東日本大震災から10年。あの日あの時あの期間、私は自衛官としてそこにいた。②
まず初めに、10年前の災害で亡くなられた方々に対し、哀悼の意を表します。
前回の記事の続きです。まだお読みになっていない方は、まずそちらをご覧ください。
津波。それからの生活
津波がきたその瞬間は、全く実感が湧きませんでした。被害の状況は目に見える範囲でしかわからず、とにかく身動きが取れなかったので、雑魚寝で一晩を明かしました。
被害状況がわからなかったので、まさか自分自身が心配される状況に置かれていることなど想像もしていませんでした。
その時いた隊員のうち家族とともに生活している人たちはとても不安だったことでしょう。
自分のことよりも家族が。
私のようなパイロット学生の多くは独身で、近くに家族はいないことが多いので、まず自分が生きていることさえできればあとはなんとかなるという思いもあったかもしれません。
津波到達からの日々は全てが非日常でした。
津波到達翌日から
次の日になってもまだ水は引かず、浸水状態が続きました。
当然のことながら電気も使えません。そしてもちろん飛行訓練どころではなく、基地機能が完全に麻痺してしまっています。
少なくとも前日にフライトの準備なんてしているどころではありません。
テレビなどもなくとにかく情報がほしいと思いました。
基地自体、通常であれば中央やその他基地の外部と連携する手段はいくつもあります。
秘匿電話を含む電話、携帯、電子メール、無線、、、
その全てが使える状態ではありませんでした。何しろ電気がない。アンテナなども破損している。
何より、地面や建物1階に保管されていたもののほとんどが海水により使用不能になっていたり、そもそも流されてしまい見当たらなかったりと。
隊員は自分の隊舎の様子もみに行くことができませんでした。それは浸水しているという理由もありますが、何より緊急事態発生時には統率を乱してはいけないことを知っているというのもあるでしょう。
自分勝手な行動は取らず、指揮官の統制下に入り掌握を受け、命令にいつでも対応できる状態を無意識に整えていたんだと思います。私もそうでした。
飛行場の要である滑走路
松島基地にももちろん滑走路があります。しかし津波がきた以降、滑走路も浸水していました。
いつも使用していた滑走路が水に浸り、泥で茶色くなってしまっています。
こういった災害の時、もし滑走路が使えれば空路を利用して遠方からも大量の物資が迅速に運べます。
被災地ではインフラが完全に止まっていたので、当然水も出ませんでした。このとき思ったのが
やっぱり水は大事!!
もし自衛隊の輸送機C130が滑走路に着陸できたとしたら、浸水で車両が通れない場合でも滑走路さえあれば、大量の水を持ってきて、基地周辺地域くらいには配布できたりするんです。
そういう意図もあってか、この時も被災した松島基地の隊員は滑走路の復旧を急いでいました。
私たちパイロット学生は
当初は状況把握もままならない状態だったので、ひとまずフライトルームなど飛行訓練で使っていたところの復旧作業に当たりました。
F2の技術指令書(分厚い説明書のようなもの)などを水の中から救出し、一枚一枚乾かしたり・・・。
掃除をしたり。
そんな中で奇跡的に泥の中から携帯電話が出てきた同期もいました。(ただし付近の電波塔もおそらく完全に機能停止していたので、長らく圏外の期間がありましたが。)
学生に限らず、教官たちも同じように自分たちが利用していた施設の復旧作業にあたりました。
フライト訓練の時とは違い、教える側と教わる側ではなく、同じような作業を一緒にやるというちょっと違和感があったなぁと思います。
しかし、このような作業は長くは続きませんでした。被害状況がわかってくると、他にも「基地として、自衛官として」やらなければならないことが組織としてわかってきたので。
しばらくして私は基地の広報班に入ることになりました。この話はまた後ほど。。。まずは生活のことを。
電気がない、水がない生活
まず、最初に言ったように電気がないんです。
基地内の電灯も、室内の照明もつきません。夜は文字通り真っ暗でした。
津波によりいろんなものが散乱していたため、夜間の作業などは一切できない時期が続きました。
3月中旬ということもあり、日は長くなりつつありました。
日の出と共に起床し、日の入りと共に作業終了という、フライト訓練がある時には考えられないような1日のスケジュールです。
電気が全く使えないと、原始時代に戻ったような感じがします。
そしてもう一つの問題は水が不足するということです。
幸にして基地の中にはタンク車のようなものがあり、最低限の水は私たちにも与えられました。
ペットボトルに水を入れて、少しずつ使いながら歯磨きしたり、体を拭いたり。お湯はないので、どんなに寒くても水でタオルを濡らして体を拭いていました。
トイレもなかなか困り物で、レバーを捻っても当然水は流れません。
トイレ用の水をバケツに入れて流すという感じです。
水を大量に使うわけには行かないので、普段のようにトイレを掃除したりもできません。衛生的にもあまり良くない状況。
こんな状態でも、人はすぐになれるんですね。最初は不便を感じましたが、ちょっとすると「トイレでようを足せるだけありがたい」という感じでした。
寝泊りはフライトコース全員が同じ部屋で
パイロット学生は松島基地では通常2人1部屋で2階建の学生隊舎で生活しています。松島の学生舎は結構綺麗だったので普段はすごく快適です。
しかし津波の浸水で、1階に住んでいた人は部屋を無くしました。もちろん部屋の中にあった私物もかなり流されたり、無くなったり、壊れたり。
私もロッカーに入れていたもの以外はほとんど全て使い物にならない状態でした。(特に高価なものはなかったし、服なども基本的には訓練で切るものばかりだったのでダメージはかなり少なかったです。)
私物の中で唯一金額的に高価だったものはパソコンでしたが、これはロッカーの中の上のほうにあったので奇跡的に助かりました。
同期の中には高級な腕時計が流されたりした人もいました。
後々になって、他にもパソコンよりも大事なものがあったことに気づきましたが、それは有料部分で・・・w(当時の彼女との思い出の品・・・)
1階部分が使えないということで、学生舎に住んでいたパイロット学生は全員2階で生活することになりました。
6人で一部屋だったかなぁと。
航空学生時代からすでに4年以上一緒に苦楽を共にしてきたので、パーテーションなし、プライベート完全なしでも全然気にならない間柄というのがこんなところで強さを発揮するなんて思ってもみませんでした。
日中はそれぞれの業務を行い、日の入りと共に一つの部屋に戻ってきて、いろんな話をしたのを覚えています。
アシスタントコマンダー(私たちのフライトコースを直接担当していた教官)が部屋に来て、部隊の話や普段はしないような雑談なども、ロウソクのあかりの中でしていました。
ここまであまり触れていませんが、日中は皆、各部署に配置されて復旧作業を一生懸命基地の隊員が一丸となってやっていたことはいうまでもありませんね。
Rescue Heroは文字通り「ヒーロー」だった
被災から1日か2日(正確には覚えていません・・・)、外部から人が基地内に入ってきました。
航空自衛隊の救難機「UH60J」です。
おそらく通信途絶で基地内の状況が自衛隊トップの人たちも確認できない状態だったので、これが初めて外部に松島基地の状況を伝達することができた最初の機会だったのではないでしょうか???
まだ基地内は完全に水がひいてはいない状態。
そんななか唯一接近できるのはヘリコプターでしょう。私たちは本部庁舎の屋上にいました。
明らかにヘリの音が近づき、その音の方を見るとUH60Jが!!
初めて要救助者の気持ちになった気がしました。(実際は救助されるわけでもないんですが・・・)
自分ではどうにもできない危機的状況で近づいてくるUH60はまさしく「レスキューヒーロー」でした。あの姿は今でも目に焼きついています。
そして、その後のパイロット生活の中でも安心して訓練や実任務で戦闘機に乗っていられたのも、あの時みたUH60Jの頼もしさが記憶に残っていたからかもしれません。(必ず助けに来てくれる存在だなぁと。)
庁舎の屋上には着陸できないので、救難員が降りてきて無線機を渡していたような気がする。
情報を正確に適時適切に共有できる状態って、特にこういう緊急事態では必要なんだと実感しました。
とにかく、UH60Jのパイロットになりたいと思えるほどカッコ良かった。
このシリーズ、濃厚で強烈な経験すぎるので、毎回最後に当時の私の被災時の恋愛事情、リアルな感情を書いています。とはいえ、普通あまり語られないこういう個人的なことも書く意味はあると思っています。「自衛官である前に、一人の人間あり、普通の人と変わらない」ということもわかってもらえたら、自衛官に対する理解が深まるんじゃないかなという思いもあります。
震災前から日課にしていた彼女との「交換ノート」。
被災した時の、お互いの心境や状況が残っているので退職後も何度か見返して、当時のことを思い出してます。
そして、だいぶ恥ずかしいので前回に引き続きここからは有料で・・・w
読みたい人だけ読んでください。オフィシャルなことはここまでですでに書いているので、むしろ読まなくていいですw
震災時の交換ノートには・・・(彼女が記したモノ)
前回は、当時の彼女(現在の妻)とのpurestなw交換ノートについてお話しました。
今回は東日本大震災の時、その交換ノートに彼女がどんなことを綴っていたのかを話したいと思います。
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