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ルターの結婚式

マルティン・ルター

16世紀の宗教改革者マルティン・ルター(Martin Luther)は、それまでのキリスト教カトリックの慣習、伝統を変えた。聖職者の婚姻もその一つで、家族は共同体の始まりだとルターは考えていた。
1525年6月13日、ルターは元修道女カタリナ・フォン・ボラ(Katharina von Bora)との婚姻のセレモニーを地方領主ザクセン選帝侯のヴィッテンベルグ城教会(Schlosskirche Wittenberg)で行った。
その結婚を祝い、毎年6月の第二週末にルターが後半生を過ごしたヴィッテンベルグで「ルターの結婚(Luthers Hochzeit)」と呼ばれる祭事が開催される。
ヴィッテンベルグは、1938年から「ルター都市ヴィッテンベルグ(Lutherstadt Wittenberg)」と正式名称を変えた(本文中はヴィッテンベルグ)。

ルター都市ヴィッテンベルクのマルクトとルター像

ベルリンの南西約100キロメートルに位置するヴィッテンベルグは、人口約5万人の地方都市。15世紀末に地方領主ザクセン選帝侯フリードリッヒ三世賢明公(Friedrich III der Weise)が宮廷を築き、学問、文化を奨励した。宗教改革者マルティン・ルターを手厚く保護し、ルターと親しい画家クラナッハ(父)(Lucas Cranach der Ältere)も宮廷画家に迎え入れた。

東西に長く拡がるルター都市ヴィッテンベルグの中心地、市庁舎に面するマルクト広場(Wittenberger Marktplatz)

催事期間中には、マルクト広場に屋台や仮設レストランが立つ。広場には、ルターと共に宗教改革を遂行したフィリップ・メランヒトン(Philipp Melanchthon)の像も立っている。

マルティン・ルター像

マルクト広場の中央に立つルター像。ヴィッテンベルグは、19世紀初頭ナポレオン軍に占領され、その時代に宗教改革者ルターの像を立てることが発案された。ナポレオン軍退却まで具体化されず、1814年のウィーン会議の後、プロイセン王国(Königreich Preußen)がヴィッテンベルグを領土としてから、1817年に「95か条の論題(95 Thesen)」の300周年を記念してルター像が立てられた。手に持つ書物には旧約聖書の末尾と新約聖書の冒頭が1ページづつ書かれている。ドイツで初めて立てられた王侯貴族以外の人物像。

町の中心地、マルクト広場の近くに立つヴィッテンベルグの聖母マリア教会(Stadtkirche St. Marien zu Wittenberg)の二つの塔と旧い井戸
町の中心を貫く「城館通り(Schlossstrasse)」と城の塔(Shlossturm)

1517年10月31日、マルティン・ルターは、君主の城の教会の扉に「95か条の論題」の文章を貼り付けたといわれる。
当時、ローマの聖ペテロ大聖堂の改築費用を集めるために、「贖宥状(免罪符 indulgentia)」が販売されたことへの批判を論題とした問いかけであったが、この論文がプロテスタント運動の発端となった。プロテスタント教徒が多い国、地域では「95か条の論題」が発表された日、10月31日を宗教改革記念日として祝日としている。

15世紀末のザクセン選帝侯フリードリッヒ三世賢明公はヴィッテンベルグに宮廷を置き、父の居城があった場所に1489年から新しい城館、ヴィッテンベルグ城(Schloss Wittenberg)を築き始め、1525年に完成させた。旧城にあった諸聖人に献堂していた礼拝堂も改築し、ドイツ・ルネサンス様式の豪壮な城館付属教会を建て、1503年に祝聖した。フリードリッヒ三世賢明公はことのほか聖遺物蒐集に熱心で、この教会と城に1万9千の聖遺物を顕示したという。後にルターが聖人崇敬を忌避したのも、君主の異常な蒐集癖への反動だったのだろうか? ルターは、この教会で1525年6月13日、婚姻のセレモニーを執り行った。

フリードリッヒ三世賢明公は、のちにロイコレア(Leucorea ギリシア語。「白い城(ヴィッテンベルグ)」の意)の名前で世界的に有名となった大学を1502年に創設した。1512年からルターが教壇に立ち神学を教え、1518年からフィリップ・メランヒトンがギリシア語を教えた。大学は宗教改革の重要な拠点となった。

賢明公により創設された大学に、アウグスティヌス会の修道士たちの寮や講堂として1503年に築かれた建物は、後に「ルターハウス(Lutherhaus)」と呼ばれるようになった。ルターは当初修道士の衣服から「黒い修道院」と呼ばれていた施設の独房に1507年から寄寓し、1521年、身の安全を確保するために選帝侯の保護を受けてアイゼナッハ城に移るまで、ここに住んでいた。「95か条の論題」もこの建物で準備した。1522年、アイゼナッハからヴィッテンベルグに戻ったルターは、亡くなるまでこの建物で家族と共に過ごした。現在、宗教改革博物館として公開されている。

ルターシュトゥーベ(Lutherstube ルターの居間)」。
ルターはこの部屋で友人や仲間たちと食事を共にし、その後、階下の講堂で聖書について語り、神学論争をした。

大学の別校舎として建てられた「アウグステウム(Auguteum)」。建物の入り口を入ると、大学の植物園であった中庭と、その向こうにルターハウスがある。

6月の第二週末の土曜日に、ルター夫妻役の演者を先頭にルターの時代の歴史絵巻を再現する大パレードがある。ルターの妻カタリナは、ライプチヒ(Leipzig)近郊のリッペンドルフ(Lippendorf)の貧しい貴族の娘として生まれ、10歳で教育目的でシトー会の修道院に入った。カタリナはルターが書いた「修道院との誓約の論文」に感化を受けた8人の修道女たちと共に、1523年の復活祭の前に、ルターを頼ってヴィッテンベルグに逃避してきた。ルターはそのうちの一人カタリナ・フォン・ボラと結婚した。三男三女をもうけたが長女、次女が幼くして亡くなっている。ルターの結婚生活は貧しいながらも団欒とした家庭を築いた。カタリナは、牛を飼い、ビールを醸造してルター家を訪れる多くの訪問者をもて成し、家計を支えた。カタリナが醸造したビールはマルティン・ルターのお気に入りのビールだったという。

大歴史パレード

ルターの時代を再現してルターの友人たち、王侯貴族、農民戦争の兵士たち、ワイン栽培者、農家、農民の踊り披露、漁師たちなどなどに扮して約2000名が参加し延々と約2時間続く。

メイン通リに、中世の民芸品や戦いのヘルメット、鎧、おもちゃの刀、弓などの屋台が立つ。

ヴィッテンベルグ・オリジナル銘菓「ルターブロート(Lutherbrodt)」の屋台も立つ。ルターブロートは、ドイツ人がクリスマス時期によく食べるニュルンベルグ銘菓「レープクーヘン(Lebkuchen)」を小さくしてチョコレート・コーティングしたお菓子。

町の広場や建物、城館の中庭に中世を再現する中世村が造られる。動物を飼う農家、と殺してグリルにするスタンド、木製のビール・ジョッキの制作、弓矢の制作など実践もできる。

子どもパレード

日曜日の午後、前日同様、ルターの時代の歴史絵巻を再現するパレードが、この日は子どもたちだけで開催される。ルター夫妻に扮するのも子どものカップル。カップルに花びらをかけて祝うのも子どもたち。

子どもたちのパレードが終わると、祭事のハイライト、ルター夫妻のウェディング・ケーキへのナイフ入れが始まる。
ウェディング・ケーキの習慣は古代ギリシアに起源を遡ると言われているものの、現在のようなケーキは19世紀のイギリスが発祥で、それが合衆国に伝わり、世界的な慣習となったとされる。
ルターの時代にウェディング・ケーキがあったか?否か?は、甚だ疑わしいが、歴史絵巻のご愛嬌というべきか? ルター夫妻の結婚は2025年に500周年を迎え、今年は498回目。
ケーキの上の数字「498」は結婚の周年を意味する(2023年6月撮影)。
生クリーム抜きのドイツ風いちごケーキは小さく刻まれ、観衆に販売された。一切れ3ユーロ(約500円)。


偉人伝

マルティン・ルター

Martin Luther

マルティン・ルターはカトリックの聖人ではないが、ルターの時代にカトリックから分派したイギリス国教会(Church of England 日本では聖公会 Anglican Church)で聖人として扱われている。マルティン・ルターは 1483年、ヴィッテンベルグから南西に約100キロメートルの地アイスレーベン(Eisleben)で貧しい鉱山師の息子として生まれた。
父は法律を学ばせ法律学者、弁護士を望んでいたが、エアフルト大学で法学を学んでいる時期に、エアフルト郊外で落雷にあい、稲光に恐れを抱いたマルティン・ルターは、「助けてください聖アンナ。修道士になりますから!」と聖母マリアの母、聖アンナに執り成しを依頼し、エアフルトの聖アウグスティノ修道会に入った。エアフルトの修道院で祈りと聖書研究の日々を過ごし、1507年司祭に叙階された。
1510年末からローマに行き、約37週間ローマに滞在し、ローマでのカトリック社会の衰退、退廃を体験し、講話の中でカトリック社会の道徳的退廃を語るようになったとされる。
1511年ヴィッテンベルグ大学に招聘され聖書解釈、神学を教えた。
1517年ローマの教皇庁が販売する贖宥状に懐疑的だったルターは、マルティン・ルターの保護者でもあった君主フリードリッヒ三世賢明公の城の教会の入り口門で「95か条の論題」を発表し、問題提起をして討論会を促した。しかし、討論会は開かれることがなく、この論題が引き金となりプロテスタント運動が起きた。
1518年南ドイツのアウグスブルグ(Augusburug)でルターの審問が行われ、疑義の撤回を求められたが拒否し、逮捕を恐れ逃亡した。1521年、ルターは教皇庁より破門された後、ヴォルムス帝国議会に召喚され、自説を撤回するように求められたが「聖書に明らかな根拠がない限りいかなることも認められない」と拒否し、保護者であるフリードリッヒ三世賢明公のヴァルトブルグ城に逃げ込み、約1年間あまりを過ごした。その間、ルターは新約聖書のドイツ語訳を行った。1522年、ルター不在中に無法状態になりつつあったヴィッテンブルグに戻り、過激派と戦い、非暴力を訴え、著作活動を続けた。
その頃、修道院との契約、掟に異論を唱えていたルターを頼って、修道女9名がヴィッテンベルグに逃亡してきた。カトリックでは聖職者の妻帯は認められていなかったので、修道士であったルターも独身生活を続けていた。しかし、司祭独身制に疑問を持つようになったルターは、結婚によって肉体的欲望は正当化され、罪にならないと考えるようになった。ルターは修道院から脱走してきた修道女たちに修道士たちとの結婚を斡旋し、家族団欒の人生を歩むよう推奨した。
ルターは最後に残った9人目の修道女カタリナ・フォン・ボラと結婚した。マルティン・ルター41歳、妻カタリナ26歳、15歳離れた夫婦だった。当初カタリナとの結婚に乗り気でなかったルターも、結婚生活は子宝にも恵まれ、カタリナの内助の功に支えられ、家族団欒、仲睦まじい夫婦生活を送り、生まれ故郷のアイスレーベンで62歳の人生の幕を閉じた。ルターは「世の中では愛し合って結婚し、結婚して愛を失うが、私たちは結婚して愛を育んだ」と晩年回想している。
イギリス国教会におけるマルティン・ルターの記念日は、帰天の日、2月18日。

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