぎますし、ただのイキリなら多分途中で挫折します。イキリでないなら、その人は何かがとても鈍いのだと思います。そして多分、この鈍いには私自身も含まれます。
痛みや苦痛に対して、神経速度を遅らせる(自分を鈍くしてそれをやりすごす)、という対処を出来る人は、多分グロ耐性も高いと思います。私には割とその傾向があります。但し、今回の話はそれだけではない、寧ろ全然そういう話ではないので、態々語ろうと思った次第です。

「オリジナル版」と銘打ってある訳なので、マーターズにはハリウッドリメイク版があります。ハリウッドリメイク版を観たときの私の率直な感想は「なんて安直な。なんて単純な。あの少女達の心を、決まった形に入りやすいようにってこんな風にザクザク切り刻まれてたまるもんか」でした。
オリジナル版は、難解というか、言葉がとても少ないので、ある意味どうとでも解釈出来る映画です。だからこそこちらの心をかき立てる何かが存在します。それをどう解釈し、どう飲み込むかはこちらに委ねられているので、ある意味押しつけがましさのない、ヨーロッパ的な映画です。(カナダ資本は入ってますが監督兼脚本はフランスの人です)
ハリウッドリメイク版は、もう本当にいかにもハリウッドという感じに「判りやすく」されてしまっています。情緒もへったくれもありません。こういうことをやらかす輩には是非大谷崎の「陰影礼賛」を100万回音読して欲しいといつも思ってしまいます。
つまるところ私は、オリジナル版からぼんやりと曖昧に受け取って満足していた己の心をこそ、リメイク版にザクザク適当に切りわけられ、ラベルを貼られた気分で非常にムカついた、大袈裟でなく、己のアイデンティティに砂をかけられた憤りを、ここで語りたいのだと思います。

その為ここから先の記述は濃厚に私の主観であり、思いの重さの分激しく冗長ですので、映画についての客観的かつ的確で短く読みやすい記述はWikiなんかで読まれた方が良いです。

という前置きをした上で、さて心おきなくオリジナル版マーターズがどういう話か軽く説明すると、リュシィとアンナという二人の少女の物語です。…というとちょっと極端ですが、私の心の中ではそういう物語、他のことは味付けに過ぎないと思ってます。
リュシィは廃工場で酷い虐待を受けていて、そこから逃げ出すところから映画はスタートします。
ごく幼い頃から、恐らく何年も、劣悪な環境下で椅子に固定され自由を奪われ、餌のような僅かな食事、固定されたままでの排泄の強要、断髪、殴る蹴るなど、凡そレイプ以外の殆どの虐待をされていました。
逃げ出し、養護施設に保護されても、リュシィの心の傷は癒えず、誰とも話せず人と打ち解けられず、トラウマに怯え…そのリュシィに恐れ気なく近づいて、自分が世話しなければ、と幼いながらに寄り添おうとしたのがアンナです。それは子供の気まぐれのような物だったかも知れませんが、アンナは無責任に投げ出さず、たとえそれが親を知らない養護施設の子供のごっこ遊びのようなものであったとしても、自分がリュシィのお母さんなのだ、という責任感に近い気持ちもあったかと思います。勿論子供ですから、ひたすら自分に依存するリュシィを鬱陶しく感じることもあったでしょうし、喧嘩もしたでしょう。けれど、二人は結局ティーンエイジャーになるまで、そのように保護者と依存者として育ちました。
ただ、どんなに寄り添おうとしても、アンナにはやはりPTSDでパニックに陥るリュシィに「私を傷つける化け物がいる!そこに!」とか言われても、それをリュシィの恐怖心からくる恐慌だとしか認識できませんでしたし、やがて大人になったリュシィが自分を酷い目に遭わせた奴等を鏖にしたい、という昏い欲望をあらわにしたとき、全面的に同調することは出来ませんでした。アンナはリュシィと同じ目に遭ってはおらず、人の世の、社会の、常識を踏まえて育ちましたから、ある意味それは当然とも言えます。
ある家族の写真を新聞で見つけたときから、リュシィの転機が訪れます。それは、幼かったし暗かったし覚えているはずがないと周囲の人間が思っていた、リュシィをいたぶった実行犯が写った写真でした。その瞬間に、幸せそうに家族と笑うその犯人と、何も知らずにその家族をやっている人間達を、この手でぶち殺さなければ自分の悪夢は終わらないとリュシィは悟ります。
リュシィのパニック時に訪れる「怪物」とは、幼いリュシィが逃げ出すときに見捨てて逃げた女性であり、その人はリュシィ一人が助かることを許さず、いつもリュシィに酷い傷を負わせます(物理で)。だからこそリュシィはその彼女の為にも、犯人の息の根を己の手で止めて、もう恐れる物はないのだと、自分自身とその女性に言ってあげなければこれ以上生きられない所まで来ていました。
けれど、アンナは反対します。心はリュシィと寄り添いたいと思いつつも、本当にその写真の人が犯人かどうか判らないじゃないか、そんなことをしたら貴方が殺人犯になってしまう、そういう「一般的・普通」の感覚で、リュシィに接してしまいます。
結果、悲劇は起こりました。
リュシィはアンナと離れている隙に、調べ当てた犯人の家にショットガン持参で押し入り、犯人と覚えていた男性も、その妻も、娘も息子も、全員を弾丸の的にします。そしてアンナに「やった」と電話します。慌てたアンナはその家に駆けつけ、なんてことしたの!と言いつつ屍体の隠蔽に協力しようとして、まだ犯人の妻の息があることに気づきます。なんとかその人だけでも助けようとするアンナの姿は、リュシィにとって、唯一の理解者である筈のアンナもそうではなかった、医者と同じように自分を狂人としか思わない「向こう側」の人間だったのだ、ずっと自分を騙し続けてきたのだ、という裏切りでしかありませんでした。
絶望したリュシィは、己の絶望に身を任せます。彼女を襲う怪物に抵抗をやめて身を委ね、絶望のままにアンナの傍を駆け去り、必死に「そうじゃない!やめて!」と止めるアンナを振り切るように、喉を掻き切ります。
リュシィをずっと脅かしていた怪物は、被害者を置いて自分一人逃げてしまった自責の念と加えられた恐怖によって壊れた心が作り出したもので、傍目にはそれはただの激しい自傷行為でしたが、リュシィの息の根を止めたのはその絶望であり、己の手で己の人生に幕を引いた=自殺したのでは決してありません。

軽く説明すると…で始めた割にめちゃめちゃ文字数使って語ってしまいましたが、ここまで、実は前置きです。この映画、言葉数が少ないためともすると非常にテンポが悪いので、ここまでで多分映画の半分以下だと思います。本番はここから。胸糞悪い真骨頂もここからです。

目の前でリュシィを死なせてしまったアンナは、途方に暮れつつしっちゃかめっちゃかなその状況をどうにかしようとその家を探索し、隠し通路を発見します。それを辿っていくと、屍体だかなんなんだかよく判らない不気味な写真が何枚も貼られた長い廊下に行き当たります。ウロウロしていると、かつてのリュシィのように鎖に繋がれ監禁されている女性を発見、アンナはそれを助けようとしますが、隠し通路から家に戻ったところで、踏み込んできた集団にアンナが助けようとした被害者はヘッドショット一発で殺されます。
まるで軍隊か警察のように統率され、感情をあらわにしない彼等は、銃を突きつけここで何があったのか、アンナを尋問します。元はといえばこの家の主人はリュシィを虐待していた犯人であり、その組織の一味でありました。長時間連絡が取れず受話器が上がったままになっているのを不審に思った組織が踏み込んできて、アンナが発見されたのです。
洗いざらい事情を吐かされたアンナは、隠し通路の長い廊下で、マドモワゼルと言われるこのカルト集団の教祖的な人物と相対します。そこで、リュシィに何が起こっていたのか、事実を知るのです。
簡単に言うと、このカルト集団は無理矢理人に臨死体験をさせて、死後の世界に何があるかを語らせたい集団です。何でそんなことするのかカルトなので説明はありませんが、スポンサーがオカネモチのジジババばかりなので、きっと死ぬのが怖くて死んだ後にお花畑があるって思いたい人達なんでしょう。思うのは勝手ですが、やらかしていることは下衆の極みです。
過去、瀕死(臨死)で、かつ息があったと思われる写真の人々のうち、何人かの瞳が恍惚と何かを見ているようにみえる、と断じた彼等は、同じ状態を作り出し、見えた物を語らせるために、ただそれだけのために何人もの人間を監禁・拷問します。目的は「激しい苦痛からの臨死体験をさせて死後の世界を語らせる」、ただそれだけです。
勿論、話はそう簡単ではありません。長期の監禁虐待によって心が壊れてしまう人の方が多く、恍惚臨死体験に至る人(カルト集団はそれを"殉教者(マーターズ)"と呼びます)は殆どいないのです。そして虐待で心が壊れた人は、激しいPTSDに悩まされます。それは体中を虫が這う妄想だったり、恐怖の対象に追いかけられる妄想だったり、その妄想が現実に食い込んでやがては自死してしまう事が殆どだと。
つまり、アンナが理解し得なかった、または信じなかったリュシィの言動は、彼女にとって全て事実でした。実行犯は本当に実行犯でしたし、リュシィを傷つける怪物は現実に食い込みリュシィを殺しました。マドモワゼルと話をしたことで、アンナは、リュシィの言動が全て本当で、自分が心の底からリュシィを信じられなかったことがリュシィの絶望の最後の一押しをしてしまったと知ります。自分が信じてさえいれば、世の中にこんな狂気があると認めていれば…とはいえ、無理な物は無理だった訳です。
”殉教者”に"変容"するのは若い女がよいのだそうで、当然アンナはそのまま監禁・虐待コースに突入です。服は汚れたタンクトップにショートパンツ、固定された椅子に鎖で拘束され、排泄も着衣で固定されたその場で強制されます。長かった髪は無残に切られ、食事はペースト状の何かをスプーンで無理矢理口につっこまれ、吐き出せば殴られます。そして決まった時間になると殴る蹴るの暴行を受けます。
それは段階を追って、アンナの自尊心と自我を破壊していく行為ですが、何が薄気味悪いといって、これらの行動はカルト集団にとっては崇高な目的のために成されていることであり、組織への忠誠です。ですから、誰にもアンナに対する興味はなく、そこに悪意や欲情が存在しないのです。かつてリュシィがレイプされていなかったのはそういう理由です。ただ痛めつけ、変容するのを待つ、それだけのためのことなので、生かさなければならないし、その為病気にならせないよう清潔に保つためちゃんと躰は洗われますし(着衣のままでですが)、でも痛めつける必要があるので義務的に暴行を加えられるのです。人間味というものが一切削ぎ落とされた中で、幾度も心を叩き折られ、ただひたすら苦痛に耐え、生かされる、アンナの長い長い時間が続きます。

全身の皮を意識あるまま剥がれていく等、筆舌に尽くしがたい拷問に耐え続けるうちに、アンナにリュシィの声が聞こえるようになります。幻聴か否かはわかりませんが、リュシィの声は結果的にアンナを変容させ、殉教者へ導きます。アンナの変容に気づき目を輝かせたマドモワゼルは何が見えたかをアンナに尋ねます。アンナは何事かマドモワゼルに答えるのですが、これは観客には聞こえませんし、映画内でもマドモワゼル以外には聞こえていません。
カルト集団のパトロン達に、遂に"殉教者"が現れ、その言葉がもたらされたと知らされ、マドモワゼルの元に沢山の人が駆けつけます。時間を決めて発表されるのでお待ち下さいと待機させられている人々の目は期待で輝き、人々を案内する執事も事がなされたことの誇らしさでキラキラです。
さて、執事がマドモワゼルの部屋を「お時間です」とノックするとマドモワゼルは気怠い表情で化粧を直していました。執事はマドモワゼルにドア越し、人々に知らせるよりも先に「死後の世界はあるのでしょうか」と尋ねます。「あるんじゃない?」と答えたマドモワゼルは更に「疑いなさい」と告げ、銃口を銜えて引き金を引き自殺、映画は幼い頃養護施設の中で録られたリュシィとアンナの映像でエンドロールとなります。

マドモワゼルの言動の意味はどうとでも解釈出来るでしょうが、アンナが"殉教者"になったのか否かでいえば、私はなったのだと思います。それは死後の世界を見たとかではなく、信じるもののために苦痛に耐え抜いて殉じた、という、一般的な「殉教者」の意味に近いものとして、とも思います。大事なのはリュシィの声が聞こえたことであり、それが死後の世界とやらからもたらされたものなのか、死後の世界が見えたか否かは、この場合余り関係ないかなと。
拷問に耐え続けるアンナの描写が延々続く間、殆ど科白はないですが、気丈に耐えるアンナの心に「これと同じ目にリュシィも遭ったんだ」「これはリュシィがされたことなんだ」というのはあったように思います。リュシィは耐えた、だから自分も耐える、というような意味で。
勿論リュシィは本当の意味では耐えきれませんでしたが、リュシィと違ってアンナにはそのリュシィの存在があります。耐え抜くための拠として、リュシィの存在があったからこそアンナは殉教者たりえてしまったのではないかと思えてならないのです。

ここで、私は二つの物を連想しました。一つは沙村広明氏のコミック「ブラッドハーレーの馬車」のある一話、もう一つは「捕虜収容所の兵士と貴婦人」のエピソードです。
「ブラッドハーレーの馬車」も少女虐待物ですが、終身刑を受けた囚人たちのガス抜きとして少女達が餌のように投げ入れられ、殺さなければ何をしてもいい生け贄として陵辱の限りを尽くされます。大抵の少女は数日で死んでしまいますが、一週間を耐えきれば解放されると信じて乗り切った少女のエピソードがあります。隣の部屋に、幼馴染みの少女がいてお互い一週間頑張ろうと励まし合っていたから乗り切れたのだ…というのは表向き、実際には隣の部屋は存在せず、幼馴染みは苦痛に耐える為に少女が作り出した幻でありました、というオチですが、少女にとってその幼馴染みとの会話があったからこそ乗り切れたのが事実ですので、思いこみであろうがなんであろうが、助けや救いになったのは確かです。尤もそもそも解放されるというのがガセなので結局少女は死んでしまいますが。
ある意味早々に死んでしまえば受ける苦痛は少なくて済みます。耐えた事が少女にとって良いことだったかどうかは判りませんが、少女の防衛本能はそのように働きました。
もう一つの捕虜と貴婦人の話は、実話か否かでしょっちゅう論争されてますが、ロマン・ガリーというフランス人作家の「天国の根」という小説からコリン・ウィルソンが引用したことで広まったというのは確かなようです。劣悪な環境下で暮らす捕虜達が、なぐさみに、架空の貴婦人がいると設定して暮らしていくうちに、誕生日プレゼントを贈ったり、彼女の前では品行方正にふるまったりと、徐々に現実を侵食していき、そのお陰で生きる気力を保ち、戦後まで生き残った、みたいな話です。
どちらのエピソードも、なにか心に拠があれば、その思いが強ければ強いだけ、人は劣悪な環境にも壮絶な苦痛にも耐えられてしまう、というお話です。
実際、宗教用語として狭義の「殉教」というのは、どんな苦痛や阻害を受けても尚ありつづける熱烈な信仰というのが前提としてある訳ですし、殉教者を表す絵画などが一々恍惚的なのは、思いの強さが激しいトランスを引き起こしている様とも言えると思います。

オリジナル版マーターズは、最終的に"殉教者"に至ってしまったアンナのリュシィに対する思いを、ただそのまま映し出し、それにやたらな名前をつけたり、レッテルを貼ったり、境界線を引いたりすることを一切しませんでした。だから私はそれをただそういうものとして受け取り、だからこそ胸糞悪いと言われる表現が頻出するこの映画を、何度もぼんやりただ観るということを出来ていましたし、世間に言われる胸糞悪さをも必要な要素としてぼんやりと受け取っていました。

そこにハリウッドリメイクが何をやらかしたかというと、まずテンポが悪い、冗長、と思われる部分を判りやすくするためにでしょうが、サスペンス的要素を強め、被害者のキャラクターを入れ替えました。つまり最終的に殉教者になるのはリュシィということになります。意味がわかりません。リュシィが耐えられなかったけど途中までは耐えた、という前提あってのアンナの変容だと思うので、まずその点で物語を崩壊させました。
そして私が一番許し難かった点、それはアンナとリュシィの間にある感情を、思いを、安直に「恋愛」と定義したことです。それは近頃の「はいはい、LGBT、LGBT。我々はフレンドリーですよー」という、ただただ無責任にレッテルを貼り、自分とは違うと境界線を引き、そして安全圏から勝手なことを言う、巷間に溢れる有象無象のやり口そのものです。
別に自分がレズビアンだからではなく、一マイノリティとして、そして一人間として、自分自身を勝手にラベリングされ、位置づけを決められる事へのもの凄い拒否感を、リメイク版は私に想起させました。
「恋愛」という形に収め、LGBTQというラベルを貼り、更にはそれにさも理解がある振りをする、その為だけに「ただ蕩揺うようにそこにあったもの凄く大切で重たい二人の少女の気持ち」を蔑ろにする行為に、激しい怒りと嫌悪感しか覚えませんでした。
殊に近年のハリウッドリメイクが成功した試しというのは殆どないと個人的には思っていますが、これは本当に酷い。一人の女として、人間として、こんな失礼な話があってたまるもんかと心底腹が立ちました。フィクションへの感情移入が比較的強い方なので、このような感じ方にどうしてもなってしまいます。

但し、リメイク版がもたらしてくれた良いことが一つだけあります。それは「あぁ、そういう訳で私はこの映画を胸糞悪いとも思わず何度もリピートしていたのか」ということを、明確に私に教えてくれたことです。リメイク版を観るまでは、こうして明文化できるほどのなにかを私は捉えておらず、ただただぼんやりと何度もオリジナル版をリピートしていただけでした。なるほど、私の心はこの、少女期ならではの蕩揺い震え、そして過酷な中だからこそひたすらひたむきで激しい、それでいて混ざり合うことも重なり合うこともない、この二人の女の子の心をばかりずっと追っていたのか、そりゃあ私にとってそれが「胸糞悪い」という形容詞に当たるわけがないや、と非常にすとんと納得致しました。

世の中様的に、少女を拷問するようなシーンがある映画がそもそも公序良俗に反するでしょうし、そういうものを敢えて観たがる輩こそをが胸糞悪いという向きもありましょう。実際、胸糞悪い系映画で言えばマーターズと同じくらいよく上げられる「ファニーゲーム」には、「こんな映画を態々観ている画面の向こうのお前ら」に対するヘイトメッセージが作中何度か投げかけられます。
私は機能不全家族で育ったACではありますが決して被虐待児ではありません。ただ、躰の都合により、痛みに弱かったらとても生活が成り立たなかったので、被虐待児にありがちな痛みへの鈍さみたいなものと似た感覚は持っています。それだけが原因かどうかは判りませんが、猟奇的な物を敢えて避けない、寧ろ観ようとする嫌いは確かにあります。
ただ、マーターズにしても、それからブラッドハーレーの馬車にしても、これを胸糞悪いとか、女性にはお勧め出来ないなどと仰るのは、男性が多いのですよね。そしてこれは私の主観ではありますが、肌感覚的に、痛みに弱いのは女性より男性の方が多い気がします。
女は、などと主語を大きくするとご迷惑をかける向きもありますから、ここは敢えて私という女は、とさせて頂きますが、常に覚悟をしています。女性という性別に産まれ、セーラー服を着ているだけで痴漢に遭う確率が爆上がりするという体験などを経て、いつ何時己の身に何か酷いことが降りかかるかもしれない、という覚悟は、常に備わっていると思います。子供であれ女であれ、弱者とされるものたちの中に含まれるのであれば、強者に対する心構えはしておくべきです。これは、人生の大半をマイノリティと自覚して生きてきた私の、ある意味処世術であり、ある意味マジョリティへの抵抗でもあるかと思います。
どんなに酷いことが起ころうとも、絶対に自分の尊厳を譲ってやるものか、折られてたまるもんか、そういう意地は、多分私の中に根深くあるのでしょう。
だからこそその覚悟をヘラヘラ笑って高みの見物をするかの如くの、ハリウッドリメイク版マーターズに、過剰に嫌悪を覚え、逆にオリジナル版マーターズに親和性を覚えるという事かと思います。

これは勿論私一人の思いですから、マーターズを観て胸糞悪くて眠れなくなったぞ、どうしてくれる!とかいう苦情は受け付けません。あくまで私はこう感じているけれど、世の中的にはどうやらそうじゃないからご注意下さいね、とは最初にお断りしてある訳なので。
思い入れがありすぎる分、冗長かつ少しとりとめなくなりましたが、丁度 #映画感想文 というハッシュタグが目に入ったので、書き上げてみようと思った次第です。

長々とこの全文を読んで下さった方がもしいらっしゃったら、本当にお疲れ様でした、ありがとうございます。



※マシュマロ始めてみました。コメントより気楽かなと思って。
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