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聖リタ

Rita da Cascia

不幸な境遇にいる女性たちの守護聖人、聖リタは、生前から多くの人から慕われていた。1447年に帰天すると、聖人のように崇敬されていたが、正式な列聖は1900年と帰天後の列聖に時間がかかった聖女だ。
カトリック社会では今日も人気のある聖女で、帰天したのが生まれ故郷に近いイタリアのカーシア(Cascia)であったことから「カーシアの聖リタ(Rita da Cascia)」と呼ばれる。

聖リタは1381年、イタリア中部ウンブリア地方のカーシア郊外のロカポレーナ(Roccaporena)に生まれた。ウンブリア地方はイタリア半島の中央部の山が多い地域で、緑が多いことから「イタリアの緑のハート(Cuore Verde d'Italia)」と呼ばれている。その清々しい自然美が育んだのか、ウンブリア地方から多くの聖人が生まれている。聖リタの生地カーシアから北東に約10キロメートルの地、ノルチャ(Norcia)で「聖ベネディクト(San Benedetto da Norcia)」と、「聖スコラスティカ(Santa Scolastica)」、北西へ約50キロメートル離れたアッシジ(Assisi)で「聖フランチェスコ(San Francesco)」、「聖クララ(Santa Chiara)」など、後世まで崇敬が篤い聖人たちが生まれている。

聖リタの生まれたロカポレーナは、人口が100人にも満たないひなびた山村だ。
ロカポレーナの中央にある聖リタ教会の近くに、リタが生まれたとされる14世紀頃に建造された質素な館がある。
2階の2部屋のうち一つがリタの部屋。その窓に天使が訪れていたといい、リタは「天使の窓」と呼んでいた。

天使の窓」からは、リタがしばしば登って祈りを捧げたという「聖なるスコリオ山(Sacro Scoglio)」が見える。「聖なるスコリオ山」は標高827メートル、ロカポレーナの村との標高差は120メートルある。
リタは岩石だらけの急こう配の山道を、膝や肘にかすり傷を負いながら登ったという。
現在は礼拝堂のある山頂まで330段の階段で上がることができる。

聖リタの記念日(5月22日)には、生地ロカポレーナの「聖リタの聖域(Santuario di Santa Rita)」の教会で、早朝7時から記念日のミサがある。
1900年に教皇レオ13世によりリタが列聖されて以来、ロカポレーナには「リタ会館(Opera Santa RITA)」、孤児院、巡礼者の家、高齢聖職者の家が築かれ、1948年に聖域となる礼拝堂などなどが祝聖された。

早朝の記念日のミサの後、ロカポレーナから6キロメートル離れたカーシアまでプロセッション(行列)がある。

ロカポレーナからカーシアまでは上り坂が続き、聖像を載せた御輿みこしを担いで歩くのは難儀に違いない。約6キロメートルの坂道を約2時間かけて歩く。

聖リタには数々の奇跡譚が残っている。
最初の奇跡は、リタが生まれて間もない頃、農作業する老父と共に働いていた男性が誤って鎌で自分の手に深い傷をおった。その時、傍らの柳の下で寝かされていたリタの揺りかごに蜜蜂の大軍が押し寄せた。それを見た男がリタに群がる蜜蜂を慌てて手で振り払った。リタが無傷であったことは言うまでもないが、男が手に負った傷も消えていたと言う。
プロセッションには蜜蜂の巣を持った子どもも参加し、カーシアの聖堂でのミサで奉納される。

晩年の聖リタを多くの人が訪れた。
帰天の半年前の1月、衰弱したリタロカポレーナから見舞いに訪れた女性に、リタは実家で咲いていたバラの花イチジクを懇望した。女性は真冬なので不可能と思っていたが、ロカポレーナリタの実家の庭に行ってみると、一輪の大きな赤いバラが咲いていた。イチジクの木にも2つの実がなっていた。女性は一輪の赤いバラとイチジクを持って、リタのいるカーシアに戻り、リタに届けると、リタは自分の我が儘を聞き入れてくれた神に感謝の祈りを捧げたという。
赤いバラは、それ以来、聖リタのシンボルとなった。

カーシアの入り口には聖リタの像が立っている。
旧市街は11世紀に丘の上に築かれ、城の城下町として発達した。
現在は人口約3000人の自治体だ。イタリア中部は地震多発地域で、記録に残る限り1300年、1599年、1700年、1962年、1979年と大地震があり、各回1000名近い犠牲者を出している。直近では2016年から2017年にかけて長期に渡り大地震が群発し、多くの町村が崩壊した。

プロセッションはカーシアに入ると、旧市街を一周してから聖リタ聖堂へ向かう。
丘の上に築かれた山岳都市カーシアの旧市街には、細い小路が続く。

パリの9区には不幸な境遇の女性たちが多いことから、カーシアの聖リタを通じて姉妹都市になっているので、プロセッションが行く沿道には、フランス国旗も掲揚されていた。

プロセッションは、旧市街の一つ、聖クララ通リ(Via Santa Chiara)から、聖リタ聖堂に続く聖堂正面の道、聖リタ通リ(Via Santa Rita)に入ると、朝から沿道に詰めかけていた大観衆は興奮の坩堝るつぼ。手に手に赤いバラの花束を持って、聖リタの聖像の御輿を大歓声で出迎える。

聖リタの記念日、聖リタ聖堂前には特設祭壇が設けられ、正午から記念日のミサが始まった。記念日のミサにはカーシアの町長はじめ町のお歴々、姉妹関係にあるパリ9区の区長も参列した。

記念日のミサが終わると、教会前に顕示された聖リタ像に巡礼者、信者たちからの赤いバラの献花がある。聖リタ像は瞬く間に赤いバラの小山に埋まっていった。

この日は巡礼者たち以外にも、カーシアと近隣の娘たちも赤いバラをもって聖リタ教会を訪れる。中には聖女に扮して修道女姿の幼い娘も。

イタリア各地の聖リタ教会、教会に聖リタ礼拝堂のある聖リタの祭壇には、聖リタの記念日にバラの花を奉納する慣習がある。
ボローニャの聖リタ礼拝堂のある聖(大)ヤコブ(San Giacomo Maggiore)教会の前の広場や教会のアーケード(軒下)には聖リタの記念日になると、朝からバラを売る花屋のスタンドが立ち並ぶ。

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聖リタに奉献した教会の建築は列聖後1937年に始まり、1955年に完成し祝聖された。
この地にはもともと聖アウグスティヌス修道院の教会があった。その教会も2016年の夏、この地方を襲った大地震で崩壊し、その翌年、2017年に驚異的な速さで再建された。
聖リタへの人気と、2012年にイタリアの海岸線で座礁し、犠牲者を出したクルーズ船のオーナー会社からの莫大な支援があったことも大きい。犠牲者が少なかったのは、聖リタの加護によるものと豪華客船の親会社が感謝を込めて贈った義援金であった。

縦横が同じ長さの十字架、ギリシャ十字架形に設計された教会の左側廊に「聖リタ礼拝堂(L'urna con il corpo di santa Rita)」がある。一般信者や巡礼者の入れる場所と礼拝堂は鉄格子で隔たれ、ネオ・ビザンチン様式の天蓋の下に聖リタのガラス張りの棺が顕示されている。遺骸は腐敗することなくミイラ化している。2000年の聖年の際、聖リタ列聖100周年を祝って、その聖なる遺骸はローマの聖ペテロ大聖堂にヘリコプターで運ばれ、顕示された。

パリの9区と18区を分け隔てるクリシー大通り(Bd.Clichy)の両側、モンマルトルの丘のお膝元は「ピガール街(Pigalle)」と呼ばれる夜の歓楽街だ。
20世紀前半はピカソはじめ芸術家たちが集まり、モンマルトルは20世紀の芸術の中心地でもあった。
現在もボヘミアンな雰囲気が残っているが、観光客目当てのレッド・ライト・ゾーン、暴力バーなどもチラホラ見受けする悪所ともいえる。
そうしたピガール街の中心地、ブランシュ広場(Pl.Blanche)に近い、カンカン踊りで知られるナイト・クラブ「ムーラン・ルージュ」の反対側に「聖リタ礼拝堂」はある。ピガール街には不幸な境遇の女性たちも多く、そうした女性たちの心の拠り所にするため、近くのパリの「聖トリニタ教会(L’église de la Sainte-Trinité de Paris)」の礼拝堂として1956年に作られた。

聖リタ礼拝堂は、19世紀後半に築かれた建物の地階にあり、礼拝堂、集会ホールなどと共に聖リタ・グッズを売るブティックもある。この建物には、向かいのムーラン・ルージュをテーマにして多くの傑作を残している画家ロートレックが19世紀末に住んでいた。


聖人録

聖リタ

Rita da Cascia

聖リタは、14世紀後半にイタリア中部の山村ロカポレーナに生まれた。しかし史実に基づく詳しい人生は分かっていない。
聖リタの人生に関しては、聖リタの死後160年たった1610年にアウグスティヌス派の修道院のカヴァルッチ(Cavallucci)司祭が書いた聖リタの伝記に負うところが多い。
伝承によると、リタは1381年、貧しいけれど信仰心の篤い、年老いた農民の夫婦の元に生まれた。
聖リタは幼い頃から信仰に篤く、屋根裏の自分の部屋で時間があると祈っていた。年老いた両親を助け、水汲み、薪運び、洗濯など小さい頃から良く働く娘だった。幼少の頃から修道院に入ることを望んでいたが、年老いた両親を置いて修道院に入ることも出来ず、両親の勧めで14歳前後で結婚した。現代社会では早いように思われるが、当時女性が14歳で結婚することは珍しいことではなかった。両親が選んだ男と結婚したものの、男は荒くれもので気性が激しく、酒に溺れ、たびたび暴力も振るわれた。
リタの信仰心に篤い穏やかな振舞いに改心し、優しい夫となったのも束の間、暴漢に襲われ夫は亡くなった。
当時は復讐が当たり前の時代で、2人の息子が父殺しの犯人を探し出し復讐を企てたが、リタが征して息子たちの気持ちを鎮め、事なきを得た。それどころかリタは夫を殺害した犯人たちを赦した。
さらにリタを新たな不幸が襲った。2人の息子が同時にペストで亡くなった。夫と2人の息子を亡くした時、リタは30歳代後半であったらしい。失意のどん底にあったリタは、幼い頃からの夢であった修道院に入ることを決心する。
志願した修道院は未婚の女性しか受け入れてもらえず、3度も拒絶された後のある夜、リタの家の扉を叩くものがいた。扉を開けると洗礼者聖ヨハネ聖アウグスティヌストレンティーノの聖ニコラが立っていた。聖人たちに導かれるまま、夜道をカーシアまで歩いた。聖人たちが連れてきた修道院の前に来ると扉が開き、リタは修道院に入ることができた。
翌朝、神の導きで修道院に入ったリタの入会を修道院長は認めざるを得なかった。リタが修道院に入り、修練女になった時、リタは42歳になっていた。当初はリタに冷ややかな態度を取っていた年下の修道女たちも、謙虚で敬虔なリタの修練ぶりをみて少しづつ心を開いた。

リタには、数々の奇跡が伝わっている。1443年の四旬節中に修道院の礼拝堂の十字架のイエスの茨の冠の棘が、熱心に祈るリタの額に飛んできて突き刺さった。イエスが茨の冠を被らされた時に傷ついた聖痕であった。リタの額の傷は治療されたが、治らなかった。逆に傷口が化膿し、腐り、悪臭を放ち始めたためにリタは独房に入れられた。修道女たちはリタが茨の棘を受けた経緯を知っていたので、畏敬を持って接するようになり、その話が巷間にも伝わり、多く人たちが独房にいる晩年のリタを巡礼するように訪れた。
独房から外へ出ることが少なかった晩年のリタだったが、68歳の時に1450年の聖年で賑わうローマを訪れた。
今のような交通機関もない時代に、独房で監禁状態にあり体力も弱っていたリタには約200キロメートル離れたローマへの徒歩行脚は相当の重労働であったに違いない。ローマから帰って2年後、1452年5月22日にリタは独房の中で帰天した。その時、リタがいた独房の上には激しい光が差し込み、修道院の鐘楼の鐘が独りでに激しく鳴り響いたという。リタは帰天直後から生地カーシア周辺では聖人のように扱われていたが、列聖は帰天約500年後の1900年教皇レオ13世に祝聖された。
は"マルガリータ"の短略の名前だったが、聖リタ以来、単独の名前として命名されるようになった。

聖リタは、家族、絶望状況にある人、結婚生活に問題を抱える女性、不幸な境遇にある女性、カーシア、ナポリなどの守護聖人。



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