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日本でも人気のあの聖人が、お菓子に!?

イタリア・ヴェネチアから西に約40キロメートルにある町パードヴァ(Padova)は、工業地域に周囲を囲まれているものの、歴史ある宗教色の強い街だ。
パドヴァーニ(padovani パードヴァの住民の事)に「聖人(イル・サント、Il Santo)と言えば?」と尋ねると、異口同音に「サンタントーニオ(Sant'Antonio=聖アントニオ)と言うだろう。パードヴァで「ドルチェ・デル・サント(Dolce del Santo=聖人のスイーツ)」とは、「聖アントニオのお菓子」のことを言う。

私はしばしばイタリアを訪れるが、好きな町の一つがパードヴァだ。中央駅から徒歩10分のところにルネサンス期の巨匠ジオットの壁画で有名な「スクロヴェーニ礼拝堂(Cappella degli Scrovegni)」があり、以前はここで名画を鑑賞した後、街の中央にある市場に向かい、ランチとしていたが、近年観光客が増え、礼拝堂も事前の予約が必要となり、簡単には訪問できなくなってしまった。
旧市街の中央にはいかにも歴史がありそうな格式高い「ラジオーネ館(Palazzo della Ragione)」がある。12世紀に起源を遡る市民の裁判所だ。広場や、広場に面した建物の1階に果物、野菜の市場、周囲に立ち食いスタンド、レストランが立ち並ぶ庶民的な町だ。町中でランチを済ませ、さらに南に進むと旧市街の外れに「聖アントニオ大聖堂(Pontificia Basilica Minore di Sant'Antonio di Padova)」がある。

レンガ造りの大聖堂の周囲には、聖人の墓廟ぼ びょうに捧げる蝋燭ろう そくの屋台や、聖アントニオ・グッズを売る屋台がぐるりと聖堂を取り囲んでいる。

聖堂内部側廊そく ろうに、聖アントニオの遺骸い がいを顕示した墓廟「マドンナ・モーラ礼拝堂(Cappella della Madonna Mora)」がある。
1231年、聖アントニオが帰天した後、その遺骸は聖人が創設した修道院に隣接した礼拝堂に顕示されていたが、まもなく聖人に奉献した大聖堂の建設が始まった。
14世紀初頭に聖堂が完成してから、遺骸は「マドンナ・モーラ礼拝堂」に顕示されている。
墓廟は聖人の帰天直後から巡礼地となり、現在イタリア内外から年間650万人以上の巡礼者たちが訪れている。

大聖堂に通じる大聖堂周辺の小路には、聖人の像や肖像画、ロザリオなどを売る店舗が立ち並び、巡礼者の多い門前町らしい。おみやげのブティックに挟まってドルチェ(dolce=スイーツ)のブティックもある。パスティチェリア(Pasticceria=スイーツ店)、ブティックの店先にも、聖人のラベルが貼られたお菓子が山摘みになっている。

聖人菓子の別ヴァージョンに、「聖アントニオのクルミのクッキー(Nocini Sant’Antonio)

イタリアのクッキーの代名詞ともなっているアーモンド・クッキー「アマレット」の聖アントニオ版「聖アントニオのアマレットーニ(Amarettoni Sant’Antonio)」などもある。

聖アントニオが帰天する前、支援者の一人であるパードヴァの伯爵が友人の家を訪れた時、部屋のドアの向こうから光が漏れていた。ドアを開けると、片手に幼きイエスを抱き、もう一方の手に百合をもった聖アントニオが立っていたという。聖アントニオはそのことを誰にも話さないように伯爵に伝えたが、帰天後、その話が一般の人たちに伝わり、16世紀頃から聖アントニオと幼きイエスの像が造られ、絵画のテーマとしても多く描かれた。


聖人録

聖アントニオ


Sant’Antonio

聖アントニオは、1195年頃リスボンでポルトガルの貴族の息子として生まれたとされるが、幼少期の詳細は分かっていない。フェルナンドと命名され、15歳でリスボン郊外のアウグスティヌス派の修道院に入り、その後、浩瀚こうかんな図書館で知られるコインブラの修道院に移り、熱心に神学研究に取り組んだ。
1219年、フランシスコ会の修道士たちが北アフリカに宣教に行き、現地人に囚われ斬首され、遺体がコインブラに持ち帰られたことに衝撃を受け、フランシスコ会に入り、洗礼名もフェルナンドからアントニオに変えた。アントニオも北アフリカの宣教に赴いたが、現地で熱帯病にかかり、回復後、スペインに戻る船に乗ったが難船し、シシリア島まで流され、シシリアのフランシスコ修道院に辿り着き、イタリア半島を北上してアッシジまで行き、近くのフォルリ(Forli)近郊の庵を基点に説教行脚を始めた。
聖アントニオの説教の名声は広く伝わり、イタリアのみならず当時異教徒が多かった南フランスにまで説教に行った。聖フランチェスコの帰天後、アッシジに行ったアントニオは北イタリアの修道会の責任者、説教師として活動をした後、パードヴァに行き、1229年に修道院を創立した。1230年に主な官職から引退した後、パードヴァ郊外カンポサンピエロ(Camposanpiero)の知人の所有する森にいおりを築き、観想生活を送っていたが、庵から自らの修道院への帰途に立ち寄ったパードヴァ郊外のアルチェッラ(Arcella)のクララ会の修道院(clarisse)で1231年6月13日に帰天した。当時としては稀に見る度重なる長い旅の過労もあってか?35歳の短い生涯だった。
聖アントニオには数々の奇跡が伝えられている。アドリア海のリミニの海岸線で魚たちに説教をした、ラバが聖アントニオが祝別したご聖体に跪拝した、彼を毒殺しようとした際の夕食で毒に気づいた。
ある時、聖アントニオが大切にしていた詩編の書が盗まれ、聖人が困っていることを盗んだ人が知り、返却してきた。そのことから、今日でも、モノを紛失、失くした時には「サンタントーニオ!」と言うと、失ったモノが見つかるという言い伝えがある。
人気の聖人だけあって守護範囲は広範囲だ。
遺失物、奇跡、旅行者、漂流者、船乗り、病気の子供、聖地巡礼、貧しい人、抑圧されている人、反革命家、動物、パードヴァ、リスボン、ポルトガル、ブラジルなどなど多数。
アントニオという名前の聖人が複数いることから「パードヴァの聖アントニオ」と呼ばれる。生まれ故郷ポルトガルとブラジルではリスボン出身であることから「リスボンの聖アントニオ(Santo António de Lisboa)」とも呼ばれる。

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