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「藤原京の『藤原』って変じゃね?」という疑問を解決します

こんにちは。こんばんは。

学校の勉強や受験勉強、趣味で歴史の勉強をしていると、「何でこうなるの?」と疑問に思うことがよくあると思います。私は高校の時に日本史を選択し、受験では日本史の共通テストを解き、大学に入ってからも歴検一級の日本史にを受検するなど、長きに渡って日本史という科目と対峙してきましたが、勉強するなかで疑問は山のように積みあがっていきました。

今回は私が抱いた数ある疑問のなかの一つについて調べ、できるだけ簡潔にわかりやすく解説をできればと思います。暗記さえすればテストは乗り越えられるかもしれないけど、疑問に思ったことを追求してはじめて、日本史のおもしろさや奥深さに気付けると思います。


今回の疑問


今回扱うのは「藤原京の『藤原』って変じゃね?」という疑問。そこまで真剣に考えたことはなくても、ちょっとは違和感を感じたり、納得いかなかったという人も結構いるのではないでしょうか。平安京に遷都されるまでは、代ごとに都を移すこと度々あったため、日本史の中では○○京や○○宮が頻繁に登場します。都の名前は基本的には長岡や近江大津や信楽など、都の置かれた地名がつけられますし、これはほとんどの人が納得いくと思います。例外的には平城や平安など、唐の影響を受けて縁起の良い名前がつけられることもありましたが、これもまあ分かります。

でも「藤原」って。おかしいと思いませんか?たしかに藤原氏はそれなりに影響力持っているかもしれないけど、国の首都の名前を自分の臣下の苗字にするのは変じゃないですか?今の日本に置き換えると、首都を岸田京や麻生京と呼んでいるような感覚でしょうか?

それに、藤原の全盛期は平安時代なのに、そのときはどうして藤原京と呼ばずに平安京なのでしょう?

これから「藤原京」の名前の意味・由来について話したいと思います。

そもそも藤原京って?

藤原京は694年に持統天皇が完成させた日本で初めての都城です。どういうことかと言うと、藤原京には天皇の住まいである宮が建てられただけでなく、そのまわりに3万人が住む大きな都市が建設されたのです。大和三山と呼ばれる神聖な山に囲まれた藤原京は南北約4.8km、東西約5.2kmと平城京や平安京に匹敵する大きさで、四方に道路が張り巡らされていました。およそ16年間、持統・文武・元明の三代の天皇の都となり、大宝律令という言われる、言わば日本最初の体系的な法律もこの地で定められました。710年には元明天皇が平城京に都を移し、時代は飛鳥から奈良時代へと移っていきます。

「藤原京」と呼ばれる理由

いよいよ本題に入りましょう。なぜ「藤原」が都の名前になったのか。実は、驚きの事実なのですが、「藤原京」という呼び方は当時の呼び名ではないのです。「藤原京」という名前は大正~昭和時代の歴史学者の喜田貞吉さんが命名したもので、当時の記録には「新益京」などと記されています。「新益京」というのは単に「新しい都」というような意味で、地名などに基づいたちゃんとした名前はありません。まあ、16年しか存在しなかったので、わざわざ名前をつけなかったということなのでしょうか。

では、次に浮かび上がる問いは、なぜ喜田さんがこの都を藤原と名付けたのか、ということでしょう。諸説ありますが、万葉集でこの地域の「藤井が原」「藤原」に宮があったという歌が残されている(後世のつけたしという説もある)ことが由来とされています。いずれにせよ、この呼び方が定着し、今でも教科書では「藤原京」の名前が使われています。

そして、ややこしいですが、藤原氏と藤原京は関係ないということになります。都の名前は、あくまで「藤井が原」「藤原」という地名に基づいて名付けられています。

最後に

いかがだったでしょうか。藤原京に関する疑問が少しは解決したでしょうか。これからも歴史の謎について色々取り上げようと思っているので、是非他の記事もご覧ください。


藤原宮跡(筆者撮影)

参考文献


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