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ラテラノの聖ヨハネ大聖堂

La Basilica di San Giovanni in Laterano,
la Cattedrale di Roma Papale arcibasilica maggiore cattedrale arcipretale del Santissimo Salvatore e dei Santi Giovanni Battista ed Evangelista in Laterano

ローマの教皇領
ローマ歴史地区、教皇領とサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ大聖堂(Centro storico di Roma,le proprietà extraterritoriali della Santa Sede e la basilica di San Paolo fuori le mura)

ヴァチカンの四大バジリカの一つ、「ラテラノの聖ヨハネ大聖堂(Basilica di San Giovanni in Laterano)」は、正式名称を「ラテラノの洗礼者聖ヨハネと福音書記者聖ヨハネと聖なる救世主の教皇の大司教大聖堂(Papale arcibasilica maggiore cattedrale arcipretale del Santissimo Salvatore e dei Santi Giovanni Battista ed Evangelista in Laterano)」と言う(以後ラテラノの聖ヨハネ大聖堂と記載)。
神々しい正式名称を知ると、その歴史の一端を伺い知ることができる。「ラテラノ」とは、この地を所有していたローマ帝国時代の貴族「ラテラニ(Laterani)家」の名前に由来する地名だ。

4世紀初頭にこの地を得たコンスタンティヌス大帝が、宮殿を築きファウスタ妃に寄贈し、さらにキリスト教公認後、当時の教皇シルベストル一世に教会領として与えた。教皇は「聖なる救世主(Santissimo Salvatore)」に奉献した教会を建立した。今日まで続く教皇領の始まりであった。

その後、10世紀に教皇セルギウス三世(Sergius III)が教会を再建した際に、洗礼堂を増設したことから洗礼者聖ヨハネにも捧げた教会とした。さらに12世紀初頭、教会が落雷で破壊された後、再建された際に教皇ルキウス二世(Lucius II)が聖堂を福音書記者聖ヨハネにも奉献したことから、救世主と2人の聖ヨハネに奉献した教会となった。

4世紀半ばから歴代の教皇は、ラテラノの聖ヨハネ聖堂に隣接する建物に住んでいた。しかし1305年、フランスのボルドー司教が教皇に選出され、クレメンス五世(Clemente V)として就任すると、1309年に教皇庁をフランス南部のアヴィニヨン(Avignon)に遷した。
1377年、教皇がアヴィニヨンからローマに帰還したものの、約70年間に二度の大きな火災を受け、ラテラノ宮殿も荒廃していたために、教皇はトラステヴェレの「サンタ・マリア教会(Santa Maria in Trastevere)」、その後「サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(Santa Maria Maggiore)」に付設した宮殿に住んでいた。15世紀半ば、教皇ニコラス五世(Nikolaus V)が、聖ペテロ大聖堂があるヴァチカンの丘に現在のヴァチカン宮殿を建て、教皇庁を移した。
16世紀末にローマの都市計画、再開発を推進した教皇シスト五世(Sixtus V)が、ラテラノの聖ヨハネ大聖堂とラテラノ宮殿を再建した。宮殿は教皇の夏の離宮として使用されるようになった。現在は、教皇庁立博物館として古代キリスト教関係の資料、遺品を展示している。

ラテラノ宮殿(palazzo del Laterano)」に面して世界で最も高いオベリスク(obelisco=方尖塔)が立っている。4世紀のコンスタンティヌス大帝の息子、皇帝コンスタンツォ二世(Costanzo II)がエジプトからローマに運び、大競技場(Circo Massimo)に立てられていた。1587年に発掘され、教皇シスト五世の命で広場に建てられた。台座を含めると十字架の立つ頂きまで高さ約46メートルある。

17世紀半ばの教皇インノケンテイウス十世(Innocentius X)は、ラテラノの聖ヨハネ大聖堂の内観の大々的な修改築を始めたが、外観を含む全体の修改築が完成するまでには18世紀半ばの教皇クレメンス十二世(Clemente XII)まで待たねばならなかった。大聖堂内観の装飾には、17世紀のバロック期の建築界、彫刻界でJ.L.ベルニーニと名声を二分するF.ボッロミーニ(Francesco Borromini)が携わった。

聖ヨハネ大聖堂では、ローマの新司教の叙階式など特別な祭儀が営まれる。
インドのゴアから陸路、エルサレムを経由してローマに辿り着いた日本人ペトロ・カスイ岐部は、1620年10月、ラテラノの聖ヨハネ大聖堂の香部屋でラファエロ・イニチヤト司教により教区司祭として叙階された。その後、ローマのイエズス会修道院に受け入れられ、2年間修練した後、1622年、ローマの外港チヴィタヴェッキアからジェノヴァ、スペインを経て日本への帰途に着いた。

身廊中央正面の祭壇のバルダッキーノ(Baldacchino=祭壇の天蓋)は1367年に造られた。上部の金の格子の中には、2つの金製の胸像の聖遺物容器が顕示されている。そこには、福音書記家聖ヨハネと聖パウロの聖骸骨が内臓されているといわれる。18世紀末、ナポレオン一世が当時教皇領のあったイタリア半島に侵攻し教皇軍が敗北した後、トレンティーノ条約(Trattato di Tolentino)が結ばれ、教皇に賠償金を課したためにオリジナルの金製の胸像は溶かされ、賠償金として支払われた。現在の胸像は15世紀のオリジナルの聖遺物容器のコピー。トレンティーノ条約で教皇庁の飛び地領土、フランス南部のアヴィニヨンとその周辺の領土の放棄、100点以上の美術品を教皇は手放さなければならなかった。フランス軍はイタリアの宮殿、館、教会の鍵を入手し、侵入を正当化し、略奪を欲しいままにした。後にナポレオン失脚後、ラファエロのキリストの変容、ベルべデーレのアポロ、ラオコーンなどヴァチカン宮殿にあった作品などは返却されたが、この時略奪された美術品で現在もルーブル美術館で展示されている壁画の作品も少なくない。

後陣の半円形の天蓋上部はモザイク画で装飾されている。十字架を中心に、右手に洗礼者聖ヨハネ、小さく聖アントニオ、福音書記家聖ヨハネ、聖アンドレア、左手に聖母マリア、その膝元に教皇ニコラス四世、教皇の後ろに聖フランチェスコ、聖ペトロ、聖パウロが描かれている。中央の宝石で飾られた十字架が立つ丘から四つの川(四人の福音書家)が流れ、鹿(信者の魂)が喉の渇きを癒しに来ている。十字架の交差部には洗礼者聖ヨハネのイエスの洗礼が描かれている。オリジナルのモザイクは、13世紀から14世紀にかけて活躍したフランシスコ会の修道士ヤコボ・トリッティ(Jacopo Torrit)とヤコボ・ダ・カメリーノ(Jacopo da Camerino)によって描かれていたが、現在のモザイク画は19世紀の大聖堂修改築時のコピー。

祭壇の右後方に上智の座の聖母子像が顕示されている。前世紀の教皇パウロ六世の所蔵であった14世紀の聖母子像を教皇フランチェスコが譲り受け、ラテラノの聖ヨハネ大聖堂へ寄贈した。

大聖堂に入って右手の礼拝堂の前の壁に画家ジオット(Giotto)が壁に描いたボニファティウス八世(Bonifatius VIII)の肖像画の一部が残っている。ボニファティウス八世は1300年に初めての聖年を開催した教皇で、後にフランス国王の聖職者への課税に反対したためにフランス国王から退位を迫られ、生まれ故郷のアナーニで憤死した。アナーニ事件として歴史に名を残した教皇だった。肖像画の教皇は従者を伴って最初の聖年の開始を告げている。

1210年、アッシジの聖フランチェスコが兄弟たちと修道会と会則を認可してもらうために教皇に会いにローマを訪れた。その時代、教皇庁はラテラノ宮殿だった。1927年、聖フランチェスコ没後700周年を記念してラテラノの聖ヨハネ大聖堂広場に聖フランチェスコと兄弟たちの記念像が建てられた。聖フランチェスコが訪れた際の教皇はインノケンティウス三世(Innocentius III)で、当初汚い身なりのフランチェスコと兄弟たちを見下していた。教皇の夢の中で、壊れかけた聖ヨハネ大聖堂を支えるフランチェスコの夢を見て小さき兄弟会の発足と会側を認めたといわれる。

ラテラノの聖ヨハネ大聖堂の裏側に八角形のレンガ造りの「ラテラノの洗礼堂(Battistero lateranense)」、正式には「ラテラノの聖ヨハネの泉(San Giovanni in Fonte al Laterano)」と呼ばれる建物がある。この地には4世紀にコンスタンティヌス大帝の妃の浴場の泉があり、その上に4世紀半ばに最初の洗礼堂が築かれたとされる。キリスト教では「8」は新生、天地創造から8日目は新しい創造を意味するので、洗礼堂は八角形に作られた。長い間ローマの唯一の洗礼堂として使用され、後のイタリアの洗礼堂のモデルとなった。

5世紀、9世紀に大改築が行われ、現在の礼拝堂の構造が出来上がった。9世紀から10世紀にかけて大改修が行われた際に、中央の洗礼盤のある空間を8本の大きな石柱で囲んだ。洗礼堂の四方に隣接して小さな礼拝堂が造られていたが、16世紀の改築で聖ヨハネ広場に面した礼拝堂が取り除かれ現在の入り口となった。

洗礼堂中央に、上部に彫刻を載せた石造りの水盤が置かれている。コンスタンティヌス帝の時代のオリジナルの水盤ではないが、17世紀に古代ローマ時代の石棺の上に彫刻を施し、洗礼盤とした。コンスタンティヌス大帝の時代には鹿の角から聖水が洗礼盤に流れこむようになっていたことから、堂内に水を飲む鹿(生きる教えの憧れ)の像が置かれている。

17世紀の教皇ウルバノ八世の時代に礼拝堂の壁にフレスコ画でコンスタンティヌス大帝の生涯が描かれている。

洗礼者聖ヨハネの祭日は6月24日、夏至の日となっている。イエスが太陽が誕生する冬至の日ならば、洗礼者聖ヨハネは太陽が最も天中高く昇る日が祭日である。その前日はイタリアでは魔女の日となり、ラテラノの聖ヨハネ大聖堂の近くの城壁の広場では様々なイヴェントが開催される。

前夜祭の日中は、城壁外の広場で魔女に扮した子どもたちのゲーム、遊興の場となる。子どもたちは顔をメーク・アップして様々な魔女や悪魔に扮する。

1年中で最も太陽の光が輝く日とされる洗礼者聖ヨハネの祭日(Notte delle Streghe)は、光の祭日でもある。前夜祭には炎のアーチストたちの大道芸もある。

イタリアのカンツォーネのコンサートなども催され、深夜遅く、中には翌朝までイタリアの長い、「洗礼者聖ヨハネの夜」を楽しむ人たちも多い。

洗礼者聖ヨハネの首を所望した母へロディアと娘サロメが魔女たちの首謀とされていたことから、洗礼者聖ヨハネの祭日の前夜を「魔女の夜(Notte delle Streghe)」に設定したといわれる。イタリアでは南イタリアのベネヴェント(Benevento)に魔女たちの集会所があり、この日、魔女たちは聖ヨハネ大聖堂の上空を目指して集まり、ベネヴェントに飛んでいくという言い伝えがある。

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