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スーザン・ソンタグと「キャンプ」を伴う「ヴァルネラビリティ」について

 最初にソンタグの代表作とされる『反解釈』の邦題の解釈が正しいだろうかという問題は解決しておいた方が良いと思う。原題は『Against Interpretation』で『Anti-Interpretation』ではないことに留意したい。つまり「反解釈」とまでは言わないが「解釈には抗う」というニュアンスなのである。

 ところで『スーザン・ソンタグ 「脆さ」にあらがう思想』(波戸岡景太著 集英社新書 2023.10.22)を読んでいて興味を誘ったのは、本文以上に脚注に記してあった、1999年4月から7月にかけて『朝日新聞』夕刊に掲載されたスーザン・ソンタグと大江健三郎の往復書簡に対する評論家の内田樹のソンタグ批判と、それに関する評論家の由紀草一の見解である。

 最初にソンタグの立場を引用によって明らかにしてみる。まずは内田樹の『ためらいの倫理学』(角川文庫 2003.8.25)より。

 彼女の文章を読んでいて私が感じる重苦しさは、「おれが主体であること」を一瞬も疑わないその圧倒的で索漠さくばくとした自信から発するのだと思う。
 イタリアでの反戦デモで掲げられたスローガン「戦争をやめよ。ジェノサイドをやめよ」を見て、ソンタグはその幼い理想主義を批判する。

 抗議していた善意の人々は、これらの二つのアピールは、合わせれば同じ主張になると考えていたに相違ありません。しかし、そうはならないのです。私は、こう考えざるをえませんでした。だれ``が戦争を起こしているのか、だれ``がジェノサイドに手を染めているのか。戦争停止によって、セルビア側によるジェノサイドがまんまと続けられるだけの結果になってしまったら……。(『この時代に想う テロへの眼差し』NTT出版 2002.2.5. p.144)

 ソンタグはわざわざ「だれ」に傍点をふって強調している。
 戦争やジェノサイドは社会システムの不調であり、多様なファクターの累積効果として発生する。「だれか」が意図的に開始できるようなものではない。私はそういうふうに考えるが、ソンタグはそういうふうには考えない。(p.31-p.32)

 次に由紀草一の『軟弱者の戦争論』(PHP新書 2006.9.1)より。

 ソンタグは大江健三郎の『ヒロシマ・ノート』から「原爆をある人間たちの都市に投下する、という決心を他の都市の人間たちがおこなう、ということは、まさに異常だ」という一文を引き、次のようにかぶせます。「異論を唱えてもよろしいでしょうか。そこには悪意があるのです。残念ながら、異常なのではなく!」。
 もう一つかぶせてもいいでしょうか。「残念ながら、そこには善意もあるのです」と。(p.196-p.197)

 二つの引用文で感じることは、ソンタグは人間の意志の強さを信じているということであろう。内田が言う「社会システムの不調」も大江の言う「異常」も人間の「悪意」によってもたらされているのであるならば、「善意」で解決できると「信じて」いるのである。「解釈に抗う」というタイトルの著書を上梓した著者は(おそらく)散々逡巡しながら、とりあえずカッコ付きでも「信じる」しかないという立場なのであろう。

 戦争に関する内田の立場を引用してみる。因みに由紀も同じ文章を引用している。

 私は戦争について語りたくないし、何らかの「立場」もとりたくない。もちろん現場になんか頼まれたって行きたくないし、「戦闘にくみする」ことなんかまっぴらごめんである。
 そんな人間は戦争について論じる資格がない、とソンタグとその同類たちが言うから、私は黙っているのである。黙るもなにも、そもそも私には何も言うことがない。戦争のことは、私には「よく分からない」からだ。私はただ戦争が嫌いで、戦争が怖いだけである。
 あるいは私のこのような戦争にたいする腰の引き方は、日本政府の腰の引き方と「同型的」なものなのかもしれない。しかし、第二次大戦後の実状に微する限り、「現場へ乗り込んで、きっぱりとした態度をとる」ことをよしとする国と、「現場にゆかずに、ぐずぐずしている」ことをよしとする国のどちらが多くの破壊をもたらしたかは誰の目にも明らかだろう。(p.26)

 内田のロジックは日本は戦争を放棄しているから戦場になることはあり得ないという前提があるからこそ成り立っているのであって、戦争をしなかったために失ってしまったものもあることは覚えていた方がいいと思う。
 例えば、日本はウクライナのようにロシアの侵攻に抵抗して戦争をしなかったが、その代わりの安部元首相が友人のウラジミールに北方四島をタダ同然で明け渡してしまったり、人質を取り戻すためにイスラエルがガザ地区に戦争をしかけたように日本は北朝鮮に戦争をしかけなかった代わりに、日本は北朝鮮に拉致された多くの日本人を取り戻せないままなのである。そもそも当時の小泉首相の訪朝の際の日朝首脳会談に関して北朝鮮は騙されたと感じており、内閣官房副長官(2002年)と自民党幹事長(2004年)として小泉と共に行動していた安倍は北朝鮮からも詐欺師と見なされていたのだから、安倍が首相である限り拉致問題など解決するはずがなかったのである。

 樹、君のことを言っているのだよ(笑)。

 いわゆる「キャンプ」としてソンタグも評価している三島由紀夫に関して内田は三島が東大全共闘と討論した記録『美と共同体と東大闘争』(角川文庫 2000.7.25 p.15)を踏まえて以下のように記している。

 三島〔由紀夫〕が標榜した反知性主義者とは、徹底的な論理性・合理性とおなじく徹底的な非論理性・非合理性を同時に包摂することのできる、豊かな生命力の横溢した、血と肉をそなえた人間存在のありようを指していた。
 この「反知性主義者」の相貌は私には魅力的に思えた。(『沈黙する知性』夜間飛行 2019.11.11)

 もちろんかつては「世界の警察」を担っていたアメリカの役割はもはや風前の灯火であり、それに伴うかのようにソンタグのロジックも力を失っているように見えるのだが、ソンタグの「ヴァルネラビリティ(脆さ)」とは正義が正義という定義を維持できず、直ぐに悪に堕落してしまう弱さだとするならば、ソンタグがヴェトナムに行き、サラエヴォに行き、アルバニアにも行くことで、それが時に「キャンプ」の容貌を呈するとしても何とかしてヴァルネラブルな「正義」を正義のまま維持しようとする努力は理解できるし、結果的に、まるで三島の最期のように「道化」を演じることになってしまっても、「何もしない」や「見てるだけ」以外の選択肢がソンタグにあっただろうか?

 櫻坂46というガールズグループに『Cool』という歌がある。秋元康による歌詞の冒頭を引用してみる。

大事なことなんて誰にも言っちゃダメなんだ
自分の心飛び出せば一瞬で腐る
どんなキレイな言葉を選んだとしても
悲しいくらい見苦しいものに変わる
人間は誰も
愛を信じているのに
空気に触れちゃったら
それが弱さになってしまう

 ソンタグの「ヴァルネラビリティ」の的確な定義のように見えるのだが、「空気に触れちゃった」からみなさんが読んでいる頃には「腐って」いるかもしれない。