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志のみで走っている企業

事業計画を立てたことのない会社の経営者

 大部な著作を出している執行草舟(しぎょう そうしゅう)という人がいる。

 彼は、菌酵素を扱うBIOTEC株式会社の創業者・社長である。

 今年2021年に出た『新葉隠論』の「第二部質疑応答篇・インタビュー 第一章 永久孤独論」で、本質的に、「個人も企業も、魂から生まれる人間の「理想」を追求する生き方だけに真の価値があるのです」と述べた後、インタビュアーからこう問われる。

“――執行先生の会社では、来期は何%の成長を目指すとか、そういう目標や計画はないのですか?”

 これに対する返答が、驚くべきものである。

 “ないですよ。私は創業以来三十六年間、一度も事業計画のようなものは立てたことはありません。創業の志があるだけです。その貫徹のためだけに我が社はあるのです。そして日常は、仕事にもお客様にも正しいと思うことに体当たりする。それだけです。うちの会社はそれで運よく売れてきましたが、売れなかったら売れなかったで仕方ない。三十六年前の創業の志を曲げてまで、会社を大きくするなんて考えたこともありません。”
(執行草舟『超葉隠論』実業之日本社、2021、p,247)

 おそらく企業経営に携わる人、また企業法人なら、毎年、事業計画を立てているだろうし、それが当たり前だろう。

 もちろん、起業家の中には、何か志があって、事業を始めた人が少なくないだろうが、そういう人でも、事業計画はきちんと立てているだろう。

 だが、それは、「本当に正しいのだろうか」と思わせられる迫力が、執行氏の言葉にはある。

 何より、彼の言葉――これに限らないが――には、嘘がない。

 「私は創業以来三十六年間、一度も事業計画のようなものは立てたことはありません。創業の志があるだけです。その貫徹のためだけに我が社はあるのです。」とは、三十六年間、そういう歩みをしてきたからこそ、言える。

 志の実現・貫徹のためだけに、自分の会社・働きがある、そう言える人がどれだけいるだろうか。

 また、志だけで今日まで来たが、「売れなかったら売れなかったで仕方ない」という、潔さにも注目したい。

 大抵の企業及び企業経営者は、会社を大きくすることを考えるだろうし、時に、創業の志を曲げてまで行うこともあるかもしれない。

 だが、執行氏は、本質はそこではないと言うのである。

 「三十六年前の創業の志を曲げてまで、会社を大きくするなんて考えたこともありません」とあるように、あくまでも志の実現・貫徹が根本にある。

「健康のための商品」と言わない

 では、彼は、どういう売り口上で、商品を売っているのかを次に見てみたい。

 自身の前半生を語った『おゝ ポポイ! その日々へ還らむ』に、こんな記述がある。

 “執行:私は元々、自分の健康のことは考えたことがありません。私は三十年前に酵素食品の会社を創業してから今日に至るまで、「健康になるための食品を売っています」と言ったことはありません。「うちの菌酵素の食品は、自己の生命の燃焼を補完し、自分らしくきちんと死ぬために開発したものです」と明言して売っています。これは私の根本思想でもあります。

インタビュアー:長生きには価値はない。

執行:寿命が来たら誰でも死にます。命の長短などに、人間の生命の価値があるはずがない。死ぬまで生命を燃焼させ、自己の生命を使い切って、ボロボロになって死ぬことに生命の意義はあるのです。”
(執行草舟『おゝ ポポイ! その日々へ還らむ』PHP、2017、p,254)

 自分の思想そのままに生き、働き、経営しているというのである。
 
 その根本を支えているのが、山本常朝の『葉隠』である。

志と夢の違い――井上洋治神父と遠藤周作の志

 ところで、「志」と「夢」はどう違うのだろうか。

 井上洋治神父と遠藤周作から深い影響を受けた文学研究者の山根道公が、聖心女子大学で2015年6月に語った講演「遠藤周作と井上洋治 二十一世紀への遺言」で、夢と志の違いについて、NHKの朝ドラと大河ドラマに触れながら、述べている。

 2015年当時の朝ドラは「まれ」で、個人の夢が主題である。主人公は、「私はケーキ職人になる」という夢を抱いている。

 また、当時の大河ドラマは「花燃ゆ」で、主題は、高い志である。吉田松陰の妹が主人公である。

 吉田松陰は、自分の志が、自分の存命中に実現するとは思っていない。しかし、自分が志を生きて、次の世代、次の世代へとつなげていくものだと見ている。

 夢というのが、自分一人で実現する何かだとすれば、志は、自分を超えた、もっと大きなものを目指すものを含んでいると言えるだろう。

 山根の言葉を引こう。

 “志は、自分を超えてもっと大きなもののなかで、同じような志を目指している人がこの世の中にいれば、その人を支えていくとか、その人のもとについていくとか、そういうところから始まっていけるので、自分がそれを担える部分を、ほんの一部分でも担うことで、自分の生きている意味を見出していくこともできます。そういう関わりができるのが志であると思うのです。”
(「宗教と文化32 2016年3月」聖心女子大学キリスト教文化研究所p,65)

 井上・遠藤両氏の志は、「だぶだぶの洋服の西洋キリスト教を、日本の精神風土に根ざした和服のキリスト教に仕立て直す」(同書p,63)というものだった。

 それを、井上は神学の方から、遠藤は文学の方から行ったのである。

 たとえて言えば、山の違う方向から穴を掘り進むようなものである。

 だが、それは高い志であるがゆえに、二人の代で終わらず、今も、二人の遺志を継いだ人々によって担われ続けている。

 今は、離れてしまったが、私は山根氏はじめ、何人かの、井上神父の「弟子」に会っていた時期がある。

 山根道公、平田栄一、詩人の服部剛、トマス・アクィナスをはじめ中世哲学・イスラーム哲学の研究者である山本芳久、批評家・随筆家の若松英輔である。

 「志」という言葉を見聞きすると、いつも、この井上神父と遠藤周作の歩み、そして、そのことを楽しそうに語る山根先生のことを思い出す。

困難な道を切り開いた二人

 詳しくは述べないが、今から考えると、「日本の風土に根ざしたキリスト教」というのは、当たり前に思うかもしれない。

 しかし、遠藤・井上が、留学から帰国した当時の日本の教会は、異端とまでは言わないまでも、強い反発を呼び起こすような志であり、課題であった。

 先駆者がゼロだったわけではないが、当時の日本では、ほとんど孤軍奮闘に近いことを、二人は、置かれた場で行った。

 それは、二人の作品の様々なところに刻まれ、響いている。

 だが、だからこそ、二人の作品は、キリスト教の輪を超え、広く多くの人に読まれ、今も読み継がれているのだろう。

 志の実現は、とても苦しく、辛く、容易ならぬものだったことが、作品からもはっきり伝わってくる。

 それは、執行草舟の志「自己の生命の永久燃焼」にも当てはまることだ。

 自分の幸福だけ、自分の目先の安全と安心と快楽だけに関心を寄せる者には、志も、それを実現しようという奮闘も、全く理解できないだろう。

 ただただ、不幸に突き進むようにしか、映らないかもしれない。

 それは、志というものが、自分を超えたものへの憧れ、自分を超えた大いなるものに目を向けていなければ、見つかりようがないからだ。

計画はなく、覚悟と志に駆動された人生

 会社の事業計画を立てたことがなく、創業の志だけで今日まで来たという執行は、おそらく、自分の人生の「人生計画」というものも立てたことがないように思われる。

 そうでなければ、『超葉隠論』に書かれたことが嘘になってしまうからだ。

 それは、傍目には無計画に映るだろうが、彼の中には、ゆるがせにできない覚悟と志と思想がある。

 それが戒めとなって、彼の人生に優雅を与える作用をしているのではないか。

 執行は『超葉隠論』の「第二章 永久燃焼論」を、スペインの神秘思想家十字架の聖ヨハネの言葉をもって終えている。

 奇しくも、十字架の聖ヨハネ(サン・ファン・デ・ラ・クルース)は、井上神父の洗礼名である。

 “お前の知らぬものに到達するために、お前の知らぬ道を行(ゆ)かねばならぬ。” (執行草舟『超葉隠論』p,97)

幸福追求と志の実現は、両立しない

 理知でもなく計画でもない、自己を超えたものに憧れ、それをつかまんとして、必死に体当たりをする者は、こうしてきたし、これからもするだろう。

 現代は、幸福志向・成功志向で、ほとんどの人々が、自分の安心・出世・幸福しか、考えていない。

 だが、『葉隠』や『超葉隠論』で描かれている人々のように、イエスのように、人類の未来のために、誠の道を歩みたいという願いを持っている。

 今年は、「真面目・等身大・親切」の境地で歩んできた。

 これからも、これでもって、真剣に、愚直に、体当たりの日々を送りたい。

 『超葉隠論』を読んで、そんなことを思いめぐらしている次第である。

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