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ADHD女性が受け取っているメッセージ

ADD・ADHD女性に対する応援メッセージとして書かれた本「片づけられない女」は、2000年に発行され、もう20余年も過ぎているが、内容は全然色あせないなぁと思って、時々振り返って読んでいる。ブックオフなどの中古市場では200円ぐらいで売られている。一時期ベストセラーだったらしいので。

この本の中で、私が鋭い考察だなと思ったのは、「ADHD女性は子どもの頃から2種類のメッセージを受け取っている」というくだり。

1種類目は「広く世の中の女性一般に与えられるメッセージ」。女性は気が利くもの、女性は他人に優しくあれ、人助けをしなさい、頼み事は断るな、女性は綺麗好きという、社会からのジェンダーメッセージである。

「自分がない」というエントリーでも書いたが、発達障害だと、なかなか自分らしさが蓄積していかない、自己像がバラバラなので、社会が自分に期待する役割を引き受けてしまうところはあると思う。「自分らしさ」なんてよくわからないけど、気の向くまま行動していたら、やっぱり怒られるし、期待に応えられていない。周囲の人を失望させてしまう。だから、社会の期待に沿っておけば、誰にも怒られない。非難されない。何も言われない。

正直、子どもの頃から、自分のことは女らしいとも思ってはいないし、生物学的に女なだけであって、自覚している性別はあやふやだ。

「それが他の女性をいらつかせるのだ」とわかったのも小学校ぐらいだった。男性・女性という意識がなく、人として接しているだけなのに、問題の本質的でないところで、「男子になれなれしい」「女子なのに・・・」みたいに非難される。そういうのが非常にややこしいなと思っていた。

「女子であること」の自覚はないけれど、自分なりの「女子」像で、いなくてはならなかった。女子のいう女子、先生のいう女子っぽくしていた。まあでもボロは出ますよね、基本、不注意なんで。

もう一つのメッセージは「名指しの批判」。自分に浴びせられた叱責と漏れ聞いた陰口。あるある。どっちもあります。

「なんでじっとしていられないの」とか「すぐ調子に乗って」と怒られる。そして、このような名指しのメッセージによって、「恥」の意識が植え付けられるのだという。

今どんなに頭の切れる仕事のできる大人になっていても、どこかに痛みが残っている。知らないうちに、「私はダメだ、悪いのは私だ」と思い込んでしまったのだ。

本にはそう書かれていて、このフレーズには何度か涙ぐみそうになった。

それだけでなく、「自分によく似た他の女たちのことをこき下ろす言葉を聞いてしまった」というのも、名指しのメッセージの一種らしい。

これは私の場合は、私の祖母→母親への非難が影響している。母親も、気の向くまま行動してしまうタイプのADHDで、家の片付けなどの家事ができず、働きに行って得た賃金でお手伝いさんを雇っていた。

母親と中身も顔もそっくりな私は、祖母の母親非難をその通りだと思った。母の生き方より、祖母の生き方の方が尊いと今でも思っていて、母親のように、気ままに自分が好きなことに没頭するのが怖い。

本には、もともとのADHDの症状として、自己イメージが混乱しているのに、社会からの女性役割メッセージや名指しのマイナスメッセージを浴びたら、そりゃあ二次障害にもなりますよねということが書かれている。

私は家が散らかってはいても、まあなんとか生きては行けると思ってはいた(まあ子どもの頃は、家事を舐めていたよね、ケアされる側だから)が、二次障害のうつ状態になったのは本当にキツかった。

なので、「ADHDだと鬱になりやすいのか・・・」ということがわかっただけでも、自分にとってのセーフティーネットをゲットした気持ちになった。

ADHDの人のためのライフハックもそれはそれで大事なのだが、やっぱり自己尊重感とか自己肯定感はどこで下がっていて、どのように考え方を変えていった方が生きやすいのかということは重要だと思う。

だから、この社会からのメッセージのくだりは、私には響いた。

こういうメッセージは、アンコンシャスなので、意識化すると、あれもそうか、これもそうだわとあれこれ気づくことが多い。個人の問題を社会的な問題として扱う、フェミニスト的な自己尊重アプローチには、社会からのジェンダーメッセージを自分で書き出すというワークもあって、なるほどとうなずくことが多い。






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