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どこにいたかなんて、これからには関係ない

これから、どこ行くにしても、過去の行き先を気にする?

 昨日、ある動画を見ていて、気づいたことがあります。

 あなたに、お金や時間があると仮定します。

 今、東京や名古屋にいるとして、今日中に大阪に行こうと思ったら、行けますよね。

 都内在住であれば、新幹線で、2時間半ぐらいで着きます。

 その時、「昨日、大宮に行って、神奈川に行って、新宿行って、今、東京にいるので、大阪に行けないです」とは思いませんよね。

 でも、人生の多くの場面で、私を含め、多くの人たちがこういうことをやっている。

就職活動で聞かれるのは、「昨日どこ行ったか?」

 就職活動や人を見る時の発想が完全にこれですよね。

 現在のその人と、その人がこれからどうしていくかを見ないで、過去で判断する価値観・発想。

 履歴書というのは、「昨日、大宮に行って、神奈川に行って、新宿行って、今、東京にいます。これから、ブラジルに行きます。お願いします」という文書なのかなと、思いました。

 「昨日、どこに行ったかなんて、関係なくない?」と思いませんか?

 今、あなたが何をしようとしていようと、昨日、あるいはもっと以前の経歴なんて関係なくないと思いませんか?

過去を知って安心したい

 見る人が安心したいために、過去を知りたいだけに過ぎません。

 でも、過去モテていても、今、モテてない人がいる一方、過去非モテだったのに、ある時、気づいて、努力して、今、めちゃくちゃモテている人って、いますよね。

 「過去がこうだったから、現在、こうです」なら、モテる人は一生モテていないとおかしいし、非モテは一生、非モテのままですよね。

 過去を知って、一体、何が安心できるのでしょうか?

 あなたは、自分の過去と今を比べた時、つながっていると思います?

 それとも、ある時、急に大きく人生が変わっていると、全然別物だと思いませんか?

左脳的発想自体は一種の洗脳かも?

 私は、昨日、「あ、旅行だと、これからどこ行くかを考える時、昨日、どこ行ったかなんて関係ないのに、人生だと、それが重要だと思っていた。思い込まされてきた」ということに気づかされました。

 こういう「過去がこうだったから、現在がこうで、未来はこうなるだろう」という発想自体が、左脳的な発想です。

 左脳・顕在意識は3%に対して、右脳・潜在意識は97%です。

 左脳は、例えば再現性、エビデンス、ソースといったことです。

 コントロールできるとも言える。

 右脳には、そうしたものはありません。完全に真逆です。

 力は右脳の方が強い。

 しかし、ほとんどの人は、3%の左脳で物事を見て、過去を見れば、現在や将来がわかると思っている。

 いや、思い込まされている。

 左脳というのは、そういう「過去、こうだったから、現在もこうなるだろう」という再現性の発想をします。

 そういう意味では、就職活動も人物評価も、すこぶる左脳的だと言えます。

 3%しかないんですよ。何がわかるんですかって話です。

 「あんたの3%の能力で、俺の97%でやってきたことの何がわかるんだよ」って思いませんか?

 履歴書「だけ」で自分を見られた時の怒りや不快感というのは、そういうこともあるのかもしれません。

直感でやってきたネタで書いている

 私は、この文章を、不意にネタがやってきて、書いています。

 この文章に限りませんが、書く時に、私には計画性なんか、ありません。

 「この文章をここに置いて、こういう論理展開で、こういう引用をして、こう終わる」なんて考えません。

 それだと、非常につまらないし、何より、書けないのです。

 佐々木中が『夜戦と永遠』の「序」で言っていることが、「書くこと」についての真理だと思うので、長いですが、引用しましょう。

本を書くということは、本を書いているその時間の当て処なさを耐えるということだ。しかも一貫した、寄せ集めでない本を書こうとするのならば。そう、知っていることを知っているやり方で書くのなら、それは書くことではない。無論大まかなプランはある、長年書きためたノートはある、資料も十分に集めた筈だ。しかし、書くということは本質的に偶然性に身を曝すということである。知らぬこと、知らないはずのことを書いている自分を発見して茫然とすることである。深く自失することである。浅い鼓動を打って日々を混濁させていく健忘と偏執狂的な記憶に苛まれることである。自分の身体でも精神でもないがそのあわいにあってその区分を許すどこかに、少しずつ滲むインクで刺青をして、そしてその文様を知らない自分にまた驚愕するということである。ぼんやりとした狂躁と熱っぽさを湛えた頬と、そして惑いに冷えかつ萎えていく指先のあいだで、何か縺れた呻きを響かせることである。白けた蛍光灯の光の下で、その呻きもまた自分のものでなくなりつつある、あの瞬間を迎えながら。だから、はじめから本の全体の構成を、その論旨を、その理路を、明澄な図式として脳裏に浮かばせることができるならば、本を書く必要はなくなる。すべてがわかっているのなら、なぜ書く必要があるだろうか。すべてがわかっているなどという淫らな幻想に酔い続けるのなら。それはただの知識の複写でしかない。威丈高な、上からものを見た、知識の「教授」だ。しかし、一体それが書くことだろうか。

佐々木中『夜戦と永遠 上』河出文庫、2011、p,19-20

 言語哲学者の井筒俊彦も、ほぼ全く同じことを述べています。

真の書き手にとっては、コトバ以前に成立している客観的リアリティなどというものは、心の内にも外にも存在しない。書き手が書いていく。それにつれて、意味リアリティが生起し、展開していく。意味があって、それをコトバで表現するのではなくて、次々に書かれるコトバが意味を生み、リアリティを創っていくのだ。コトバが書かれる以前には、カオスがあるにすぎない。書き手がコトバに身を任せて、その赴くままに進んでいく、その軌跡がリアリティである。「世界」がそこに開現する。
 これからものを書こうと身構えて、内的昂揚と緊張の状態に入った書き手の意識の深層領域の薄暗がりのなかから、コトバが湧き上ってきて一種独特な「現実」を生んでいく、その言語創造的プロセスが、すなわち、「書く」ことなのである、ということもできよう。

井筒俊彦「読むと書く」『井筒俊彦全集七巻』慶応義塾大学出版会、p.233

 

偶然性に身を曝して、今日一日だけ、生きてみる


 もっと言えば、これは「書く」ことだけに当てはまるのでしょうか?

 皆さんが、今日、これからどこへ行こうと、あるいは何をするにしても、「偶然性に身を曝す」ように、アクションをしてみてもいいのかもしれません。

 いきなりやるのがむずかしければ、一日とか、半日とか、期限を決めてやってみる。

 その間は、不安や、左脳の声を一切無視して、動いてみる、本を読んでみる、勉強してみる、人に会ってみる。

右脳はコンパス、左脳は加速装置

 この3ヶ月あるいは半年、どうも自分が左脳的発想に引っ張られ過ぎていたことに昨日、気付きました。

 と同時に、人生を変える選択というのは、ほぼ常に直感・右脳的だったことにも気付きました。

 実際、右脳・直感による選択は、人生を大きく変えてきました。

 それはそうです。

 だって、右脳・潜在意識の方が97%と、力が大きいのだから。

 右脳はコンパス、左脳は加速装置。

 この区別、知っておくと、いいですよ。

この半年間の気付き

 もう3%の顕在意識・左脳ではダメなんだというのを、この半年ぐらい、様々な形で経験してきました。

 半年前、ちょっと迷ってしまったのですね。外側から強いストレスを与えられれば、そうなるのも、無理はない。

 左脳は、方向を決めた後でなら、非常に優秀です。

 でも、3%しか力を持っていないので、方向を決めることはできません。

 ビッグデータの右脳・潜在意識にはそれができます。

 ・本の著者に会いに行こうとしたとき
 ・コミュニケーションセミナーに行こうとしたとき
 ・白川神道の講座を受講しようとしたとき
 ・ある引き寄せ研究家をフォローしようと決めたとき

 全部、最初は、些細なことでした。

 本屋で本が目に入ったとか、無料講座に出たとか、SNS上での広告を見たとか、誰かのnoteの中で触れられていたとか、そんなことがありました。

 でも、それを目にした時、「お!こっちに行けば何かあるかも」と直感がささやきました。

 左脳からすると、わけがわかりません。

 本当に効果があるのかとか、変われるのかとか、何が起こるのかとか、全くわかりませんから。

 でも、それがあって、今の私がある。

 この半年間というのは、「もっと直感・右脳の声を聴け。信用しろ」というのに気付くための時間だったようにも思います。

 右脳で方向を決めた後は、左脳の加速装置で、動いていく。

 だから、両方、必要なのです。

 文章も、読みやすさとか、わかりやすさを考えるには、左脳の力が必要です。

 右脳はイメージやちょっとした思い付きは得意ですが、言語は左脳の働きですから。

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