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私の「猫との生き方」

過日、何かの記事の見出しに「猫との生活の夢と現実」みたいなものを見かけました。小さい頃から猫を飼うことに憧れて、実際に飼えたらどんなだろう、あんな風かなこんな風かな、こんなこととかあったらいいな、なんていう夢は、ひとたび現実の猫を前にするとぶち壊される、というような主旨の記事だったと思います。猫は一緒に寝てなんかくれないし、膝に乗ってくれたりもしないし、何ならそっちこっちで吐いて困る、みたいなことが例として書いてあったような…他人事として斜め読みしかしなかったので、多分こんな感じだった、という程度の認識です、すみません。

我が家には私が生まれたときから私より年上の猫がいました。つまり、私にとって猫が「理想」や「夢」であったことなどただの一度もない、ということです。彼等は常に家族で有り、現実でした。勿論今この瞬間も。
そして母が生まれたときにも既に母より年上の猫がいたそうです。祖母は幼くして生家を離れている人ですので、生まれたときに既に猫がいて一緒に育ったとは考えづらい為、この猫連鎖は祖母が飼い始めたことから続いているものだと思われます。

とはいえ、祖母、母、私と、それぞれの 猫との関わり方、スタンスは少しずつ違います。
生まれたときから共に育ったわけでなく、何より田畑の中で犬猫と暮らしていた祖母にとっての猫は、やや「家畜」寄りのように感じます。母はその環境で18歳まで暮らしていた人なので「家族」と「家畜」が半々位、私はがっつり「家族」という感じです。
祖母、母の感覚は置くとして、私自身が強く猫を「家族」と意識するのは、まず生まれたときに既に成猫が生活の中にいたこと、更には共に子供の状態から一緒に育った兄貴分とも言える猫もいて、一人っ子の鍵っ子で、人は一人もいない家に「ただいま」と帰れば迎えてくれる存在が猫であったことが大きいかと思います。私の人生のうち、傍に猫がいなかった期間の方が圧倒的に短いです。前の猫が死んで49日が過ぎたか過ぎないか位から次の猫を探し始める事を考えれば、ほぼ途切れていないといっても過言では無いかも知れません。そして一番精神的に辛かったときに支えだったのはいつも猫の存在でした。現在進行形でも支えです。

私と一緒に暮らした歴代猫は、まず生まれたときにいたチャリー、この子は物心ついたかつかないか位で身罷ってしまったベージュのペルシャ猫。
次に確か母がブリーダーさんから買ったと思われる血統書付きのグレーのペルシャのラブ。こんな名前ですが男子でした。幼い私に名付けを任せた為こんなことになってしまいました。
ちなみに、この時お世話になったブリーダーさんが紹介して下さった獣医さんが、現在に至るまで我が家の猫の主治医である獣医版赤ひげ先生的超絶名医様でして、かれこれもう何十年のおつき合いになります。
…と話がそれてしまいましたが、ラブは我が家で現状最長の17年を生きました。純血だった為か躰の弱い子でしょっちゅう具合を悪くしては赤ひげ先生のお世話になっていましたけれど、晩年は調子は悪いながらも特に負荷をかけることなく生活していたようで、丁度私が受験のため一時期一人暮らしをしていたときに身罷ってしまいました。

程なく我が家は祖母の住む山梨から、祖母の知人宅で生まれたという子猫を貰ってきて、私がシェリーと名づけました。シェリー酒でも尾崎豊の「シェリー」でもなく、当時私がハマっていたTHE PRIVATESというバンドの「シェリー」という曲からのあやかり命名です。しかしこのシェリー、根っから田舎育ちの血が強く、都会暮らしにどうしても慣れることが出来ませんで、一年経つか経たないか位で山梨の祖母の所へ引き取られました。

代わりに、シェリーと同じ母猫から生まれたシェリーの実の妹に当たる子猫を再度引き取りました。この子がシャーリィです。シャーリー・マクレーンではなく、シャーリー・テンプルからのあやかり命名でした。二人とも、チンチラとペルシャのミックスでした。
幼少の砌に男子にうっかり「ラブ」なんてつけてしまいましたけれども、シェリー、シャーリィが来る頃には充分に脳味噌は働いておりましたので、我が家周辺の猫名前は後ろに「リ」がつく名前が多い、という事に気付き、いっそこれを命名則にしよう、と当時考えた結果、そのような命名となった次第です。

ちなみに、シャーリィ飼い始めに数ヶ月カイルというキジトラがいたことがあります。近所で私が見捨てられずに拾ってきてしまった子で、共生出来るようなら一緒に飼うことも考えたのですが、シャーリィが無理で里子に出しました。余所のお宅で「うめちゃん」という名前を貰って幸せに暮らしたそうで、その後の音信を私は知りません。本当に生まれ落ちてすぐ拾ったので、2時間おきにミルクで起こされる育児でふらふらになりながら大学に通った記憶があります。(この体験から、私は世のお母様方をガチ尊敬してます。私には子猫の育児が精一杯です。)
カイルは当時海外ドラマのツインビークスがめっちゃ流行っていて、主演のカイル・マクラクランからのあやかり命名でした。この名前は後に、母が大阪で飼い始めた子に襲名されます。

チャリーのことは幼すぎて覚えていませんが、ラブが私と一緒に育ち時に私を庇ってくれた兄貴分であり、離婚してシングルであった母の恋人だったとするならば(母はラブ存命中に再婚しましたが)、シャーリィは私の恋人というか…私の感覚で敢えて言葉にするなら「愛人」でした。荒木さんにおけるチロとも違います。完全に目線が同じ、お互い同等で、今冷静な頭で考えれば、晩年は良くも悪くも共依存的でした。
送り雪舞う中美しく美しく、その愛人道を全うしたシャーリィとの死別の衝撃はは大きく、激しすぎるペットロスで、この時私は初めて自ら精神科を受診しました。私の精神科・心療内科とのおつき合いの始まりがここです。

しかし、そのペットロスの最中に、それでも私は49日過ぎた瞬間に次の子をもらい受ける手筈を整えてるんですね。名前に至ってはシャーリィ生前から用意していました。それはつまり、私が猫なしで生きる気が一切合切ないということの表れであると共に、自分より寿命の短い生き物と共に生きることを選択している以上当たり前の覚悟として、死別についてはそれこそ飼い始める時から、意識しているということでもあります。

シャーリィ晩年、私の就職に次いで家庭の事情で母&義父が大阪に転居した為、余りにも私に対して依存的になってしまった寂しんぼうの甘ったれっぷりを可哀相に思ったこと、私が出かけるときに一人にするという寂しさを軽減させる為、そして一対一での私との結びつきを多少希薄にする意味で、次の猫は絶対に二匹一緒に貰ってこようと決意し、二匹一緒なら対の名前が良いだろうと、飼い始める何年も前から語尾の母音まで精査して名前を準備され、みちみちと2ヶ月くらいの子猫が12匹一緒に保護されている所から貰ってきたのが深海(みうみ)と真空(まそら)です。

この子達から完全に親権が私一人となりました。正確にはこの子達を飼い始めた数年後からなのですが、引き取った当初からこの子達の保護責任は私にありましたので、最初の最初にちょっとだけ母が家族だったことはノーカウントとされています。私の中でも、多分娘達の中でも。
とはいえ、「娘達」と言い条、対する私が「かーちゃん」か、というと話がちょっと変わってきます。
最初の最初にちょっと母が家族だった、つまり、その時点で猫に対する自分の呼び名が母は「おかーさん」私は「おねーちゃん」でありました。そして、ずっとその関係のまま遷移しています。
今現在の私は故意であれ無意識であれ、誰かに対して自分が「親」である、「親」になる、ということを完全に放棄しているので、「おかーさん」がまだ身近で生きている状態で「かーちゃん」を名乗る必然がないですし、かーちゃんであろうなどと思ったこともないです。保護者と被保護対象ではありますが、基本的に猫との視線はこっちが下、もしくは対等、位のものです。
生き物としての猫に、群れて暮らす習性がないので、犬のように序列をつけ、ボスを崇めるみたいなことは一切ありませんし、精々がところ、「敵・嫌い<まあいてもいい・良くしてやらんでもない<好き」位の差分しかないと思います。
自分の体験や体感としても、ラブには母に説教されている最中とかに何回も間に入って庇って貰いましたから、共に育って愛玩していたとはいえ「兄貴分」だったなぁと思いますし、シャーリィ、深海、真空たちは、やっぱり「愛し愛される間柄」ではありますが、目線は対等ですね。だって私も猫にめっちゃ甘えますから。
別に親が子供に甘えちゃいけないとかそういう訳じゃないですが、なんていうんですかね、スタンダードな親子を人としてやってきてないので(何せ祖母・母・私と三代続いたACですしねぇ)、想像でしか語れないもの=「かーちゃんなるもの」になれる気がしないし、なる気がないっていうことなんだと思います、私が個人的に。

このように、私にとって猫は生まれたときから今に至るまで常に、そして徹頭徹尾、「目線の変わらない家族」であり、それと同時に「動物=自分とは違う種類の生き物」でもあります。
擬人化しすぎることは、逆にそのままを受け入れられないことにも繋がりかねないので宜しくないと、赤ひげ先生から言われたことでもありますしね。
実際、相手は人とは違う生き物で言っても判らないですし、困ったことを沢山しでかしますけど、それはもうそういうものとして受け入れるしかないですし、一緒に暮らしていれば自ずと慣れざるを得ないものです。間違っても相手を変えようなどという、思い上がったことは考えてはいけないと思ってます。だって、私の方が立場的に優位なんですから、そして保護責任があるのですから。
「生き物を飼う」という、ある意味それ自体が思い上がった、別の綺麗な言い方をすれば「責任ある行為」を選択した以上、猫ファーストになるのが当たり前ってものです。少なくとも私は、そうやって生きてきましたし、逆に生まれてからずっと猫と共に育ってきたが故に、そのように思うようになったのだとも思います。

勿論誰しもそうあれ、という話ではありません。これは私個人の体験ですから。ただ、相手が猫であれ人であれ、己都合で相手を変えようとするのは違うんじゃないかなぁ、とは思います。
「理想の猫」なんて、現実にはいないもんです。「理想の恋人」が必ずしも現実で理想的かどうかは別問題、というのと同じ…かどうかは判らないですけど。
恋人、というのであれば、今となっては私の恋人はもう猫しかいないかなぁと思います。そして、だからこそ、猫であってもやっぱり私に男子の面倒は見られません。猫であっても性差は相当あると感じます。基本母は男子しか飼いません。そして私は女の子しか受け付けません。いれば可愛がりますけど、私の担当じゃないなぁというのが正直な気持ち。

そうそう、今現在私はにゃんこと共にナメクジの飼い主でもあるわけですが、両者に接点は全くありません。うちのにゃんこ、多分同じ家の中ナメクジいることにすら気づいてないです。なにせ16歳のご高齢にゃんこなので、登れる高さがどんどん低くなってるのもあり、視界に入らない場所にナメっ子達のお部屋があるので。
ただ、私が自分以外の生き物に話しかけてるのは知ってると思われます。ナメっ子に話しかけてると不機嫌そうな声が奴が寝ているベッドの方から聞こえるので。うちのにゃんこは割とヤキモチ焼きです。



見出し画像は左からシャーリィ、真空、深海。深海&真空姉妹はご覧の通りキジトラと三毛なので、二人一緒に取るときに露出合わせるのが結構難しかったです。昨今はデジイチ、真空だけになってからはほぼスマホのカメラですけど、デジタルだってどこで露出取るかで写り変わりますからねぇ。

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