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雨と自転車と傘

 カビ臭い雨合羽を脱いで自転車の上に放り投げる。管理人が窓から横に頭を出して睨んでいるのが視界に入り、仕方がなく綺麗にかけ直す。すぐ横に止まっているブルーメタルの自転車を目で確認すると、舞は重たいカバンを胸元に抱え込んだ。
 
 時間がないのに。あの電車に乗らないといけないのに!
 
 舞は管理人に軽くお辞儀をすると、スカートのシワを叩いて直しながら駐輪場から飛び出した。

 傘なんてさしている場合じゃない。横目でホームの端の方を見ると、いくつかの黒い傘が戯れていた。賢二だ。右から二番目にいる。足にグッと力が入る。
  
 駅の周りはレンゲの花が咲き乱れる田んぼだらけで、屋根のないホームの端は駐輪場から丸見えだった。一直線に突き抜けられれば二分もかからないのだが、改札口はバスのロータリーの先にある。

 間の回り道。舞は狭い道を人と通り過ぎるのに気を遣いながら走った。手前に入ってきた電車が黒い傘たちを隠して止まる。
  
 今日は、ついていないことばかりだった。最後ぐらい良い事があってもいいじゃないか。
  
 カバンをぶつけながら改札口を通り抜ける。向こう側のホームに行くための階段を一段抜かしで駆け上がっていると、電車の走りはじめる音が聞こえた。
  
 間に合わなかった。ああ、やっぱり今日はついていない。
  
 舞は肩を落とすと、今度はゆっくりと足を引きずるように歩き出した。ローファーの中に温かい水が溜まっていて気持ちが悪い。電車から降りてきた人の波を避けるために、カーブの隅っこの方で体を小さくして外を眺めた。

 不自然にふくらはぎに触るスカートの感触で自転車のペダルに裾を引っ掛けた事を思い出し、ああ、と、口から大きなため息が出る。この数分で、すっかり空は暗くなっていた。
  
 賢二は、同じ学校、同じ学年の生徒。ガサツで落ち着きがないのでモテるタイプではないが、マドンナと呼ばれている美人マネージャーと付き合っているという噂があった。

 帰り道にマネージャーを含めた数人で戯れている姿を見て舞は『どうしてあんな美人な子があんな人を選ぶのだろう』と思ったことさえあった。
  
 それが、一週間前、急に雨が降り出した放課後。一人、グラウンドでシュート練習をしている賢二の姿を見てから、いつしか舞の目は賢二の姿を、あのブルーメタルの自転車の居場所を探すようになっていた。
  
 あの日、賢二の自転車に折りたたみの傘を引っ掛けておいてあげたのだが、使ってもらえただろうか。舞はそれがずっと気になっていた。
  
 人の波が終わる。誰もいないホームに降りると、トボトボとホームの端を目指す。

 あの黒い傘の中に、綺麗な藤色の傘が紛れていた。ああ、やっぱりね。舞の口からまたひとつ、大きなため息が出る。びしょ濡れで惨めな顔を隠すように、今更さす必要もないグレー色の傘を乱暴に広げた。

 誰もいないホーム。
 特に、端の方は屋根がないので、今日のような雨の日はなかなか人は来ない。

 舞はここから見える駐輪場をボーっと眺めていた。今日はもう、あの、ブルーメタルの自転車が入るのを待っている必要はない。なのに、ついつい自転車が来る度に目がいってしまう。

 ばかみたい。
 ため息と共に、傘が肩から滑り落ちる。

 「小松さん、だよね」

 その時、もう少し端の方にある植木の影から突然、黒い傘が飛び出してきた。賢二だった。舞は驚いてカバンを落とした。
  
 さっきの電車、乗り遅れちゃってさぁ。小松さんも?賢二は横を向いたままカバンを小刻みに揺らしている。そのうち、左手で頭の側面を掻きむしると、カバンの中からベージュ色の折りたたみ傘を取り出した。
 「これ、小松さんのだろ?」
  
 違います。舞はカバンを拾いながら思わずそう口走る。雨の音が二人の間を通り抜ける。
  
 「そっか。前にこの傘が小松さんの自転車カゴに入っていたところを見たことがあったんだけどなぁ」

 え?と、下を向いていた舞が不意に頭を持ち上げた。それに反応して、あ、いや、こんな地味な傘をさしてる女子って逆に目立つだろ?それに、あの坂を登る時の豪快な立ちこぎ……っていうか、自転車の置き場所、隣だし。と、賢二は慌てて言葉を付け足す。舞は横を向いて口元を緩めた。
  
 「地味で悪かったですね。そうですよ。私のですよ」

 あ、そうじゃないか。えっと。賢二は自分の頭の後ろを拳で叩き始める。
 「だから、嬉しかったんだよ。ありがとう」

 舞は無言で俯いたままベージュの折り畳み傘を手に取る。その、びしょ濡れの手に賢二はハッとして、首にかけてあったスポーツタオルを差し出した。

 初めて二人の目線が合う。しかし、その一瞬だけで、すぐに互いに背を向けた。

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