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東日本大震災から10年。あの日あの時あの期間、私は自衛官としてそこにいた。③

東日本大震災から10年。当時の出来事を残しておこうと、このシリーズを書いています。

まず初めに、この災害で命を落とした方々のご冥福をお祈りいたします。

これまで本シリーズは2本のnoteを書いています。この記事を読む前に以下の記事をお読みいただけると話がわかるかと思います。

ロウソクの明かり。〜夜はこうして過ごしていました〜

パイロット学生の部屋。私たちの部屋は同じフライトコースの同期6名で被災地生活をしていました。
日中は各々与えられた作業をこなし、日没と共にこの部屋に戻ってくるという毎日でした。

1日の仕事を終えた後(被災地にいる被災者でもあるけど、自衛官として災害派遣なども出てました)、長い夜が始まるという感じでしたね。

ただ、私としては

フライトしているときには考えられないほど充分な睡眠が取れる

ということで、むしろ普段より体調がいいくらいでした。

部屋は暗くなってくると、同期が持っていたロウソクを部屋の中に灯し、それを明かりとして食事をしたり、タオルで体を拭いたり、歯磨きしたりという感じです。
もちろん懐中電灯などはあるので、隊舎内を移動する時はそれらを使用していましたが、部屋でずっと電気をつけておくと電池がもったいないので、部屋ではロウソクでした。

特に新しい情報などは津波から数日間全く入ってこないような状況でしたが、大きな心配はありませんでした。

心配があるとすれば、

自分たちはいつになったら戦闘機部隊に行けるのだろうか・・・

ということと、

いつになったら外部(家族や恋人)に連絡できるのだろうか・・・

ということくらいでした。

そういった心配事を話したりもしましたが、数日するともう少しフランクな会話になってきます。

普段から同期というのは、お互いのことを大抵オープンに話すんですが、この時はさらにオープンにいろんなことを話しました。
話すネタが無くなってくるんですかねw


私は昔バンドをやっていて、ギターを隊舎にも置いており、たまに弾いたり作曲したりしていたので、被災したときでもギターを弾いたりましたね。
前の記事で書いた通り、元々の私の部屋は1階でほとんどのものが流されたり、浸水したりしていたんですがギターは生きていました!!

1階の水位が下がり、部屋を確認できるようになったときに、貴重品と共に持ってきました。

歌は世界を救う!!

といって、半分ふざけてですがみんなが知っているような有名どころの曲を引き語りしたり。(ギター専門で歌はジャイアンなみですがw)

他の部屋(別のフライトコースの部屋)でも、ウォークマンなどで音楽をかけたりしていました。
被災のショックは私たちにとってはすぐに引いていくものだったんでしょう。全員が独身で、同期や教官、身近な人が誰も亡くなっていないということもあるでしょう。
このとき、基地の外がどんな状況かは全くわかりませんでした。

記録を残すために

通常パイロット学生は飛行隊以外の所属になることはありません。でもこの時は例外中の例外です。そんな悠長なことはいっていられないくらいの状況でした。

私は「広報班」というところに臨時的に配置されました。

そこでの仕事は、「記録を残すこと」でした。
あとあとになって思い返すと、こういった経験を後世に伝えることで、教訓にし次に同様のことが起こったときに、この東日本大震災での経験や記録が被害予防や、早期復旧の役に立つんだと感じます。

カメラを持ち、現場に出て様々な写真をたくさん撮り、それをどんどん報告として上げていく。

これは今までとは全く違った「仕事」という感覚もありました。

パイロット学生は「将来国防の最前線で活躍するためにまずは、自分の技量を磨く」ということが仕事となります。

しかし、この緊急事態においては「状況を指揮官に伝え、適切な判断要素となる資料を収集する」または「今後のための資料となる素材を蓄積する」ということで、これは紛れもなく直接的に国や組織のためという感覚です。

とはいえ、広報班での勤務は和気藹々としておりとても居心地のいいものでした。

頭から離れない「ポポポポーン」

発電機などが使えるようになってくると、テレビなどで情報を仕入れることが可能になってきました。

通常であれば番組の途中には様々なCMが流れるんですが、この時はほとんどが「ACジャパン」のCMだったことを今でもはっきりと覚えています。

同期や他の隊員のみなさんも口遊んでしまうほどのインパクトと継続配信でした。

滑走路OPENと悪天候〜米軍C-130輸送機〜

日々滑走路のオープンに向けてたくさんの隊員が作業していました。

そしてやっと滑走路がオープンしましたが、この時期は天候が悪いことが多く、着陸予定のときも非常に低い雲が空を覆っており、

これはウェザーリストリクション切ってるかな?着陸はできないだろうな・・・

と思っていました。

案の定、1回目のアプローチでC130はゴーアラウンドしていきました。

機影は完全に雲の中で、地上からは見えないものの、着陸復行していくのは音でわかりました。

しかしながら、少ししてまたC130の音が近づき、アプローチしていることがわかりました。

そして、、、

ランディングした!

この時滑走路オープン以降初めての輸送機の着陸でした。エプロン地区(中期地区)では物資をおろすためにフォークリフトなどが準備され、速やかに物資を格納庫内に下ろしました。

そこに積まれていたのは大量の水。これらは陸上自衛隊のトラックに積み込まれて気仙沼や陸前高田の被災地に届けられたと思います。

輸送機のパイロットは難しい気象状況の中着陸を成功させ、そして物資を届けました。(いろいろな議論があるようですが、当時現場にいたものとしては「頼もしい」と純粋に思いました。)


日常化していく

このくらいになると被災の不便さが日常化していくんですね。

要は慣れてくるんです。トイレが使えない、暖かい風呂に入れない、美味しいものが食べれない・・・。

隊員としては当たり前ですが、このような不便に文句をいう人はいません。それほど大きな被害だったんですから、生きているだけでありがたく、生きているからこそその与えられた命で、今困っている人に支援をする。自衛官として。

そんな気持ちもありますが、そもそも慣れてくると不便な状況でも普段通りのポテンシャルが発揮できるようになります。

指揮系統は概ね確立され、指示や命令はスムーズに伝達され、新しい情報は迅速に共有される。

慣れはすごい。人間に与えられた生きてく上での能力なんでしょうね。


仮設浴場開放

ここからの話は次回の最終章で触れていこうと思います。


ということで、今回もピュアレストな恥ずかしいリアルを有料で以下紹介します。心から恥ずかしい。書くけど全然読まなくていい・・・と本気で思ってますw

だから有料で・・・。

被災時の交換ノート〜私が記していたモノ〜

さて、purestな記事も3回目となりました!
これを読みたい人ってどれくらいいるんだろう?と思いながらも、まとめていきたいと思います。

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