罪の声

昨晩、アマプラで
“罪の声”
という邦画を観ました。

グリコ森永事件をモチーフにした映画。
小栗旬と星野源主演の映画。

単なる犯人探しの映画かと
思って観てましたがそうではありませんでした。

往年の未解決事件を題材にした
重層的な人間ドラマでした。

会社(新聞社)で
昭和の未解決事件を追うという企画を
担当することになり、
事件の真相に徐々に近づきながらも
その記事を今、書くことの意味を
自問自答する小栗旬。

小栗旬は
テレビのCMで見かける俳優だな、
ぐらいにしか思ってませんでしたが
この映画を観て、
いい俳優だと思いました。

自分の回りに
必ず一人はいる
気取らない
等身大の
素直ないいヤツ。

というか
小栗旬って
根っから
そういうヤツ
なんじゃないかと
思いました。

一方、
事件の当事者として
一人で事件の真相を追い求める
星野源。

穏やかな今の生活を
守ろうとしながら
怯えてでも
事件の真相に近づこうとする
星野源。

もし、
本当に
そういう状況の人が
いたとするならば
こんな人じゃないか、
と思うぐらいの演技
でした。

星野源って
我々に、
明るい気持ちになる曲を届けてくれる
シンガーソングライターでありながら
俳優としても一流だと思いました。
多彩な才能の持ち主。

平成、令和の日本の
ジャン・コクトー
みたいだな、
と思いました。

この映画の中の二人。
事件の真相を究明したいという目的は
同じでも立ち位置は
全く違う次元にある二人。

私は
そんな二人が
初めて出会ったシーンの後、

星野源は小栗旬に
心を開こうと思うのか?
もし、思うとしたら
それは、いつか?
と思って
その後の展開を
観てました。

そしたら
出てきましたね。
ああ、あの時だったんだ、
と、思いました。

その後、

さらに
断片的な当時の事柄が繋がり、
事件に翻弄された
何の罪もない
当事者と当時の様子が
徐々に
浮き彫りにされていきます。

そして
エンディングを迎えます。

ラストシーンは
事件に翻弄された
当事者の無念と自責の念
を感じさせる悲しいシーン
でした。

でも、
そこには
希望がありました。
小栗旬と星野源が
もたらした希望。

ちょっと
うるうるした
目頭をおさえながら、
この映画を観終えた後

私は、
この小説を書いた作者、
この映画を作った監督が
伝えたかったことは
◆希望を持ち続けることの大切さ
ではなかったか?
と思いました。

希望を持っていれば
◆もう、だめだ。
と思っている自分に
◆いつか、ある日、
◆自分の環境を変える
◆何かが働いて
◆その希望は訪れる。
◆人生って
そんなんじゃないでしょうか。
◆そうあってほしい。
ということを
この作者、監督、俳優、女優は
伝えたかったのでは
なかったか?

そう思いました。

そしてまた、
このラストシーン。
どこかで似たシーンがあったな。
昔、読んだような、
挿絵で見たような...。

ずーっと
考えてたら
今日、
思い出しました。

あのシーンは
◆森鴎外の山椒大夫
◆安寿と厨子王、
のラストシーンだったと。

この映画に出てくる
私の中の厨子王は
◆山椒大夫、
◆安寿と厨子王、
の厨子王とは
真逆の設定。

でも
最後に
出会えた。
出会えてよかった。

◆罪の声
◆山椒大夫/安寿と厨子王。

テーマは
◆家族愛と
◆希望
なのではないか、
と思いました。

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