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東日本大震災から10年。あの日あの時あの期間、私は自衛官としてそこにいた。最終章

あれから10年。

まずは東日本大震災で被害に遭われた方々にお見舞い申し上げるとともに、亡くなった方々に哀悼の意を表します。

このシリーズは全4回で、この記事を読む前にこれまでの記事をご覧ください。

仮設浴場開放

少なからず基地の外で行われる災害派遣にも同行して記録を写真として修めたりしましたが、それでも大半は基地の中にいました。

そこでは基本的に一般の被災者(隊員以外の地域の方々)に会う機会はほとんどありませんでした。

しかし、ついに松島基地内にも陸上自衛隊が設置した仮設浴場ができました。もちろん隊員が入る前に、一般開放されました。

私も最初の解放の時に付近を通りがかりましたが、その時初めて、、、

ありがとうございます。

とお礼を言われて、、、

浴場に関しては私は何もしていない。でもこうやって形は違えど少しでも近隣住民の方の安心や普通の生活を取り戻すための「仕事」をするということのやりがいを感じる瞬間でした。

あっ、こういう時のための自衛隊であり、自衛官なんだ・・・と漠然と思いました。

笑顔で

ゆっくりしていってください。頑張りましょう!

とお返ししました。これを書きながらでも鮮明に覚えている記憶で、きっと一生忘れないと思います。

そして不便や混乱の中でも、働いているのは人間であり、苦情や非難を受ければ悲しいし、お礼を言われれば嬉しい。私自身、そんな状況でもお礼を言って下さった方のような人でありたいと思いました。


肝心のフライト訓練は!?

なんと言ってもフライト訓練。

これは私たちが常に気にかけていることでした。そもそも被災したその時はそんなこと考えている余裕はありませんでしたが、物資が充実し、県外からの支援なども定期的に受け入れられるような状態になると、

学生を本来のコースに

ということも考えられ始めます。

そして雑誌などでも取り上げられましたが、私たち21飛行隊は松島基地を離れて、青森県三沢基地で「移動訓練」することになりました。

私たちのコースは訓練自体がすでに後半戦に入っており、最後の検定までの短い期間を三沢で訓練させてもらいました。

当時訓練環境の違いを感じられるほど、知識も技量もなかったのですが、松島と違い、当時の三沢には第3飛行隊(後日私が配属になる飛行隊)と第8飛行隊、そして米軍F16の飛行隊、E-2Cなどがあり、エリアタイムなどもキツキツで元々三沢にあるTACの方々に大変お世話になったんだなぁと思います。

訓練は3飛行隊、8飛行隊からF-2B(教育用の複座)を借りて行い、編隊長として飛ぶ教官はF-2A(単座)にのるという形でした。

F-2Aにはウェポンパイロンが搭載されていて、当時B型しか目にしていなかった私は「これがTACの戦闘機か。」という憧れも感じたり・・・。

訓練再開に伴う様々な調整など学生のわからないところでは目まぐるしく忙しかったと思います。それでも国としてパイロットの供給を長期間止めるわけにはいかないので、この「移動訓練」という形での教育再開は必須だったと思います。

三沢での生活を思い出すと・・・

初めて経験する米軍基地ということもあり、新鮮でした。

松島基地の被災状況を忘れるほど基地として正常に機能しています。

売店もあります。アメリカのバーガーキングやMOKUTEKIカフェなどもありました。何より米軍のジムはすごいと思いました。私たちは定期的に同期で筋トレしにいったり、基地内のファストフードを食べたりと、松島ではない生活でした。

憧れのTAC先輩ともそこで再会することができました。
航空学生のときに一度お会いしたことがあり、ずっとかっこいいなぁと憧れていた先輩が、3飛行隊のパイロットとして飛んでいるのを隣で見て、相当なモチベーションになりました。

それもあり、私は21飛行隊卒業時には第3飛行隊を希望して、希望通りそのまま三沢基地に配属となりました。

配属後、震災時にスクランブル発進したのが3飛行隊のF-2だと知り、実際にスクランブルで上がった期別の近い先輩に当時の状況を聞いたりもしました。


これまでの10年

東日本大震災から10年。当時私は自衛官としてそこにいました。この経験は私の人生を大きく変える経験だったと思います。仕事、家族、趣味娯楽、、、様々な人生の要素をより解像度を高めて見るという視点がもてるようになりました。

私は幸にして、この震災・津波で近しい人をなくしたりはしていませんが、その状況の真っ只中にいて感じたことはたくさんあります。

今では退職してWEBや映像、情報発信などの仕事をしていますが、あの日の経験と、それからの10年は私にとって財産となっています。

被災当時彼女だった人も、今では妻となり、子供も生まれて新しい生活をしてきました。

戦闘機部隊で勤務した日々、サーフィンをしたり、家族旅行をしたり。

そして今では起業して2社を経営しつつ、家族との時間を十分に持ち、将来の設計をしています。


命あってこその人生。大切なものを失わないための最大限の努力。家族にとっての幸せ。日本という国の人々の幸せを願いつつ10年間生きてきました。

あの日の記憶や経験を常に思い出しているかと言われればそうではありません。

防災グッズなど、いつの間にか意識していない自分にふと気づきます。
この10年の節目に今一度、あの時のことを思い出す機会になり、このnoteを書いた次第です。


リアルな状況はそうそう多く語られるものではありませんし、こう言った発信をよしとしない人も多いと思います。しかしながら、事実は事実として残し、いつか誰かの役に立てばいいと思っていますし、そうならなくてもいいと思っています。

どんな人生を生きていけるか、与えられた命を大切にしていきたいと思います。あのとき支えてくれた現在の妻にも感謝して、生きる意味を与えてくれて日々幸せを感じさせてくれる子供たちにも感謝しつつ、これから何十年も生きていきます!

最後まで拙い文章にお付き合いいただきありがとうございました。

改めて、東日本大震災で被害に遭われた皆様にお見舞い申し上げます。

Remember 3.11



最後に私のリアルな恋愛事情を毎回のことながら有料でw

完全プライベートなことであり、大した教訓になるところはありませんが、シリーズで続けてきたので今回もお届けします。

はい!正直言って今回は特に価格に見合った価値はありません!断言しておきます。読まない方がいいかもしれません。高いですwww

被災を乗り越えた交換ノートの行方

自衛官、戦闘機パイロットと付き合ったら、こんな感じなんだなぁと少しでも参考になればいいんですが、全然そんなことなくて申し訳ない限りです。

しかし、このノートは私たち夫婦にとっては本当に大切なモノです。宝物ボックスに入れて保管してます。

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