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元中国大使が語る 外交官の人生を通して得たもの

5月20日(土)、都内でJACCCOと各青年団体が共催したユース・セミナー「元外交官が語る 世界の最前線で働く」。本セミナーには、かつて外交官として中国大使などを歴任し、今はJACCCOで理事長を務める宮本雄二みやもとゆうじが登壇。外交の現場の最前線に立ってきた宮本が、集まった青年たちに語ったこととは――。

文・写真 JACCCO youth


外交の役割は 戦争の防止

 今日はこういった形で、若い皆さんとお話ができることを心から嬉しく思っています。

 私は1946年に福岡県太宰府市で生まれました。私が子どもの頃は人口1万人ほどの小さな町で、学校のクラスの半分は農家の子たちでした。まさか自分がそこを飛び出して、外交官として生きることになるとは、当時は夢にも思いませんでした。偶然が重なって、今日を生きているのです。

 外交官を志したきっかけのひとつには、京都大学に進学して、1年生の秋に父が亡くなったことが関係しています。私は5人兄弟の末っ子だったもので、母から大変に可愛がられて育ちました。母親っ子だと思っていた私は、父の死を経験して初めて、自分の心のなかに父の占めるウェイトが想像以上に大きかったことを知った。しばらくは茫然自失の日々が続き、何も手につきませんでした。

 このままでは自分はダメになってしまう。自分の人生は自分で切り開かねばならない――。気持ちが沈んだ日々のなかで、そう決意した私は、将来の選択肢をいくつか考えました。そのなかの1つに外交官があったのです。

 私には当時から今日まで続く問題意識があります。それは「どうして日本は負けると分かっていたアメリカとの戦争を始めてしまったのか」ということ。国力の差が歴然としているにもかかわらず、私の父の世代、さらにその上の世代の人たちはあの戦争に踏み切った。いったい、どうしてそんな間違いを犯してしまったのだろうか。それに対する答えを出すことが私の課題だと決めて、今もあの時代に関する勉強は続けています。

 正直なところ、勉強すればするほど、その問いへの答えを出すことは難しく感じます。しかし、1つ確実に言えるのは、「戦争を防止するのが外交の役割」だということです。戦前の日本が犯した過ちを繰り返さないために、外交は大きな役割を果たすにちがいない。戦争の勃発は、外交の敗北を意味する。これは今日まである私のバックボーンです。

 外務省の試験を受けようと決めたものの、〝外務省はハードルが高いのではないか〟とのイメージが私のなかにありました。決して裕福な家庭に育ったわけでもなく、さらに父を亡くしたばかりの自分は、外交官になれるのだろうか。そんな思いを抱えていた私の背中を押してくれたのが、当時、京都大学で国際法を教えていた田畑茂二郎たばた しげじろう先生でした。田畑先生は外務省の試験官も務めていました。

「宮本くん、外務省は決して家柄なんかで人を判断しないよ。誰が入ってもいいんだ。むしろ、君のような人間こそ外務省に入ったほうが良い。試験を受けなさい」との先生の言葉に私は大いに元気づけられました。

 それから勉強に励み、1969年に外務省の門をくぐりました。世界は冷戦の真っただ中。私はアジア局中国課に配属されました。

今、この場所に、生まれた意味

 当時の日本は、中華民国と国交を結んでいたので、私は台湾で2年間の語学研修を受けました。ある年、中華民国がナショナルデーに定める10月10日の「双十節そうじゅうせつ」のセレモニーに参加すると、4、5メートル先に蒋介石しょうかいせき総統がいました。歴史の教科書に載っている人物が目の前にいることに、不思議な気持ちになりました。同じような感覚は、周恩来しゅうおんらい総理にお会いしたときにも抱きました。

 あとになって分かったのは、歴史上の人物に会えるのは、若者の特権だということです。同時代の人は、なかなか歴史上の人物にはなりませんから。

 自分が生まれた〝時〟というのが、実は私たちの人生では決定的な意味を持っています。宇野宗佑うのそうすけ元総理が外務大臣だった頃、私は秘書官を務めていました。宇野さんと私はどちらも干支が「いぬ年」なんです。宇野さんが1922年生まれで、私が1946年生まれ。ちょうど24歳の年齢差でした。

 宇野さんがあるとき、私にこう語りました。「宮本くん、私の小学校の同級生の男子はね、半分があの戦争で死んでいるんだ」

 私は彼らの24年後に生まれただけです。そこに個人の生き方や、人間性なんて全く関係ありません。どれだけ立派な生き方をしていたとしても、半分の人がそこで死んでしまった。私と彼らとでは、ただ生まれたタイミングがちがっていただけです。

 自分はどこで、どういう時代を生きているのか。このことを皆さんにもよくよく噛みしめて、考えてほしいんです。これは今日皆さんに伝えたい最も大切なメッセージの1つです。

 もし私が1946年のベトナムに生まれていたら、随分とちがった人生を過ごしていたでしょう。青年期にベトナム戦争が勃発するわけですから。自分が戦後の日本に生まれたことが、どういう意味を持っているのか。平和がどれほど大切なのか。このことを私も強く自覚しています。

 宇野さんの世代の人たちは、戦争の悲惨さを現場で経験しています。戦争経験とは、決して広島・長崎の原爆投下や、沖縄の地上戦などだけを言うのではありません。日本軍もまたアジアの各地を侵略したんです。そこであってはならないこと、目もあてられないようなことを行った。

〝勝とうが負けようが戦争はしてはいけない〟――それが宇野さんの世代の人たちの確固たる信念でした。それを私たちも心から受け止めなければいけない。

 平和は人から与えられるものではありません。当たり前のようにあるものではありません。自分たちが知恵を絞り出して、必死になって守っていくものです。その視点に立って、日本だけでなく、国際社会全体を見渡してください。国際社会を、今よりももっと平和な状況に変えていく。そう強い信念を持って生きないと、世界のどこかで不幸な人が続出します。


複眼的思考で世界を見つめる

 今日はまだ中国の話をあまりしていませんね。私が最初に中国への関心を抱いたのは、子どものころに児童向けの雑誌の付録にあった『三国志』に引き込まれたことでした。『水滸伝』の愛読者でもありました。年齢を重ねるにつれて、その年齢向けの『三国志』『水滸伝』を読み直してきました。

 私が京都大学に進学したのは1960年代。ちょうど中国では文化大革命が起きていました。あの当時の日本の学生の間には、「社会主義を学ばなければインテリではない」といった雰囲気があって、私も社会主義や毛沢東思想なんかを学んだりしました。

 実は、私は外務省には、第3希望として「中国語」と「ロシア語」を記入したんです。中国やソ連は国として面白いなとは思っていたものの、第1希望は英語で、第2希望はフランス語と書きました。ところが、その年の入省者で、第3希望までを含めて「中国語」「ロシア語」を記入したのは、私と京大の同級生の2人だけでした。私には中国語が、彼にはロシア語が割り当てられました。

 それで先ほども言った通り私は台湾で語学研修を受けました。その後、アメリカでの3年目の研修を終えて、1973年に日本に帰国したときには、すでに日本は中華人民共和国と国交を正常化していました。これには私も困惑しました。「イデオロギーの異なる中国共産党の人たちとうまく付き合っていけるだろうか」と。

 その最初の時期に仕事で出会ったのが、後に中国外交部で外務次官にまでなった武大偉ぶだいいさんでした。1970年代当時、私は外務省で中国課長の通訳を務め、武さんは東京の中国大使館で政務担当参事官の通訳を務めていました。武さんたちは、日本政府の刊行物に台湾の表記の仕方が間違っていると、抗議のために1週間に何度も外務省に来ていました。

 私と彼とでは当然、異なる考えが多くあります。しかし、仕事をするなかで、武さんが人間的には極めて信頼できる人だということがよく分かった。日本と中国とでは国情が異なります。政治・経済体制もちがう。そうしたなかでも、きちんと信頼できる人がいる。人間にとって信頼関係は本当に大切です。中国と付き合い始めて、最初に武さんと出会えたことは、今振り返ると大変幸運な出来事だったと言えます。

 日中の間には、今も数多くの問題が横たわっています。しかし、外交的に解決できない問題はないのです。そのために私がいつも強調するのは、「世界全体から日中関係を考えよう」ということです。

 たとえば、日中間にお互いに譲れない問題があったとします。両国がお互いの立場だけに立って、自身の正当性を主張していたら、当然話し合いは前に進みません。それどころか、事態がヒートアップして、正面衝突の可能性が高まってしまうことになりかねない。そうしたときに、視点を「日中」から「世界全体」に移してほしいのです。世界全体の平和を考えたとき、東アジアを不安定にしてでも、それは争い続ける必要のある問題なのか、と。

 世界に視野を置くと、気候変動の問題をはじめ、日中が協力しないといけない課題はたくさんあります。ぜひ皆さんも、何か問題にぶつかったときは、1点からだけでなく、複数の角度から考えることを意識してください。そこから、何らかの解決の糸口が見えてくるはずです。

 複眼的な思考を持って、世界を見つめること。これを最後に付け加えて、今日の私の話としたいと思います。

【登壇者 プロフィール】
宮本雄二。1946年、福岡県生まれ。京都大学法学部卒業後、1969年に外務省に入省。軍縮課長、中国課長、米国アトランタ総領事、軍備管理・科学審議官(大使)、駐ミャンマー大使、沖縄担当大使などを経て、在中国日本国大使館特命全権大使を歴任(2006~2010)。2010年に退官。現在は、一般財団法人日本アジア共同体文化協力機構(JACCCO)理事長などを務める。著書に『2035年の中国』(新潮社,2023)など他多数。


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