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Episode1 「流浪の果てにフィリピンへ」

「日本の高齢化問題の解決策はフィリピンにある」

そんな信念を持って、日本を飛び出し、フィリピンンへやってきました。福祉の大学を卒業し、日本とアメリカで介護福祉士(ケアギバー)として、主に高齢者施設で働いてきました。

2012年、私が32歳の時に、フィリピンの首都マニラでシニアビジネスに特化したコンサルタント会社を起業しました。

私が大学に入学した2000年に介護保険制度が始まり、突然3兆円規模のビックマーケットが誕生しました。

この介護保険の主役は、もちろん高齢者です。私は入学と同時に、給料が高いという理由だけで、在学中の4年間、特別養護老人ホームで夕方5時半から翌朝9時半までの16時間の夜勤バイトを続けてきました。

最初はオムツ交換などの仕事に抵抗がありましたが、半年過ぎたころには「自分はオムツ交換のスペシャリストだ!」と、うぬぼれるくらい上達しました。

さて、みなさんもご存知ように、介護業界は今後、確実に成長していくマーケットです。何となく福祉の大学に入り、お金に釣られて高齢者施設でのアルバイトを始めたのですが、介護という大きな可能性を秘めているマーケットに、20歳という若さで辿り着くことができたのは、とても幸運だったと思います。

ただ、私がイメージしている介護サービスと、実際に提供されているサービスには大きな隔たりがありました。

介護は究極のサービス業

私は、介護を「究極のサービス業」と捉えています。ホテルやレストランのように、価格に見合う接客を提供して、お客様に喜んでもらう、そのサービス内容が「介護」なのです。

私が歳をとって介護が必要になった時、多少高いお金を出してでも、オムツ交換の上手な人からサービスを受けたいと思います。

想像力を働かせて、ご自身がオムツ交換を受けるシーンを思い浮かべて下さい。私が介護を「究極のサービス業」と捉える理由が見えてくるかと思います。

この先、サービスを見る目が厳しい団塊の世代が、介護を受けるようになるのです。接客の視点のない介護サービスは通用しなのではないかと、当時から考えていました。

大学3年生の時に、いつくかの高齢者施設を回り、私の介護サービスのアデアを担当者にぶつけてみましたが、どこの施設からも相手にされませんでした。今思い返してみれば、ビジネスが何たるかも知らず、アイデアも稚拙だったので当然の結果です。

ただ、昔から根拠のない自信だけは十分に持っていた私は、「日本で自分のアイデアが受け入れらるまでにはまだ時間が掛かる」と判断し、アメリカに留学することにしました。

あの人気漫画「課長島耕作」のような、海外でも通用するビジネスパーソンに憧れを抱き、まずは英語のスキルを身に付けなくてはならないと考えたのです。

旅の途中で転機が訪れる

さて、そんな行き当たりばったりの私の人生に、再び転機が訪れました。2008年にEPA(経済連携協定)がフィリピンと結ばれ、フィリピン人看護師、介護士に日本での就労チャンスが認められたのです。

アメリカの医療現場には多くのフィリピン人看護師、介護士が働いて、私はその労働力に以前から注目していました。

日本の介護現場で良質なサービスが提供できない最大の理由は人手不足です。「究極のサービス業」としての介護サービスを提供するためには、まずこの問題を解決しなくてはなりません。

EPAの情報を知った時、私は南米ペルーにいました。ちょうど留学先のサンフランシスコから、東へ東へ日本を目指して世界一周の旅の途中でした。

そこで、ただ漠然と旅を続けるよりも、フィリピンで将来のビジネスチャンスを探したほうが良いと思い、旅の最終目的地をフィリピンに変えました。この決断が、自分の将来を変える大きな転機となったのです。

バックパックを背負った貧乏旅行で、フィリピンに着くころにはあまりお金も残っていませんでした。お金もなく、知り合いも誰もいないこの国で、いったい何ができるのだろうか。

マニラの空港で、自分の小汚いバックがベルトコンベアから運ばれてくるのを待ちながら、期待と不安の入り混じる不思議な気持ちを今でも覚えています。

ただ、きっと上手くいくだろうという直感はありました。なぜなら、フィリピンは、私の憧れているビジネスパーソン、「島耕作」が赴任した国でもあったからです。

前置きが長くなりましたが、次回から、「介護」「ビジネス」「フィリピン」をキーワードに、私の感じたことを、ここフィリピンからお届けします。

Written in September 2013



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