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雪女

 「ねえねえ、ばあば。キンモクセイの匂いがする!」

 覚えたての干支を辿々しく口ずさんでいた香織が、鼻をくんくんさせて嬉しそうに叫んだ。「本当ね」佳子は、香織の紅葉のような小さい手を両手で優しく包んだまま空を見上げた。横で本を読んでいた芳江も、深く深呼吸して瞳を閉じる。

 キンモクセイと聞くと『夏が終わったな』というイメージを持つ人が多いが、芳江は違った。

 キンモクセイは『また、冬が来る』のお知らせ。

 そして、そんなキンモクセイの香りと共に、ふと、懐かしい想いが芳江の胸の中でパチパチと弾けてくる。まぶたの裏に広がる、あの夢のようなオレンジ色の風景。

 忘れもしない、十年前のあの日。


 シンと静まり返った雪国の夜、午前一時十五分。

 芳江は、公衆電話の受話器を置き、深い白い溜め息と共に外に出た。

 景色は見ていなかった。寒いか、冷たいかなんて感じなかった。ただ、その瞬間。甘いキンモクセイの香りをスーッとさせたような懐かしい匂いを感じて。

 頭を叩かれたような気がして、ふと、前を見ると、路上に降り積もった新雪がオレンジ色の街灯に照らしだされているのに気付いた。

 そう。その時『はじめて』オレンジ色を認識した。

 一本の電話と共に慌てて家を飛び出してきてから、車の中でも、電車の中でも。見えてるものはすべて他人事で、すべてをぼやけた白黒にしか見ていなかった。匂いも温度も感じていなかった。

 それほど祖母、マツの突然の死はショックだった。

 「こっちの雪は綺麗なんだよ。特に降りたての雪は真っ白でね」

 マツが雪の話しをする時は、ガンガンと照りつける太陽の下でも、蒸し返すような暑さの雨の日でも。なぜか、あの、キンモクセイの匂いと共にスーッとした心地よい清涼感を覚えた。

 (マツ婆ちゃんが話してくれた、その自慢の新雪を、まさかこんな形で見ることになるなんて)

 芳江は、その場に崩れ落ちるようにひざまついた。ふわっと、積もったばかりの雪が揺れる。マツの顔を見た時も、佳子が泣き崩れる姿を見た時も。まったく出てこなかった涙が突然、冷えきった頬に暖かく流れ落ちてきた。

 なんて、なんて綺麗なんだろう。


 「ばあばがまだ小さいころね。ばあばのお母さま……香織のひいお婆ちゃんのことね、雪女だと思っていたのよ」

 佳子の声が、キンモクセイの香りを割って芳江の頭の中まで届く。そっと目を開けると、香織の手を擦っている佳子の姿がぼやけて見えた。

 「ゆきおんな?」

 「そう、雪女」

 「ゆきおんなって、なあに?」

 香織は首を傾げて芳江の方を見た。

 「また、変なおとぎばなし創らないでよ」

 芳江が釘を刺すと、佳子は「まあまあ」と言って右手をヒラヒラさせた。

 「ゆきおんなって、女の子のかっこうをした『ゆきだるま』のことじゃないの?」

 香織は目を真ん丸くして、また、振り返る。

 「雪女の本がばあばの部屋にあるから持っておいで」

 佳子が笑いながら香織の頭をなでる。ホントに?香織はぴょん!と椅子から飛び降りると、小鹿のように元気よく飛び跳ねながら走っていった。その後ろ姿を見送りながら、同時に目を細める二人。

 「ところで、マツ婆ちゃんが雪女って、信じる?」

 家の中に消える香織を目で追いながら、佳子は声を潜めて話しはじめた。

 「なんでそう思うの?」

 だって、本人が言ったのよ。佳子はマツにそっくりな笑窪をへこませて笑う。「あなたも何回か連れていってあげたから、覚えてると思うけど。あんなところに家があるなんて、不思議に思わなかった?」 

 冬の厳しさを知っていた佳子は、里帰りする時は夏の暑い時を選んでいた。 

 濛々と草木が生い茂る獣道を軍手をはめた手で掻き分けながら進んでいくと、突然目の前にぽっかり開けた草原が現れる。その真ん中に、小さな平屋建ての家がぽつり。

 玄関のチャイムを押さず裏庭の方へ走っていくと、マツはいつも窓際の椅子に腰かけて、まだ夏だというのに冬の為の帽子や膝掛けや手袋を編んでいた。そして、飛び跳ねる芳江の姿を見つけると、驚きもせずに「いらっしゃい」と、窓を開けながらゆったり微笑みかけてくれた。

 なんでマツ婆ちゃんは、あそこにひとりで……そう、言いかけて、「ああ、そうそう。夕飯、なんにする?」と、芳江は佳子の質問を避けるように話題を変えた。

 今まで、『佳子は途中から継母に育てられ、学校卒業と共に都会に出てきた』という話しは、風の便りで聞いていた。しかし、そのことはもちろん、マツがあの場所で一人暮しをしている理由も直接マツや佳子の口から語られたことはなく、芳江もわざわざ聞こうともしなかった。触れてはいけない。ずっとそう思っていた。

 「私が小学二年生の時、家に、セツという若い女性と、佐代子という私より少しだけ小さい女の子がやってきたの」

 そんな芳江の動揺に気付いているのか、いないのか。佳子はおかまいなしといった様子で話し続ける。芳江は聞き耳を立てつつも、ふうーんと、気のないふりをして本に目を落とした。

 「セツさんは、決して派手ではない地味な女の人で、さっちゃん……あ、佐代子ちゃんのことね。さっちゃんはお人形さんみたいに目のクリッとした可愛い子だったわ」

 どうして、さっちゃんと佳子のお洋服の数が違うの?どうして、さっちゃんのお弁当だけ玉子焼きが入ってるの?どうして、セツさんとさっちゃんと一緒にいる時だけ、お父さまは笑うの?

 「大事にしていた自転車や座布団が、いつのまにかさっちゃんのものになっていたけど、それはそれでよかったのよ。ただ、お気に入りだった卓袱台の座り場所、お父さまの横の席を取られた時はさすがに淋しくなったわ」

 「『おかしい』って思わなかったの?」

 芳江は本に目を向けたまま、声だけを無造作に投げつける。

 「だって、お父さまが家に上げる人に悪い人はいないと思っていたから」

 逆に、一緒に住むくらいだから、よっぽどいい人たちなんだろうなって思っていたわ。親とか学校の先生が言うことは絶対間違いない、そういう時代だったのよ。佳子はさながら唄うように話し続けた。

 「少しずつ、少しずつ。お母さまと私の居場所が狭くなってきた。そして、私が小学三年生にあがる春、お母さまは家を出ていくことになったの」

 お父さまは悪くないのよ。だから、お父さまを責めないでね。泣きわめいた私に、お母さまはそう言って聞かせたわ。  

 ごめんね。私は雪女だから、一緒に暮らせないの。


 「行方がわからなくなっていたお母さまが、あの場所に住んでいたことを知ったのは、お父さまの葬儀の時なのよ」

 近くの道端で具合悪そうにうずくまっている老婆に声をかけたの。顔をくしゃくしゃにして泣いているお母さまだったわ。その時に、はじめてあの家まで送っていってあげたの。佳子は眩しそうに空を見上げた。

 「お母さまが、お父さまのことを死ぬまで大好きだったってことは知ってたから」

 だから大人になって、その頃のいろいろな大人の事情がわかってきても「お母さまは雪女だった」で、いいと思ったのよ。

 つむじ風が、キンモクセイの香りを巻き込みながら、二人の横をすり抜ける。


 「ばあば!ゆきおんなって、コワイ話しなの?」

 なんか、コワイ顔が書いてあるの。香織はふに落ちない様子で本を広げながら戻ってきた。

 「ひいお婆ちゃんはね。約束を守らないと『よくも約束を破ったな~』って、こんな顔の雪女に変身したのよ」

 そっちかい!芳江は我慢できずに軽く突っ込む。

 「じゃあ、ばあばも『ゆきおんな』?」

 「そうよ。香織が約束を破るようなことをしたら、雪女になっちゃうかも」

 「おかあさんも?……あ、そういえば、こんな顔したの、見たことがある!」

 「こらっ!」芳江が睨むと、出たっ!ゆきだるまのゆきおんなだ~っ!と、香織は叫びながらぴゅっと逃げ出した。

 「お母さん、私、マツ婆ちゃんは本当に雪女だったんじゃないかって思うわ」

 お通夜の夜、電話ボックスの外で感じた匂いは間違いなくマツの匂いだった。マツが側にきて新雪を教えてくれたんだ。芳江はそう思えてならなかった。

 「お母さまと再会した時、あの時、どうして私を連れて行ってくれなかったのか。理由を聞いたのよね」

 佳子は、雪女の絵本をそっと胸に抱え込む。

 そしたら『あなたは、お父さまのところで、人として生きた方が幸せだと思ったから』ですって。

 遠くで悪ふざけをしている香織の方を見ながら、うっすらと笑みを浮かべる佳子の横顔から、あの、キンモクセイをスーッとさせたような甘い香りがほんのり漂ってきたようなきがした。

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