■■内田樹先生と「新しいナチズム」■■

集団ストーキングは別名を「ソロ・ホロコースト」という緊張感を強いるような表現をされることがあります。私も体験するまでは、名前だけは聞いたことはありましたが、正直のところ6割は信じていない程度の認識でした。

NPOの専門家に「集団ストーカー」と指摘されたのは2年程も前になります。ご指摘を受けてから、「何とかしなくては」とあれこれ行動を起こすのですが、今考えると休みがちでのんびりしたものだったと思います。頭では理解していても、真に受けてはいないという感じだったかもしれません。「急速に拡大する」「最後まで行われる」とその特徴を伝えられました。「最後」とは何か。身動きが取れなくなって、部屋に引きこもりになり、そこれでも止まることはないというご説明を受けました。

事実を記述し、公開するというのは、その後に起こるであろうハレーションを考えると緊張を強いる行為です。書く人間にも大きな痛手を負わせるのが、周知の大きな難関になっています。それら含めたシリアスな性質は、事実の衆知という行為自体に伴うものですので、ある程度の深刻さはどうかお許しいただきたいと思います。

私は社会的には底辺に属する立場です。ここでは周知するという立場であり、騒動は昨日、今日、始まったことではなく、社会に拡大されてきましたので、不調法を押して記述したいと思います。敬意は欠かさないように注意しながら。

また、皆様とはコンセンサスの共有に大きな壁が立ちはだかっています。私は一次ソースのURLを知りません。皆様のご反応を確認して、応答することができません。ストーカーのかたに提供されている情報群とそれによって展開されている世界観、歴史観は私のものとは一致はないでしょう。これをコインテルプロと言います。しかし、残念ながらそこには事実が含まれ、不信を買っていることと思います。それについてはSNS上に半永久的に漂い、私は人生で背負っていくしかないと思っています。

現在進行中の集団ストーカーには前段があり、その期間は集団ストーキングよりも長期に及びます。集団ストーキングは3年近く、騒動自体は前段を含めてますと、かれこれ8年になります。ますが、その発端から現在まで中心となって指揮、扇動されてきたのが内田樹先生となります。

(端緒のパートの詳細は『ABOUT IT』をご参照いただければと存じます。

『ABOUT IT  −再掲バージョン −』
https://note.com/xr448/n/n92c59ebc6c36
『ABOUT IT - re-published version -』(英語バージョン)
https://note.com/j_oot/n/n2225c0427c06


個人的には、どの考察よりもはみ出すことのない、もっとも端的で包括された表現だと感じてきました。集団ストーカーが開始される以前からの考察です。

それは、私に強い同意や、時には強烈な一致を見る思いと、信じがたいような違和感が衝突するような感覚を呼び起こしてきました。騒動が始まる前、私は内田先生の愛読者でした。日本を代表する識者によるご著書を次々読破していくような季節を持っていました。映画批評の書籍は第一作目ではなかったでしょうか。一方的に共感を持たせていただいたのを覚えています。

先生の洞察には、騒動の第一者の主観でありながら同時に第三者の客観性という困難な両立を見ることができると思います。

では、その変遷をご紹介してまいりたいと思います。

(前文が長い、濃い…ご批判いただいたかもしれません。今日のご挨拶からつなげたもので読みやすいかと思ったのですが、点検してみますね。少々お待ちください。

情報のご提供ありがとうございます。いつもお世話になっています。)




××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××

■騒動開始から1年と4か月。

私は不在。先生の私に対するメッセージ、騒動の牽引が高じていきます。一方で、批判、牽制の声も。
テレビを通じ、放送テーマに掛けて私へのメッセージを呼びかけることでひとつのピークを迎えます。そして、先生は騒動の説明を求められることになります。

時系列順に。 放映から約20日前のサイン。

その2日後

上からの一連の流れから「嘘も百回」や「印象操作」「子ども」といった言葉が文脈を知る人たちから上ります。

さらに1日後



10日後

(これは私宛のテキストの中でも代表的なものの1つで、複数回提示されます。)

××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××

『○○○リバタリアンという怪物』

(特に私に対するメッセージと思われる部分を抜粋)

相模原の大量殺人事件のもたらした最大の衝撃は、植松聖容疑者が事前に安倍晋三首相宛てと大島理森衆院議長宛てに犯行を予告する内容の書簡を届けていたことにある。

自分の行為が政権と国会多数派には「好ましい」ものとして受け止められ、権力からの同意と保護を得られるだろうという期待をこめたものだった。逮捕後も容疑者は「権力者に守られているので、自分は死刑にはならない」という趣旨の発言をしている。

もちろん、これは容疑者の妄想に過ぎない。けれども、何の現実的根拠もない妄想ではない。彼の妄想形成を強化するような現実が今の日本社会内部にはたしかに存在しているからである。
アナウンサーの長谷川豊は事件の直後の2016年9月に自身のブログに「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」というタイトルの記事を投稿した。

重篤な病人や障害者に対する公然たる差別発言にはまだ一定の社会的な規制が働いており、有名人の場合には、それなりの批判を受けて、社会的制裁が課されているが、在日コリアン、生活保護受給者やLGBTなどの社会的弱者に対する差別や攻撃の発言はほとんど何のペナルティもないままに垂れ流しされている。

際立つのが片山さつき議員で、生活保護受給者は「実質年収4百万円」の生活をしているという無根拠な都市伝説の流布に加担して、生活保護叩き発言を繰り返してきたが、最近も捏造投稿に基づいてNHKのニュース内容にクレームをつけて、生活保護受給者が社会福祉の「フリーライダー」だという世論の喚起に励んでいる。もちろん、本人がそう「信じている」という信憑の問題もあるのだろうが、「そういうこと」を公言すると選挙で票が集まるという現実的な打算も同時に働いているはずである。

アメリカではドナルド・トランプ大統領が「弱者叩き」の代表格である。「ラストベルト」のプア・ホワイトたちの輿望を担って登場したはずのトランプだが、就任後実施された政策は富裕層への厚遇措置ばかりで、移民排斥や、海外企業の国内移転への圧力などの「雇用対策」は今ここにいる社会的弱者のためには何の利益ももたらしてはいない。

今の日本で起きている「弱者叩き」はアメリカ原産のリバタリアニズムが日本に漂着し、日本独特の陰湿なしかたで退廃したものだと私は理解している。

他者からの同情や公的支援を当てにしてはならない。医療保険制度はいらない(医療は「サービス」なのだから金を出して買え。金がないやつは死ね)。公立学校も要らない(教育は「サービス」なのだから、金を出して買え。金がないやつは働いて学費を稼ぐか、有利子で借りろ)。社会福祉制度はいらない(他人の施しがないと生きていけないやつは死ね)と、ずいぶん非人情ではあるけれど、バケツの底が抜けたように「あっけらかん」としている。

しかし、さすがに日本では(心ではそう思っていても)そこまでは言い切れない。居酒屋のカウンターで酔余の勢いで口走ることはあるだろうが、公的な立場ではなかなか口にはできない。

その不徹底をとりつくろうために、日本的リバタリアンは「排外主義」的イデオロギーを装飾的に身にまとう。そして、貧乏人も、病人も、障害者も、生活保護受給者も、みな本質的には「外国人」であるという摩訶不思議な理説を噛ませることで、話のつじつまを合わせようとするのである。

植松容疑者がこれは「日本のために」したのだとか、「社会が賛同するはずだった」とかいう自己弁明を繰り返し、「国益を害するものたち」を「処分」する「官許」を首相や衆院議長に申請したことには論理的には必然性があったのである。彼は自分が「○○○リバタリアン」という政治的奇形物であり、現在の日本の政界の指導者たちの多くが程度の差はあれ自分の「同類」だと直感していたのである。

××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××


先生に対して「嘘」「イジメ」などの批判が続出

■騒動開始から1年と4か月

私は不在。先生の私に対するメッセージ、騒動の牽引が高じていきます。一方で、批判、牽制の声も。
テレビを通じ、放送テーマに掛けて私へのメッセージを呼びかけることでひとつのピークを迎えます。そして、先生は騒動の説明を求められることになります。

時系列順に。 放映から約20日前のサイン。


〇内田先生のポストです
【とりあえず原稿二つ仕上げました。一つは「小児看護学会」のための抄録。一つは劇団「態変」の出してる「イマージュ」に寄稿した「津久井やまゆり園事件」について。「愛国リバタリアン」という奇形的な政治的生き物がどうやって出現したかについて。は~、疲れた。ちょっとやすも。】

その2日後

〇先生のポストです。
【『GQ』の原稿、4500字をリタッチ。共謀罪の話。これ先月号にも書きませんでしたっけ?まあ、いいや。機会がある限り「共謀罪のどこが問題か」は書いておかないとね。僕が恐ろしいのは「国内に国を滅ぼそうとしているたくさんの人々が共謀の機会をうかがっている」という法制定の前提です。

処罰のおそれも報復のおそれもないと知るといくらでも卑劣にも暴力的にもなれる人間がこの世には一定数存在していることを僕は経験的に知っています。ふつうの市民社会では出番がない彼らですが、共謀罪は彼らに「政府がオレたちの活躍を期待している」という錯覚をもたらします。

【相模原のやまゆり園での大量殺人事件の植松容疑者は事件の前に首相と衆院議長に書簡を送りましたが、それは彼らから「殺人許可」がもらえるかもしれないと期待していたからです。だから事件後も「権力者に守られているから死刑にはならない」などと口走っていたのです。】

(続きです)【もちろんこれは妄想に過ぎせんけれど、妄想に燃料を備給したのは、ヘイトスピーチや生活保護受給者への罵倒や「病気は自己責任」論や嫌韓・嫌中本であり、特定秘密保護法や共謀罪の前提にある「国内に反日勢力がうじゃうじゃいる」という現実認識です。それらはリアルに今ここに存在しています。

上からの一連の流れから「嘘も百回」や「印象操作」「子ども」といった言葉が文脈を知る人たちから上ります。

さらに1日後
〇【『GQ』原稿送稿。共謀罪について。この法律は当面は「一罰百戒」的運用されて、反政府的人物を恣意的に選び出して、恣意的に処罰し、メディアを怯え上がらせることと市民の間に相互監視・相互不信感情を扶植することをめざすと思います。市民の相互監視・密告が一番監視コストが安いですから。



10日後
〇【劇団態変の金満里さんのご依頼で『イマージュ』に「相模原事件」について一文を寄稿しました。事件そのものはもう忘れられ始めていますけれど、この事件が露呈した日本社会の歪みは日々さらに亢進しています。

(※これは私宛のテキストの中でも代表的なものの1つで、複数回提示されます)

××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××
『○○○リバタリアンという怪物』

(特に私に対するメッセージと思われる部分を抜粋)


相模原の大量殺人事件のもたらした最大の衝撃は、植松聖容疑者が事前に安倍晋三首相宛てと大島理森衆院議長宛てに犯行を予告する内容の書簡を届けていたことにある。

自分の行為が政権と国会多数派には「好ましい」ものとして受け止められ、権力からの同意と保護を得られるだろうという期待をこめたものだった。逮捕後も容疑者は「権力者に守られているので、自分は死刑にはならない」という趣旨の発言をしている。

もちろん、これは容疑者の妄想に過ぎない。けれども、何の現実的根拠もない妄想ではない。彼の妄想形成を強化するような現実が今の日本社会内部にはたしかに存在しているからである。
アナウンサーの長谷川豊は事件の直後の2016年9月に自身のブログに「自業自得の人工透析患者なんて、全員実費負担にさせよ!無理だと泣くならそのまま殺せ!今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」というタイトルの記事を投稿した。

重篤な病人や障害者に対する公然たる差別発言にはまだ一定の社会的な規制が働いており、有名人の場合には、それなりの批判を受けて、社会的制裁が課されているが、在日コリアン、生活保護受給者やLGBTなどの社会的弱者に対する差別や攻撃の発言はほとんど何のペナルティもないままに垂れ流しされている。

際立つのが片山さつき議員で、生活保護受給者は「実質年収4百万円」の生活をしているという無根拠な都市伝説の流布に加担して、生活保護叩き発言を繰り返してきたが、最近も捏造投稿に基づいてNHKのニュース内容にクレームをつけて、生活保護受給者が社会福祉の「フリーライダー」だという世論の喚起に励んでいる。もちろん、本人がそう「信じている」という信憑の問題もあるのだろうが、「そういうこと」を公言すると選挙で票が集まるという現実的な打算も同時に働いているはずである。

アメリカではドナルド・トランプ大統領が「弱者叩き」の代表格である。「ラストベルト」のプア・ホワイトたちの輿望を担って登場したはずのトランプだが、就任後実施された政策は富裕層への厚遇措置ばかりで、移民排斥や、海外企業の国内移転への圧力などの「雇用対策」は今ここにいる社会的弱者のためには何の利益ももたらしてはいない。

今の日本で起きている「弱者叩き」はアメリカ原産のリバタリアニズムが日本に漂着し、日本独特の陰湿なしかたで退廃したものだと私は理解している。

他者からの同情や公的支援を当てにしてはならない。医療保険制度はいらない(医療は「サービス」なのだから金を出して買え。金がないやつは死ね)。公立学校も要らない(教育は「サービス」なのだから、金を出して買え。金がないやつは働いて学費を稼ぐか、有利子で借りろ)。社会福祉制度はいらない(他人の施しがないと生きていけないやつは死ね)と、ずいぶん非人情ではあるけれど、バケツの底が抜けたように「あっけらかん」としている。

しかし、さすがに日本では(心ではそう思っていても)そこまでは言い切れない。居酒屋のカウンターで酔余の勢いで口走ることはあるだろうが、公的な立場ではなかなか口にはできない。

その不徹底をとりつくろうために、日本的リバタリアンは「排外主義」的イデオロギーを装飾的に身にまとう。そして、貧乏人も、病人も、障害者も、生活保護受給者も、みな本質的には「外国人」であるという摩訶不思議な理説を噛ませることで、話のつじつまを合わせようとするのである。

植松容疑者がこれは「日本のために」したのだとか、「社会が賛同するはずだった」とかいう自己弁明を繰り返し、「国益を害するものたち」を「処分」する「官許」を首相や衆院議長に申請したことには論理的には必然性があったのである。彼は自分が「○○○リバタリアン」という政治的奇形物であり、現在の日本の政界の指導者たちの多くが程度の差はあれ自分の「同類」だと直感していたのである。

××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××××

先生に対して「嘘」「イジメ」などの批判が続出

さらに翌日。

共謀罪について、『権力者の全能感が見える』の文章。
権力者が全能感を覚えるのは、不合理で、不適切なことをしても誰もそれを咎(とが)めない時である。だから歴史上の独裁者たちはまったく無意味な苦役をその臣民に強いることで、おのれの全能を確認しようとしたのである。


そして、
〇 【朝稽古だん。共謀罪は採決されました。この法律によって政府は「気に入らない人間をいくらでも拘束できる法律」を手に入れました。共謀罪に賛成の議員たちの多くが「理想郷」として思い描いているシンガポールに一気に近づきました。 】


ある方の「体罰」「暴行」という批判の声。

(上記一連のメッセージとは別に連日、先生の私に対するサインは平行。)

〇上から3日後。テレビ出演。
(※ 騒動を府来るから知る人にとっては、こちらもベーシックに繰り返されているお話かと存じます。)

【共謀罪通った朝から僕のツイッターのところに来たクソ”リプ”(返信)すごかったですよ。】

【「日本から出て行け」とか】

”市民が市民を監視する社会が到来した”

【本当にね、共謀罪があけたチャンネルというのは市民が市民を密告したり、どう喝したり、罵倒したり、自分の隣人を敵だとみなすことを政府が奨励していると】

【一番怖いのは市民による市民の密告】

【ゲシュタポ(ナチスの秘密警察)の場合なんかでも、ほとんで、隣人が隣人を密告した】

【何をやっているかというと、国会審議には意味がないんだということを、まさにその印象を 国民に広く植えつけるということを目的として、一貫してやってると

【結局どれほど野党が反対しようと内閣が決めた法律は必ず通るんだと】

法の執行機関と制定機関が同一であるような同一形態のことを 『独裁』というわけですから】


テレビを通じたメッセージは、多くの賛同を得る一方、「権力の私物化」「個人攻撃」「悪意と憎悪」といった批判も受けます。


●文章アップ後の反応。

現在から約1年10ヶ月前になりますが、当時の反応も記しておきます。この文章のテレビ出演の流れから説明を求められる交信は、他の方の助力もあって、後に先生から事実確認をいただきました。ただし、3日後には否定のメッセージが散見され出します。

〇事実確認をしていただいた後、先生のサイン


〇3日後、先生から
ホロコースト虚偽説を描いたDenial という映画があります。歴史修正主義はどんな妄説も、その正否にかかわる論争に持ち込みさえすれば、それなりの学問的根拠があるように見えることを利用する、という実話の映画化。歴史修正主義は「両論併記に持ち込んだら勝ち」なんです。

(続きです)【Denial の邦題は「否定と肯定」。いきなり「両論併記」に持ち込んで歴史修正主義者に軍配をあげてしまいました。配給会社は映画を観ないでタイトルを作ったのか、悪意があったのか、どちらか?でも、この「両論併記」による迂回的な妄説支援はどうやら今の日本のメディアの常套手段であるようです。】

ここから先生のメッセージに「デマ」「ウソ」というワードが頻出されるようになります。
(※追記 拙稿『内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ』中、『嘘について』の項目をご参照いただければと思います。)

〇内田先生
【ううむ。真相はますます藪の中ですな。でも、久しぶりに名前見ましたダリオ・アルジェント。】

対して、
〇私のメッセージ
【佐藤先生に置かれましては、事実の誤認、味方の相違がございましたら、抽象的な”ウソ””デマ”といった声でなく、ぜひ具体的にご指摘いただきたいと思います。上でも自分のダメな部分を挙げましたが、こちらに一転の間違いも存在しないなどとは、けっして想像していません。ぜひ、指摘してください。】

こちらの問いかけと先生のメッセージが平行線になります。


■以下は、拙稿『◆内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ◆』からの資料になります。

●権力の私物化

このテーマは、ギャングストーキングが始まる以前から、多くのかたから批判が上がっていたもので、批判する方のメッセージ、対する内田先生のメッセージの応答は他の記録でも取り扱ってきました。

〇内田先生のリポストです。
自民党政権である限り、このような「権力の私物化」は反省なく繰り返され、役所はその隠蔽や改ざん、言い訳に追われる。国が壊れていく。今、この国と国民が問われている。

〇内田先生のリポストです。

映画「妖怪の孫」の上映への露骨な“圧力と忖度”。背筋に寒気が走った。これが、岸田首相始め自民党幹部が言う“自由で民主的な”日本社会で起きているのだ。これは「まあ、そんなこともあるか」というような目で見過ごしてよい話ではない。自由と民主主義を脅かす者たちが、背後で蠢いているのだ。】

(※『妖怪の孫』は内田先生の符丁として使われる元安倍首を主題にしたドキュメンタリー映画です。)


内田先生のリポストです。

【「岸田総理も自民党も腹を抱えてゲラゲラ笑っている。ちょろいもんだと。権力を使ってやりたい放題でも、五輪で大儲けしても、統一教会と癒着しても、隠蔽・改ざんで善良な現場公務員を死に追いやっても、みんなきれいに忘れて支持してくれる。」】
【>「だから日本はここまで壊れた。こんなんで本当によいのか?」】

【(※ 「岸田総理」とは誰を指しているのでしょうか?)】

内田先生のリポストです
【「アベノミクスは失敗ではない。もし失敗して経済が悪くなっているんだったら、とっくに選挙に失敗して政権を失ってる。アベノミクスは成功だった。」】

内田先生のメッセージです。
【これが典型的なpowsercracyの語り口です。「今権力の座にいるということはすべての政策が正しく、それゆえ民意を得ているからである。われわれへの批判はわれわれが現に権力の座に言えるという一事をもってすべて棄却される」。超え、現代日本社会が罹患している重篤な病です。】

(※【アベノミクス】とは、安倍政権時にとられた経済政策の総称。「安倍」とは、内田先生を示す代表的な符丁です)


内田先生のメッセージです。
今の日本のメディアは「言論の自由」の名において「権力のある人間」「声のでかい人間」が言論の場を支配することを無批判に看過しています。常識の名において「いい加減にしなさい」と良俗に反する言葉をたしなめることもメディアの仕事のうちだとは思いませんか。

(続きです)【今の日本医決定的にかけているのは「常識」だと思います。「それは非常識だ」という判断が現実的な抑止力にならない。法律に基づかないと、あるいは実力による禁圧がないと「非常識な言動」が抑止できない社会は「野蛮な社会」です。


内田先生へのご批判のリポスト
‟悲しいですが、本邦は古から「いじめればいじめるほど、成員は言われるがままになる」という手段が効果的なんでしょう。

対して内田先生のメッセージです。

これはほんとうにその通りですね。政治家がどれほど理不尽なことをしても「この人は理不尽なことをしても罰されないほど権力があるからそうしているに違いない」と国民は推論してくれる。だから「威張れる立場になるためには威張ってみせるのが一番効果的」という経験則が通用してしまう。


●ファシズム系



内田先生のリポストです。
(こちらのリポストは、内田先生に対して挙がったファシズム批判、一連のものです。)

【ドイツの政府機関
「1944年の今日7月20日は、ヒトラーの暗殺未遂事件があった日。軍の一部の将校らがナチス支配に対抗し、クーデターを試みました。結果は失敗におわり、この事件に関わったとされる多くの人が処刑されました(画像)。そしてその中には、外務省の職員も13名いました。」】

(※ ある方が先生を批判したリポストを先生もリポストするという形で提示されました。
「ヒトラー」とは誰のことしょうか? 「軍の一部の将校ら」は誰を指しているでしょうか?)

(続きです)
【>「ドイツ外務省内には、この事件やそのほかの形でナイツ支配に対抗し処刑された外務省員と、これまで殉職した職員の名前を記し、追悼した壁があります。彼らは勇気と責任感を持つ模範であり、今日まで、そしてこれからの職務の指針となるべく、その壁はあえて建物内の職員の目につく場所にあります。

(※【対抗し処刑された】【名前を記し、追悼した壁】。私は集団ストーカーのかたに公開された「個人情報」群のurlを把握できていません)


私の注意書きです。
【(時系列順に。アカウント名、およびアイコンをマスクするかどうかの基準は、騒動の存在を知っているかで分けています。おおよそのこちらの判断です)】

【内田先生のリツイート
(政権が報道番組に圧力をかけたのかで国会が紛糾しています。その件に関して)

ファシズムの亡霊が出てきたと当時のことを鮮明に覚えている。放送法を捻じ曲げた暴論だったのにあれば部下の捏造だったと責任を弱き者に押し付ける。なんと言う卑劣さだろう!

>(※ 現在、私の騒動としばしばリンクして挙げられている件です。先生に向けられたポストです。)


内田先生のリポストです。

引用リポスト内のメッセージ
”2世議員が本邦にこんなに拡大した主な原因のひとつは、代議士を「私たちの受益代行人」として持ち上げる人たちのポリティックな道徳心の低さだろう。そういった業界人は初めから「デモクラシーの理想原理」なんて一片の価値も発見していない。2世議員の方が統べることが容易。”

リポストのメッセージ
【ルキノ・ヴィスコンティの『地獄に堕ちた勇者ども』は、ドイツの企業経営者一族が自分の利益のためにナチスを支持する過程を描いていました。それが国を亡ぼすことになるわけです。】


〇このテキストを欠いている最中のやり取りです。

【追記】ご質問
先ほど内田先生のアカウントを拝見しましたら、‟なぜ直接本人に問わないのか”というお言葉がありました。
お言葉に従いご質問させていただきたいと思います。かねてからお問いかけして、まだお答えいただいていないものをあらためてお問したいと思います。

※「超能力」アラートにおける回答としてこの『福田村事件』が提示されたとき、先生にご質問をしました。
”映画ですので様々な見方があると思うのですが、「人間は時に愚かなことをすることがあり、そういった負の歴史を映像として残すことで二度と悲劇を繰り返さないためのリマインダー」を大きなメッセージとして製作されたと見ることができると思います。先生のテキストにもその旨を窺うことができるのですが、なのになぜ悲劇を繰り返そうとするのですか”というご質問内容でした。
ご多忙中誠に恐れ入りますが、お答えいただきますよ何卒よろしくお願い致します。

〇内田先生のメッセージです
【maturity の定義は難しいですよね。この語をどう定義するかでその人のmaturity の程度がわかるからです。】

〇私からさらに同じご質問を致しました。

〇本日の内田先生のご返答です
【この人の思想はたぶん若い人に共感されるんでしょうね。どうして共感されるのかについて考えたものが二本あるのでご紹介します。一つ目。http://blog.tatsuru.com/ご返答です。】
(※ 掲載が昨日の日付になっている記事です)

●『フリーライダーの効用』2024-03-11 lundi

〇内田先生のメッセージです
【もう一つ、もうちょっと長いもの。これは『街場の成熟論』に採録されました。http://blog.tatsuru.com/】
(※掲載の日付は一年前になっています。拙稿『内田樹先生と「あたらしいナチズム」』で取り上げさしていただきましたので、そちらをアップいたします)
(先生、おねがいですから先ほどからずっと嫌がらせやめていただけないでしょうか…集中できません)

●『パワークラシーの国で』
【全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2023/02/22_1105.html

若い経済学者が高齢社会対策として高齢者の「集団自決」を求めた発言がニューヨークタイムズに大きく報じられた。
【「権力者支配(powercracy)」「パワークラシー」は違う。権力者の正統性の根拠が「すでに権力を持っている」ということだからである。

「パワークラシー」の国では、権力者批判が許されない。権力者を批判できるのは、権力者だけだからである。

わが国が「パワークラシー」の国だと考えると、当今の権力者たちの異常な言動が理解できるはずである。彼らの非論理性や非倫理性は、別に何らかの政治目的の達成のために採択された非情な手段ではないのである。権力者であるために必要なのは、卓越した政治的見識を持つことでも、雄弁の才に恵まれていることでも、人心掌握に長けているからでもなく、「現に権力的にふるまっている」という既成事実だったのである。

 だから、彼らは自分たちが「法の下の平等」から除外されていること、「非常識」という評言が自分たちには適用されないこと、他人に無用の屈辱感を与える権利があることを繰り返しアピールすることになる。
まことに困ったことに、「パワークラシー」の国では、権力者だけでなく、権力を持たない一般市民までがその影響を受けて、「権力者であるような顔つき」を競うようになる。】


〇一昨日(2024年3月16日)
(上のブログのモチーフ、優生思想の案件【高齢者の「集団自決」】が国会で取り上げられました。その記事に対して)

〇内田先生のメッセージです
(国会で首相に優生思想の発言者について問うた記事に対して)
政府もはっきり言えばいいのに。「成田氏の発言はやや言葉足りずではありますが政府の方針です。】に対して先生のメッセージです。ただし、早く死んで頂きたいのは生産性のない老人だけでありまして、生産性の高い方はむろん長生きする権利があるということでございます。」】


〇さらに翌々日(2024年3月19日)
上記「高齢者の集団自決」を唱える経済学者のインタビュー記事に対して

内田先生のメッセージです
政府や自民党が「公言できない本音」を代弁する「パペット言論人」という職業があって、そこにはこれまでも相当なリソースが注ぎ込まれてきた。ただ自体が下るにつれて「政府の本音」の「公言できない度」が高まり、結果的に「暴言言論人」の需要も高まった、という展開だと思います。】







■最近のテキストから抜粋

●月刊日本インタビュー「ウクライナとパレスチナ」

【ネタニヤフ首相はハマスを「新しいナチス」と呼び、演説では「私たちは光の民であり、彼らは闇の民だ」という善悪二元論的な理解を示しました。イスラエルの国防大臣は「私たちは人間のかたちをした獣(human animals)と戦っている」とまで言い切りました。イスラエルによれば、今回のハマスとの戦闘は、二つの国家がそれぞれの国益を守るために行う「ふつうの戦争」ではなく、人間が悪魔と闘っている「神話的な戦争」だということになります。それではイスラエルのガザ攻撃に歯止めが利かなくなって当然です。相手は人間じゃないんですから。】(※誤字修正)

(※「騒動で何が起こっているか」…内田先生からストーカーへの指示、扇動になっています)

(※【「新しいナチス」】【善悪二元論的な理解】【「私たちは人間のかたちをした獣(human animals)と戦っている」】【「ふつうの戦争」ではなく、人間が悪魔と闘っている「神話的な戦争」】【それではイスラエルのガザ攻撃に歯止めが利かなくなって当然です。相手は人間じゃないんですから。】 
「ナチス」「善悪二元論」「獣」「ふつう」……どれもこの騒動で用いられてきたワードや記号を引用されています)

【この瞬間も殺され続けているガザの人たちの命を守るために一刻も早く停戦することが最優先される。「これは言葉の問題ではなく、時間の問題なのだ」というのは感染の拡大を前にして、この病気がペストかどうかをいつまでも論じている専門家たちに向けて『ペスト』の医師リウーが告げる言葉です。今のガザについても、同じことが言えると思います。】

(※”マイノリティーの時間を奪え”‟時間は死”‟長引かせろ”は内田先生の頻出のメッセージです。【『ペスト』】も騒動で用いられてきた記号です)

【ロシアも前近代のパラダイムに退行しつつあるように見えます。プーチンはウクライナの「非ナチ化」を掲げて侵攻しました。】

(※【前近代のパラダイムに退行】…内田先生の騒動に対する批評のひとつであり、指揮内容のひとつです。頻出されるものです。

【問題は和平協定そのものの合理性よりむしろ国民感情です。最も強く人を衝き動かすのは怒り、憎しみ、屈辱感といった「負の感情」です。

(※ポピュリズムの説明であり、ナチスのプロパガンダでもありますが、内田先生の騒動に対する批評のひとつであり、指揮のひとつです。頻出されるものです)

【物語がエンターテインメントとして成立するためには、登場人物たちに「深み」がなくてはなりません。[…]『福田村事件』はそういう映画でした。私たちは死者たちについて物語ることを通じて「供養する」。それは死者たちに「善人」「悪人」というラベルを貼って、それで済ませるのではなく、一言では片づけられない人間の「深み」を物語るということです。】

(※【『福田村事件』】…別名「朝鮮人虐殺」。「朝鮮人が井戸に毒を撒いた」といったデマによって起こった歴史的なヘイトクライムです。「私から超能力で攻撃を受けている」を「デマ」だとご回答いただい際に2度出されたメッセージです。

【死者】とは誰の事でしょうか? 【それは死者たちに「善人」「悪人」というラベルを貼って】。参照としては、上述の【善悪二元論】。「戦争こそ平和」「服従こそ自由」のダブルスピークを想起していただければ読み解きやすくなるかと思います。)

【現在、日韓関係は改善に向かっていますが、その背後にはこういう文化的な努力の積み重ねがあるからだと思います。どれだけ長い時間がかかったとしても、私たちは死者の鎮魂と生者の慰藉を通じて負の国民感情を鎮静させ民族間の憎しみの連鎖という「呪い」を解かなければなりません。

(※こちらは上述の内容と逆のことが書かれています。【死者の鎮魂】【憎しみの連鎖という「呪い」をとかなければなりません】。「服従こそ自由」。ダブルスピークを想起していただければと思います)

【今、イスラエルはパレスチナとの共存を拒んでいますが、イスラエルという近代国家ができたのは、そもそもヨーロッパがユダヤ人との共存を拒んだことが遠因です。問題の根源は「他者と共生すること」ができない人間の非寛容さです。それが近代反ユダヤ主義を生み、パレスチナ問題を生み、現在のガザでの虐殺を生み、さらには新たな反ユダヤ主義さえ生みだそうとしている

(※ ダブルスピーク。正逆を反転したことが書かれています。【問題の根源は「他者と共生すること」ができない人間の非寛容さです。それが近代反ユダヤ主義を生み、パレスチナ問題を生み、現在のガザでの虐殺を生み、さらには新たな反ユダヤ主義さえ生みだそうとしている】。 参照は、上述【新しいナチス】)

【答えは簡単と言えば簡単なのです。反ユダヤ主義とパレスチナ問題は同根の問題だからです。これを生み出したのはどちらも「他者との共生を拒む心」です。そのような弱い心情に人が屈する限り、同じ種類の問題は無限に再生産されます。「理解も共感も絶した他者とも共生し得るような人間になること」、それ以外の解決法はありません。】

(※ ダブルスピーク。正逆を反転したことが書かれています。【これを生み出したのはどちらも「他者との共生を拒む心」です。そのような弱い心情に人が屈する限り、同じ種類の問題は無限に再生産されます。「理解も共感も絶した他者とも共生し得るような人間になること」、それ以外の解決法はありません。】)

以上となります。

(内田先生、やめていただけないでしょうか)
後者のテキストに関しては、すこしわかりにくかったかもしれません。また、コンテクストに依拠する度合いの高い日本の言語、それの機械翻訳(私がするすると英訳できればいいのですが…)を考えると、「ほのめかし」の意味もダイレクトに伝わりにくいかもしれません。ですので、私が伝わりやすいように(注)を付けていきたい思います。日本で騒動を古くから知り、内田先生のメッセージを読んできたかたには、こちらはさほど難度は高くなく、しっかりとした間主観性があるものだと思います。どのメッセージも内田先生の騒動への指令としては頻出しているものです。また、一読して簡単に注目部分を傍線を引いて行ったのですが、新たに詳細に引き直していきたいと思います。
これでご理解の一助になりましたでしょうか。内田先生には、「ハラスメント」(内田先生曰く)を長年受けている身とはいえ、また、皆様に事件を周知する立場とは言え、「ほのめかし」を解説するというご無礼をどうかお許しいただいと存じます。

ここで、内田先生にご質問がございます。おそらく海外のかたがたがこのテキストを読んでもっとも混乱する箇所かと思いますので、ご教示いただければと思います。

【追記】
皆様のご反応に対して柔軟に対応できないのが悲しいのですが、初めて「新しいナチス」のご質問をした日、こちらの文章の解釈に対する内田先生のリアクションを再掲させてください。こちらも別のかたにも騒動文脈で妥当であることをご確認いただいたものです。

〇内田先生のメッセージです
【子どもの耳ってほんとにすごい。】【発音を忠実に再現してる】


(『ウクライナとパレスチナ』→ご確認のメッセージ→その後のメッセージです。)
(先ほどこの人物名が出てきましたので加えておきます)

〇内田先生のメッセージです
リアルタイムでもご紹介しました。
【カミューサルトル論争についてかくつもりですが、うっかり「ハイデガーはどうしてナチスドイツと心中しなかったのか」について考えだしたら今月もまだ論争にたどりつけませんでした】

(※【ハイデガー】…ナチスに加担した哲学者。第二次大戦後、処罰を逃れたことでも有名)

■『内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ』より抜粋します。

●(続き)【その提案を飲んで「組織を守る」という選択をした時に、勝負は終わります。敗北するのは「仲間を守ることができない」という点で道徳的インテグリティを自分から手離した組織そのものだからです。「一罰百戒」が攻撃する個人は組織を瓦解させるための「レバレッジ」なんです。】

●【■■■さんと3時間懇談。面白かった!「ここだけの話」がたくさんあって、びっくりしたり、腹をかかえて笑ったり。でも、残念ながらこれは活字にはできないんですよね。日本は「もう生きる屍」という■■さんの診立てに「死の先へ抜け出すために死に急いでいる」という僕の仮説が絡み合いました。】

(※ 個々のメッセージの意味より、パターンを読み取っていただければありがたいと思います。)

内田先生は、大学の理事長やそのほか多数の組織で重要な役職に就かれ、教科書にもその文章が採用されるような日本を代表する知的エスタブリッシュメントだというのは、多くのかたがお認めになるところだと思います。もちろん私もその一人です。その特権的なお立場が示すように、日本を善導するコメントやテキストを残されています。そのような立場に立つかたがなぜ、世界や日本を表向きとは逆の方向(上述「瓦解」「死」「新しいナチス」「不寛容」「退行」「憎しみの連鎖」、私との応答でご確認いただいたのが「朝鮮人虐殺」の志向です)に導くような指導をされるのでしょうか?
お手数をおかけして恐縮ですが、ご教示いただけますよう何卒よろしくお願い申し上げます。


●『愛と幻想のファシズム』再読

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2023/09/25_0849.html

【しかし、何よりも私が驚いたのは、メディアからは「ファシスト」と呼ばれ、アメリカを相手に戦いを挑む主人公鈴原冬二の思想が現代の「加速主義」そのものだからである。え
 加速主義というのは、アメリカに発生したポスト資本主義を望見する思想で、シリコンバレーの若手ビジネスマンたちの間では支配的なイデオロギーとなっていると聞く。
 資本主義はもう限界に来ている。しかし、人権擁護や政治的正しさや環境保護を言い立てる人々の干渉で、資本主義はいくぶんか「耐えやすい」ものになり、そのせいでむしろ延命している。それよりは一気に資本主義を終わらせる方がいい。そのためには社会福祉制度や保険制度を廃止し、医療も教育も商品化して金がない人間は受けられないようにする。そうやって、弱い個体を淘汰し、生き残ることができる強い人間たちだけでポスト資本主義の新しい世界を構築するという冷酷でハードな考え方である。
 この思想を鈴原冬二はそのまま口にしている。
「大切なのは、人間があまりに動物から遠く離れてしまったということだけだ。人間は、ただの動物だ。(...)俺は、人間を動物へと戻す。」「幸福にならなければならないという妄想が奴隷達を苦しめている」だから、「日本を一度徹底的に破滅すればよい」と鈴原はつぶやく。
 この破壊的なイデオローグに多数の日本国民が拍手喝采を送り、彼の支配を懇請するようになるというこの小説の展開に現代日本人はもうそれほど違和感を覚えないだろう。少なからぬ数の日本人たちはすでに「人権や政治的正しさ」を嘲り、弱い個体は野垂れ死にすればいいと揚言する政治家たちに拍手喝采を送っているからだ。彼らは自分たちのことを「生き残ることのできる強者」だと信じているのか、それとも絶望のあまり「死なばもろとも」と念じているのか、いずれであろうか。

ご紹介は以上となります。
上記のテーマ「前近代のパラダイムへの後退」は、一番最初にさせていただいたご質問のなかで、その中心としてまとまっているかと存じます。

●複雑系と破壊のよろこび

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2023/01/20_1045.html

【(政治やビジネスの世界と、社会的共通資本の間には、乗り越えてはならない厳然たる境界線がある。その常識をある時期から日本人は放棄してしまった。たぶんわずかな入力で長い間続いていた堅牢な制度が激変するのを見ると(自分がその被害者である場合でさえ)、ある種の全能感のようなものを感じるのだろう。  私は合気道の師の多田宏先生から「破壊することは、創造するときに要する力の100分の1でできる」と教わった。だから、全能感を手早く求める者は必ず破壊に走る。先生の教えはそう続いた。
 破壊することで得られる全能感に淫する人が今の世界にはあまりに多い。年頭に師の教えを改めて肝に銘じたい。 】

(※ 頻出テーマ。上記【共謀罪について、『権力者の全能感が見える』】など参照していただければと思います。)


(後から厳密に整理し直すかもしれませんが、アバウトに時系列順で)

●ウクライナ危機と「反抗」

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2022/03/17_1447.html

(※ウクライナ侵攻のおける「【ウクライナ】=私、【ロシア】=先生」という絵図はよく使用されていました。)

 ウクライナへのロシア軍の軍事侵攻が始まってから、いろいろな媒体から意見を求められた。

それが今回はまったく様相が違う。これまでとは違うことが起きているということを誰もが感じ取っているのである。

 アルベール・カミュは『反抗的人間』という長大な哲学書の冒頭に、同じような出来事が続いても、ある時に「何かがこれまでと違う」と直感すると人間はそれまでにしたことのない行動をすることがあるという話を記している。主人の命令につねに唯々諾々と従ってきた奴隷が、ある日突然「この命令には従えない」と言い出すことがある。「今までは黙って従っていたが、さすがにこれには従えない」と言い出すのだ。

(※【アルベール・カミュ】【『反抗的人間』】は先生が頻出されるワードになります。だれでしょうか…)

 これは今のウクライナとロシアの関係を言っているようにも読める。でも、ここでカミュが書いているのは、領域侵犯行為に対して、人が反抗を選ぶのは、単に「もう我慢ならない」という感情に衝き動かされているだけではないということである。これを受け入れてしまうと、自分ひとりでは弁済し切れないほどのものを失うと感じた時に人は反抗を選ぶ。それがカミュの考えであった。

 自分ひとりが屈辱に耐え、苦痛を甘受すれば済むことについてなら人は必ずしも「反抗」を選ばない。「私一人が苦しめばそれで済む」と思えるのなら、権利侵害を受け入れることは心理的にはそれほど難しくない。私ならそうするかも知れない。だから、人が死を賭しても「反抗」を選ぶのは、ここで権利侵害を受け入れたら、それによって失われるのはその人ひとりの権利や自由ではなくなると感じるからである
 カミュはこう続けている。
人が死ぬことを受け入れ、時に反抗のうちで死ぬのは、それが自分個人の運命を超える『善きもの』のためだと信じているからである。人が自分が護っている権利を否定するくらいならむしろ死ぬ方を選ぶのは、その権利を自分自身より上に位置づけているからである。人がある価値の名において行動するのは、漠然とではあっても、その価値を万人と共有していると感じているからである。」(Ibid., p.425)
 そうだと私も思う。だから反抗的人間は孤独ではない。その反抗の戦いを通じて、潜在的には万人と結びついているからである。
 
 でも、もしいまカミュが生きていたら、ウクライナで戦っている人たちやあるいはロシア国内で投獄のリスクを冒しながら「反戦」を叫んでいる人たちは必ずしも「愛国心」からそうしているのではないと言うだろうと思う。彼らはそれよりもっと上位の価値のために戦っているのだ、と
 愛国心のための行動と、それよりもっと上位の価値のための行動は、外見的にはよく似ている。ほとんど見分けがつかないほど似ることもある。

 私たちは他国の人が愛国心を発露しているのを見せられても、ふつうは特段の感動を覚えない。「ああ、そうですか。そんなにお国がお好きなんですか。よかったですね」とにこやかにスルーするか「愚かな。空疎な幻想に取り憑かれてしまって」と冷ややかにスルーするか、どちらかである。
 だから、いまウクライナやロシアで「反抗」の戦いをしている人たちの動機を「愛国心」だと私は解さない。それより「上位の価値」のために彼らは戦っているのだと思う。
 私たちが反抗の戦いをしている人たちから目が離せないのは、彼らがその戦いを通じて、遠く離れた、顔も知らず名前も知らない私たちの権利をも同時に守ってくれていると感じるからである。だから、彼らを孤立させてはならないと思うのである。
 たしかに不合理な話である。
 でも、この反抗者たちが敗れたときに私たちが失うのは小麦やトウモロコシの輸入量とか天然ガスの供給量とかいうレベルのものではない。もっと本質的な何かが失われる。そのことを私たちはたぶん直感的にはわかっているのだと思う。

(※ 美しく引き込まれる理説ですね…そして、先生のロジックは一貫していて理解しやすいと思います。
(先ほどは、おそらく海外の皆様にはご非難を受けたかもしれません。失礼しました。昨日のこの文章が頭の中では鳴っていました。読んだものが影響として出てしまうことがあります。)

(日本と海外のかたでうけとりに大きなギャップがあることをお聞きしています。私もギャップを埋めるべくいろいろとつまずきつつ足搔いていますが、先方の報道メディアを通して主張するとことは、先生の前述の例に従えば、ロシアの報道でゼレンスキーが主張を唱えるということになるのかもしれません。

皆様には私が憎悪の対象となっているかもしれません。一方で当事者間、つまり先生と私の間では騒動の見方は一致していると言っていいでしょう。私は、先生がノイズなく綴る洞察にねじれた共感と信じがたい違和感を覚えてきました。もっとも客観的かつ包括的な見方のひとつであると。ですが、今の状況は、それ以外のかたが逆とも言えるビジョンを通して見ているというこです。私の言葉がことごとく通じなくなっていますというのは、そういうことなのかもしれません。「超能力」問題も同様にあるかもしれません。現実に暮らす当事者間はお互い納得づくで、あるいは抗議しながら、同じ理解を共有していますが、メディアでは別の情報が供給されていると見ることができるよう思います。先生の例をお借りすれば、ロシアとウクライナの国内では同じ歴史観でこの「侵略戦争」をとらえています。でもそれ以外の国々が「ウクライナがナチス」というコンセンサスで統一されているになっていると譬えられるかもしれません。

私はひとつのヒントになるのが、先生のテキストにある感覚は皆様の中にいつ存在したのか、という問いであるのかもと考える時があります。おそらく皆様がこの騒動に出会ったときに抱いた違和感と一致しているのではないかと、見えないながら想像します。人間の認識が簡単にゆがむのは私自身ネットでよく経験することです。自分の不出来を脇に置いて考えると、ゼレンスキーはどうすれば、ロシアの国営放送を通して皆様に主張を認めてもらえるのかと、考えると容易くはない話です。別の物語が存在して、それは他の誰でもない当事者が当事者を記し、当時を知る第三者のご確認をいただきながら進んでいるこの記録にある。それを知っていただきたいという気持ちでやっています。)


〇ご参照に 
・『ABOUT IT』より
【セクハラは「相手が嫌がることをさせることで、自分の力を確認する」ことに醍醐味があるので、「こういう行動は、異性には苦痛ですよ」は無意味。受け手が苦痛だから、やり手は楽しいのだ。】

・『複雑系と破壊の喜び』より
【私は合気道の師の多田宏先生から「破壊することは、創造するときに要する力の100分の1でできる」と教わった。だから、全能感を手早く求める者は必ず破壊に走る。先生の教えはそう続いた。
 破壊することで得られる全能感に淫する人が今の世界にはあまりに多い。】

・本稿『ウクライナとパレスチナ』中の【新しいナチズム】

・『『愛と幻想のファシズム』中、【『弱い個体を淘汰し、生き残ることができる強い人間たちだけでポスト資本主義の新しい世界を構築するという冷酷でハードな考え方である。】
 【この思想を鈴原冬二はそのまま口にしている。
「大切なのは、人間があまりに動物から遠く離れてしまったということだけだ。人間は、ただの動物だ。(...)俺は、人間を動物へと戻す。」「幸福にならなければならないという妄想が奴隷達を苦しめている」だから、「日本を一度徹底的に破滅すればよい」と鈴原はつぶやく。】)


〇この文章の更新後にご反応を確認できまた(第三者のかたとも意味の共有を拝見できました)ので、やり取りが成立した記録として掲載しておきたいと思います。

私【リアルタイムに近い形で記録を録らせていただきたいと思います】

内田先生のリポスト内のメッセージ
【私、ネオナチとは知らなかったし  
私、統一教会とは知らなかったし
そんな高市さんの セキュリティークリアランス】

(【統一教会】…与党との癒着を問題視されているカルト的新興宗教団体。この騒動の比喩としてよく使用されます。【高市さん】とはどなたでしょうか…)


●倉吉の汽水空港でこんな話をした。

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2021/02/08_1125.html

(※こちらも「騒動への言及」というより、ダブルスピークの表の意とさせていただき、採録したい思います。ジョージ・オーウェルは「爆弾よりも恐ろしい」ものとして(先ほどネットで引用の確認をしました)、と『1984』の言語空間を創造しますが、この騒動でも言葉を含めた表象がもひとりの主人公のような大きな役割を果たしたのではないかと思います。)

(こちらのテキストについては、「貧乏」というテーマを俯瞰した補足になりましたが、ダブルスピークの表の意味として、それほど濃いものでないと拝読いたしました。皆様のご反応によっては削除も考えています)

 コモンを存立させるためには、まず豊かな公共財を、「みんなが使える公共財」をしっかり確保しなければならない。だから、コモンの立ち上げにおいては「持ち出し」になります。メンバー全員が私財の一部を供出し、私権の一部を断念することによってはじめて公共は立ち上がる。だから、自分が供出した分より多くを公共財から取り出そうとする人たちがいたら当然ですけれども、自分が出した分だけきっちり回収しようとする人たちが過半を占めるようではコモンは成り立ちません。

・『ABOUT IT』
(内田先生のほのめかし)【それが引き起こした現象のみを書くと、“仲間の中に「生活保護」がいる”という情報がコミュニティーに拡散されました。もちろん面識はありません
多くの人から批判を受けます。】

【以降、先生からは“生活保護”“ホームレス”“無職”“貧困”などを示す記号が提出されます。文脈を共有しない人たちには社会福祉のメッセージです。】

・本稿で前述した内田先生のポストです。
【2010年代から「組織マネジメント」というのが「トップダウンの組織を作ること」「トップのアジェンダに賛成する人間を重用し、異議を申し立てる人間を排除すること」「給料分の働がない人間、制度のフリーライダーを見つけ出し、処罰すること」】)

「これはオレのものだ。誰も触るな」という共有を拒否するマインドそのものがGDPを押し上げて、高度成長の推力になった。誰とも何も共有しない、誰とも折り合いをつけないで「自分らしさ」を追求する「あらゆるものの私有化」が資本主義においては「絶対善」だとみなされた。その結果が今です。
 バブルが崩壊してから、そろそろ30年。それからの日本はひたすら貧しくなってきているのですが、「誰とも財を分かち合わない」というマインドだけは変わっていない。コモンというのはひとりひとりのひとりひとりの生活を豊かにするための公共財でした。でも、いまはもうすべてに所有者のラベルが貼ってあって、みんなが利用できるコモンはない。
 僕が子どもの頃の日本は「共和的な貧しさ」のうちにありました。貧しかったけれども、みんなが多くのものを共有していた。要るものはみんなで使い回し、順番によその家の子どもの面倒を見た。日本はいま再び貧しくなってきました。だから、あの頃のように財やサービスを公共の場に供託して、それを必要とする者が使うという仕組みをもう一度立て直すときがきたと僕は思います。

(※ 先生から私に送られる一貫したテーマになっています。
〇ご参照に
・『◆内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ◆』『●貧困』より
【「ご友人を殺した」とメッセージした先生にその理由を尋ねますと)【平川先生と同じく、正確を期するため、内田先生の私に対する他のメッセージもご紹介しておきます。本日のツイートです。

 >「路上商売」】

・新聞記事より
(インフルエンサーが優生思想発言によって大きな炎上を生み出します。NPO団体や厚生省が生活保護制度は憲法に保障された制度であることをアナウンスする事態に至ります。

【「生活保護の人たちに食わせる金があるんだったら猫を救って欲しいと僕は思う」「生活保護の人生きてても僕は別に得しないけど、猫は生きてれば得なんで」などと発言。自分に必要のない命は「軽い」として、「ホームレスの命はどうでもいい」「言っちゃ悪いけど、いないほうがよくない?」「じゃまだしさ、プラスになんないしさ、くさいしさ、治安悪くなるしさ」などといった発言を繰り返した。】)
 

(『新しいナチズム』というテーマからは離れますが、先に取り上げましたテーマ、「思想と実践」との関連でご紹介させていただたいと思います。のちに別のテキストに移すかもしれません。)


●コロナ特措法について

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2021/02/21_0908.html

(※この騒動自体はコロナ以前に始まっていますが、その過熱段階においてコロナの影響や相関をご指摘する人はいらっしゃって、それは漠然とですが、皆様の共通理解になっていたように思います)

 新型コロナウイルス特措法改正案について、自民党と立憲民主党が修正合意して、論点となっていた入院を拒否した感染者に対する懲役刑は削除され、刑事罰である罰金は行政上の軽い禁令違反についての過料に改められた。少しだけ安心したが、当初案にあった入院拒否者は「1年以下の懲役か100万円以下の罰金」という規定に私はつよい不快と不安を覚えた。ここにはいまの政権の危険な本性が露呈していたと感じたからである。
 緊急事態において、政府や自治体が市民に私権の制限を要求することには合理性がある。だがそれは公的機関がやるべきことはすべてやり尽くして、あとは市民に公共的なふるまいを求める以外に手立てがないという場合に限られる

感染拡大の責任を「市民の努力不足」に転嫁したことに多くの市民は怒りを覚えたと思うが、それ以上に大きな問題は感染者を「犯罪者」に、病院を「牢獄」に見立てる発想がそこに伏流していることである。
 感染者を犯罪者に類比するのは、この改正案の起案者が「健康は自己努力の成果である」と考えているからである。その努力が足りない者が病気になるのである。だから、病者は「病気になった責任」を負わねばならない。無意識のうちにでもそう考えていなければ、このような文言は頭に浮かばないだろう。そして、もし病気は自己責任であるのだとしたら、そこから「病人のために公的支援をするべきではない」という優生思想まではあとわずかである。

(※私は福祉の保護を受けています。ちなみに、私について最初期の段階で、攻撃的なご指摘として起こり、炎上し、書籍化との関連も見られた(内田先生もインタビューでご参加)のは、「鬱」というテーマでした。)

 与党議員たちは自分たちには飲食自粛は適用されないと思っているし、一般市民には許されない優先的な治療を受けることも「エリート」である以上当然だと思っている。彼らはおそらく公的資源は「力のある者」に優先的に分配されるべきだと無邪気に信じているのだろうだから、「力のない者」(そこにはコロナ患者も含まれる)に公的支援を求める「権利」を認めるよりより先に、感染を拡大させない「義務」を求めるのである。
「強者が総取りし、弱者には何もやらない」という政治思想においてこの政権は実に首尾一貫している。


(※ご参照に
・コロナと騒動のとの関連を簡単にご説明しますと、非常事態によって人々は脅迫的なストレスが増幅され、その矛先が抵抗しにくい弱者に向けらる「置き換え」という防衛機制が働いたのではないかという分析です。およそこういうものではなかったでしょうか。いま検索すると、コロナ下の心理で解説したサイトに当たりました。ー参考『心理用語集サイコタム』
現在の例で「置き換え」をご説明しますと、パレスチナを攻撃するイスラエルも歴史を隔てて、この規制が働いているというご指摘もしばしば見られます。

・拙稿『◆内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ◆』『攻撃系』より

先生のコメントです。【『標的』評を「週刊金曜日」に書きました。政治的暴力はどのようにして行使されるかという実践的な問題に限定して論じました。
政治的暴力の特徴は「個人を属する組織から切り離して、攻撃を私人に集中すること」と「一罰百戒」的効果を達成するために「標的の選択が恣意的であること」です。】

(※「一罰百戒」は先生がこの騒動を語る際、よく用いるモチーフです。「一罰百戒」とは……罪を犯した一人を罰することによって、他の大勢の戒めにすること。
比較的軽い罪を犯した一人を罰して、わずかな罪も見逃さない態度を示すことによって、他の大勢の戒めにすること)


(続きです)【標的の選択に合理性がある場合には、次の攻撃目標が予見可能なので、回避や反撃の準備ができます。でも、「一罰百戒」が効果的なのは「次に誰が標的になるか予測できない」からです。だから「誰でもいい」のです。でも、一つ条件がある。それは「組織が『切りやすい』人」であるということです。】
(続き)【犠牲者を孤立させるためには所属組織に対して執拗に「その一人だけを切り捨てて、孤立させろ」という圧力がかかります。その一人さえ切り捨てればあとのメンバーの安全は保障されるというそこだけ奇妙に合理的な解が提示されます。組織トップが「合理的に」思考する人だとこの提案に飛びつきます。】



●コロナが学校教育に問いかけたこと

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2021/02/21_0910.html

(上記の同テーマのテキストを周知の材料とさせていただきたいと思います。時期的には、「超能力」騒動よりもはるか前、ストーカーが合流する前(直前ぐらいかもしれません)のテキストですので、「今とどう違っていたのか」「コロナの狂騒とどのように協調関係をみることができるのか」など、先生の美文でお伝えすることができればと思います。)
(こちらのテキストは、濃淡で言いますと「騒動への言及」よりもダブルスピーキングの表の意に重点が置いて周知をさせていただければと思います。)

(周知をすることは、そのコミュニティーを攻撃したり、秩序を乱すことは異なり(長期的はむしろ不正や欠陥、不善をお知らせすることなり、善用につながることと思います)、私もそのような気はありません。しかし、それ以前の、敬意を欠いた表現は皆様の不快につながるというのは、基本的な姿勢としてここにご確認をして、注意をしていきたいと思います。
先ほど「改良したいと思っていた箇所」と書きましたが、普段文脈をプラスして書いているワードを、付けないまま提示してしまったために生じたハンドリングミスでした。今見たところ、文脈を加えるより、修正箇所がない方がすっきりしていると判断して、削除しました。中断ばかりになっていますが、お目汚し大変失礼いたしました。もしよろしければこちらで進めたいと思います。

(Informing the community is different from attacking the community or disrupting order (in the long run, I think it is more about informing people about injustice, defects, and bad faith, which leads to good use), and I think that is the same thing. I don't feel that way.However, I would like to confirm my basic stance and be careful that expressions that lack respect may cause discomfort to everyone.As I mentioned earlier, I wrote "I wanted to improve it", but it was a handling error that occurred because I presented the word without adding context, which I usually write with context added.From what I see now, it's better to add context than to add context. , I decided that it would be cleaner without the corrections, so I deleted it. I am very sorry for the interruption, but I apologize for the inconvenience. If you don't mind, I would like to proceed here.)

(先生、毎日、やめていただけないでしょうか…)
(先生、推敲時もやめていただけないでしょうか…どうされたのでしょうか…集中できません。痛いです)

(時間が経ちましたので、同テーマ「コロナ(COVID)」について述べられた上の文章について復習しておきます。
「」に注意して読んでいただきればと思います。ここまでお付き合いしていただいたかたには、違和感はないのではと思います)
・【それ以上に大きな問題は感染者を「犯罪者」に、病院を「牢獄」に見立てる発想がそこに伏流していることである。
・【もし病気は自己責任であるのだとしたら、そこから「病人のために公的支援をするべきではない」という優生思想まではあとわずかである。】
・【「強者が総取りし、弱者には何もやらない」という政治思想においてこの政権は実に首尾一貫している。】

きっかけは大学の授業が2020年の4月からオンライン化されたことだった。 
 
 学校には「学習弱者」のための学習トラックも必要だ。そのことを感染症に強制されたオンライン授業で多くの大学教員が気づいた。もちろん、これまで通り「学習強者」がアカデミアを最大限に活用できる仕組みは変わらないにしても、「学習弱者」を「呼び戻す」仕組みを標準装備することに多くの大学はこれから取り組むだろう。

 その一方で高校生は自殺が増えた。そうかも知れないと思う。コロナのせいで、高校生にとっての「楽しいこと」は全部なくなった。修学旅行も文化祭も運動会も部活もなくなった。さらに全国一斉休校の余波で、彼らはその後「詰め込み授業」を強いられている。
厚労省は高校生の自殺増加の主因を「進路の悩み・学業不振」としているが、それではあまりに説明が足りないのではないか。
 高校と大学で事態が逆転しているように私には見える。学校にとって、学校に通う子どもたちにとって何が一番たいせつなのか。それはそこにいるだけで、社会から認知され、必要とされているということを実感できるという経験ではないのか。自分はこの集団のフルメンバーであるという自尊感情を抱けるということではないのか。
 コロナを奇貨として学校教育についてもう一度根源的に考え直すことを私たちは求められていると思う。

(※ご参照に
●本稿『君たちのための自由』より 
「諸悪の根源」というような激しい言葉を僕はあまり使いたくないのですけれども、「統御し、管理しようとする欲望」が今の学校教育の荒廃の主因であることは間違いありません。】
【どうして、仕事がうまくゆかないのか。そう問われると、彼らは反射的に「管理が足りないからだ」と考える。「叱り方が足りないからだ」「屈辱感の与え方が足りないからだ」と考える。そして、さらに管理を強化し、組織を上意下達的なものにし、査定を厳格にし、成果を出せない者への処罰を過酷なものにする。】

●2週間前のポストより
厳しい内容です。取り上げるか私自身迷いましたが、そうすべきかと判断しました。私は一度深刻な鬱を患いましたので、この手の情報の伝搬力に敏感になっています。不適切というご批判が強いようでしたら、削除も考えていますので、ご一考くださいませ。

昨日のニュースでは、去年度の「いじめ認知」の件数は過去最多となっています。

下のポストは、騒動に関連して先生を含めた複数のかたの反応が見られました。騒動のあり方と酷似し、数日前の私の文章の影響が見られたためと思われます。

【女子生徒の遺書「いじめといってもハブりや集団で悪口、体育のチーム戦でちょっとしたミスで罵倒、私の行動をいちいち実況したりコソコソ笑ったりするだけのもので、世の中の人たちにはいじめと判断されないものだと思います。それでも私には辛かった」
それは全部いじめだよ】


(こちらのレファレンスをご提示した後、“嘘”というご反応をいただいたとお見受けしました。ご意見ありがとうございます。証拠を提示してほしいというとだと判断しましたので、次に示します。)
〇内田先生のメッセージなります。
【(イヤホンを)今はマスクを外したら外れて、新幹線の床を這いずり回って見つけました。】

(集団ストーキングの専門家に教わったのが「集団ストーキングは急速に拡大する」という知見です。私のケースもすでに手遅れかもしれません。いじめは集団ストーキングとの類似性が往々に指摘されます。同根であり、人間の原始的なダークサイドから生じるものだとされます。「急速に拡大する」という特徴はは、根源的な存在である子供においては、大人のそれより伝搬速度はもっと早いのではと思っています。十分ありうることです。)


●「予言の書」としての『1984』

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2021/04/27_0844.html

― 内田さんは新訳されたジョージ・オーウェル著『1984』(田内志文訳、角川文庫)の解説を書いています。今や古典的な文学作品ですが、コロナ以後に再注目されています。
内田 『1984』は1948年に発表されたディストピア小説です。ご存じのようにスターリンのソ連をモデルにしています。「ビッグ・ブラザー」という独裁者が君臨する管理国家・監視社会の中で、体制に疑問を抱いた主人公の経験する危機と転落が描かれています。
 最初は半世紀くらい前、高校生の時に読みました。その時は、正直言って、あまりリアリティを感じなかった。もうスターリン批判の後でしたし、世界中で若者たちが叛乱していた時代ですから、いまさら先進国が独裁になることなんてあるはずないと思っていたから です。でも、いま読み返してみたら、小説の世界と現実の日本の境目がわからなくなり、昔読んだときよりもむしろ怖かった。
『1984』的社会はいま世界中に生まれています。米中が先行して、国民監視テクノロジーは急激な進化を遂げており、コロナ禍を機に、国家による国民統制は強化されて、どんどん『1984』に近づいている
 たとえば『1984』では、各家庭に「テレスクリーン」という巨大テレビが設置されていて、監視すると同時に、プロパガンダやビッグ・ブラザーの映像を四六時中流しています。高校生のときは「こんなテレビがあっても鬱陶しいだけで、効果なんかあるはずない」と思っていましたけれど、そうでもない。

(※ご参照に
●本稿より
”市民が市民を監視する社会が到来した”】【本当にね、共謀罪があけたチャンネルというのは市民が市民を密告したり、どう喝したり、罵倒したり、自分の隣人を敵だとみなすことを政府が奨励していると】【一番怖いのは市民による市民の密告】【ゲシュタポ(ナチスの秘密警察)の場合なんかでも、ほとんで、隣人が隣人を密告した】

●拙稿『内田樹先生と騒動との関係 近頃のメッセージ』【●監視、孤立化の指令】より
【引用rt
入国管理局でスリランカ女性が死亡した事件に対して。)
>「この国に尊厳はあるか?ウィシュマさん監視カメラ映像から考える」を緊急配信。名古屋入管でウィシュマさんが亡くなって2年。当時の監視カメラ映像が公開されました。この国で人間の尊厳は守られているのか、考えます。】
【(※「収容中のウィシュマさん」入国管理施設での死亡事件。毎日、盗聴、盗撮、データ公開されている私のメタファーとしてよく語られる事件です。 「すべての映像を公開すべきでではないでしょうか」。誰に呼びかけているのでしょうか)】

  ところが、今の世界を見ていると、どうやら人間は自己利益を減殺させるような政策を行う政治家が相手でも、ひっきりなしにテレビで見たり、声を聞かされたりしているだけで、その人物に親近感を感じて、その政策を支持してしまうらしい。人間というのは、僕たちが思っているよりはるかに愚鈍な存在だった。

●本稿『●維新と加速主義』より
【 ある講演会で大阪の維新政治15年の総括を求められた。行政、医療、教育、どれをとっても大阪市府の現状は高い評点を得られるものではない。だが大阪での維新の人気は圧倒的である。なぜ政策が成功していない政党を有権者は支持し続けるのか。】

【「民主主義」や「人権」や「政治的正しさ」のような時代遅れのイデオロギーがブレーキになって資本主義の矛盾を隠蔽し、資本主義の終焉をむしろ遅らせている。そのブレーキを解除して、資本主義をその限界まで暴走させて、その死を早め、資本主義の「外」へ抜け出そうというのが加速主義である。】

・『愛と幻想のファシズム』中、【『弱い個体を淘汰し、生き残ることができる強い人間たちだけでポスト資本主義の新しい世界を構築するという冷酷でハードな考え方である。】
 【「幸福にならなければならないという妄想が奴隷達を苦しめている」だから、「日本を一度徹底的に破滅すればよい」と鈴原はつぶやく。】)


―『1984』では、そのまま日本の状況を描いたようなシーンが多く、思わず笑ってしまうほどです。
内田 「単純接触効果」というのは言い換えると「今ここで自分に触れているものに支配される」ということです。それがどういう経緯で今ここにいることになったのか、これから自分にいかなる影響を及ぼすのか、過去と未来にわたる時間の流れの中で考えることを放棄するということです。
 事実、『1984』の世界には過去も未来もなく、現在しかありません。『1984』では「真理省」という役所が権力者のそのつどの都合に合わせて過去の記録を改ざんしています。目先の都合に合わせて歴史を書き換える、いわば「歴史修正を本務とする省庁」です。でも、現在の都合でそのつど書き換えられる過去は「過去」ではありません。いわば「過去形で語られた現在」です。ですから、歴史修正主義者たちというのは「現在」に居着いた状態でしかものを考えられない人たちだということです。「今ここ」という定点に釘付けにされていて、過去を記憶することも、未来を予測することもできない人間たち、それが『1984』的社会の住人ですけれども、それはそのまま現代日本人のことのように思われます。

(※ご参考に
●拙稿『疑問』より
以前、私の周知に対して、先生からご確認をいただきました。その2日後から「嘘」「フェイク」といったワードが
先生のアカウントに埋め込まれるということがありました。
私は解決を試みようと“どこがウソに相当しますか”と先生にお尋ねします。

先生のメッセージです【ホロコースト虚偽説を描いたDenial という映画があります。歴史修正主義はどんな妄説も、その正否にかかわる論争に持ち込みさえすれば、それなりの学問的根拠があるように見えることを利用する、という実話の映画化。歴史修正主義は「両論併記に持ち込んだら勝ち」なんです。】)

●本日(2024年4月12日)のメッセージです
【内田樹先生と集団ストーカー】リアルタイムに近い形で記録しておきたいと思います。

【ストーリーが世界を滅ぼす】
【物語があなたの脳を操作する】
(※ 誰に指令されているでしょうか)

『1984』には、「二重思考」(ダブルシンキング)という概念が登場します。これは「嘘と知って、意図的に嘘をつくこと、都合の悪くなったあらゆる記憶を忘却すること、それが再び必要となったときには一時的に忘却の彼方から呼び戻すこと」と説明されています。思考を二重底にして、自己都合で「忘却」したり、「想起」したりできる能力のことです。
 森友・加計・桜、東北新社の接待問題などでは、官僚たちが一斉に記憶を喪失し、動かぬ証拠を突き付けられると突然記憶を取り戻すということを繰り返してみせました。「考えていること」と「言っていること」、「前に言ったこと」と「今言っていること」が明らかに矛盾しているのだけれど、それが気にならないらしい。これはまさに「二重思考」です。

 公人の口から出た言葉は取り消しができないことを古言で「綸言汗の如し」と言います。一度出た汗は身体に戻せないという意味なのですが、どうも今の政治家や官僚の口から出た言葉は出たそばから汗になって蒸発してしまうらしい。

― 『1984』では独裁政権が人々の精神を支配するために「戦争は平和なり」というスローガンを掲げたり、真実を改ざんする役所を「真理省」と名付けたりして「言語の破壊」に取り組みます。作中では、既存の言語を破壊して「ニュースピーク」という新しい言語まで開発されます。
内田 安倍・菅政権も「ニュースピーク」の運用能力は『1984』といい勝負だと思います。戦争ができるようにする法律のことを「平和安全法制」と呼び、オスプレイの墜落を「不時着」と言い換え、「募っているが、募集はしていない」とか「政治責任の定義はない」とか...安倍・菅二代の政権下で、政治家の語る言語はひたすら軽く、薄く、無意味になった。でも、メディアはこの「ニュースピーク」をそのままに無批判に垂れ流している。国民も政治家の「ニュースピーク」をどんどん真似始めている。「個別の事案についてはお答えを差し控える」とか「仮定の質問には答えられない」とかいう定型句を子どもまでが真似するようになったら、どうするんです。

(※ご参照に
●(クーリエ・ジャポン『世界の独裁者たちが使う洗脳術 「ダブルスピーク」とは…?』より
【『1984』を著したジョージ・オーウェルはダブルスピークを「爆弾より恐ろしい」と言いました。彼自身、スペインの内戦に義勇兵として加わった際、国家が事実とは明らかに異なる嘘を使って、自らの都合の良いほうへ扇動しようとするさまを目の当たりにしたのです。】

●newsphrere『ニューメキシコの「ジョージ・オーウェル展」で「ダブルスピーク」の遺産を再発見』より
【いつの時代もオーウェルのダブルスピーク(意図的な婉曲、あいまいな表現や言葉)、ニュースピーク(政治プロパガンダのダブルスピーク)、および思考犯罪(大衆や政府に違法と見なされる考え)の概念は、何か事が起きるたびに引き合いに出されてきた。】
【物語の中では思想警察が反対意見を抑え、真理省はウソを助長し、愛情省は恋人たちを拷問にかける。
これらは「偽物が絶対的真実になること」というディストピア(暗黒郷)的な警告で、半世紀以上前の出版物に登場して以来、数々の世代の精神を形作ってきた。】

実態と名前の間に毒が宿っているという思想は、古今東西に存在します。次はその一例です。

●「正名思想」……東アジア全般の思想的なベースとも言われる儒学は、亡国の思想です。そのオリジネーターの孔子は故郷を亡くしています。旅の途中で政治が悪化している国に立ち寄ります。そこで「政治顧問にと要されたら、まず何をするか」と問われ、孔子は答えます。「名を正す」と。国を喪失した経験から、名前と実体に一致しない(正しく一致しきることはないのですが)と、人々は何が正しく、何が間違っているか、混乱することになると言います。)

― そもそも、なぜ世界的に『1984』化が進んでいるのでしょうか。
内田  (略)その要求そのものは正当なものだったと思います。でも、人間はあまり長期にわたって知的緊張に耐えることはできない。どこかで忍耐力の限界が来る。ポストモダンの緊張に耐えきれなくなった人たちはやがて雪崩打つように「反知性主義者」の群れをかたちづくることになりました。彼らはこんなふうに考えたのです。
(4)ゆえに、万人は「客観的実在」のことなど気にかけず、自分のお気に入りの妄想のうちに安らぐ権利がある(これは間違い)。 
「ディープ・ステート」とかQアノンとかいう陰謀論が行き交ういまの「ポスト・トゥルースの世界」とは(4)のテーゼが支配的になった世界です。
 
 80年代~90年代に大学の授業でデリダとかリオタールとか読まされて「なんだかむずかしくてよくわからん」と思っていた連中が、自分たちでもわかるようにポストモダンの哲学をダウングレードしてみせたのが「ポスト・トゥルース」だったというわけです。

(※ご参照に

〇内田先生のメッセージです
どれほど嘘に嘘を重ねても処罰されないということが「権力を持っている」ということであるというのが安倍政治の根本原理でした。ですから、政権は全力で彼女を守るはずです。「嘘をついたらペナルティがある」というルールを自民党政権は絶対に受け入れることができないからです。

〇内田先生のリポストです。

嘘をつくのは低コスト、嘘を検証するのは高コスト。この非対称性を利用して検証が追い付けない速度で嘘を重ね続けるのが嘘つきの生存戦略。そうやって生き抜いてくると、嘘を重ね続ければ普通の人は検証を諦めてくれるので、嘘はつき続けるのは正しいって経験則が出来上がる。習慣的な嘘つきになる】)

― それでは、日本の『1984』化はどこから出てきたのですか。
内田 日本にもディストピアはたしかに実現してしまったわけですけれども、中国やロシアのような「帝国」の伝統から由来するものでもないし、欧米のように「ポストモダン」から由来するものでもありません。身も蓋もない言い方をすると、日本の『1984』化は、統治者も国民も、日本人全体が集団的に「幼児化」「愚鈍化」したことの帰結だと思います。「ビッグブラザー」が作為をもって制度設計したのではなく、日本では『1984』的社会がいわば自然発生した。
 幼児は「単純接触」する者に親しみを感じ、「現在」という狭い時間意識の中に閉じ込められている。過去のことは覚えていないし、未来のことは考えられない。これは現代日本人そのものです。問題は、なぜ日本人はここまで「幼児化」「愚鈍化」したのかです。原因はやはり戦後の日米関係にあると思います。 】

(先生、しつこいです…強烈な睡魔ですのでおやめください)

●『コロナ後の世界』(文藝春秋)まえがき

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2021/08/02_0935.html

(※私の立場では先生にご無礼になることは覚悟で、騒動の論理的な周知としてこちらをこちらのテキストを取り上げさせていただきたいと思います。これによって皆様に理路のクリアな理解が得られることを目指そうとするものです。騒動や私への言及という側面以上に、ダブルスピークのサンプルとしてご提示させていただければと思います。)

 かなり時局的なタイトルになっていますが、それはいくつかの論考が今回のパンデミックで可視化された日本社会に深く蝕んでいる「病毒」を扱っているからです。それについて思うところを書いて「まえがき」に代えたいと思います。
 僕は今の日本社会を見ていて、正直「怖い」と思うのは、人々がしだいに「不寛容」になっているような気がすることです。
 言葉が尖っているのです。うかつに触れるとすぐに皮膚が切り裂かれて、傷が残るような「尖った言葉」が行き交っている。だから、傷つけられることを警戒して、みんな身を固くしている。あるいは、自分の言葉の切れ味がどれくらいよいか知ろうとして、「刃」に指を当てて、嗜虐的な気分になっている。

 僕はものごとの適否を「それをすることによって、集団として生きる知恵を力が高まるか?」ということを基準にして判断しています。もちろん、その言明が「正しいか正しくないか」ということを知るのもたいせつですけれど、僕はそれ以上に「それを言うことによって、あなたはどのような『よきもの』をもたらしたいのか?」ということが気になるのです。言っている言葉の内容は非の打ち所がないけれど、その言葉が口にされ、耳にされ、皮膚の中に浸み込むことによって、周りの人たちの生きる意欲が失せ、知恵が回らなくなるのだとしたら、その言葉を発する人にはそれについての「加害責任」を感じて欲しい。
 よく考えてみたら、それは僕がずいぶん昔からずっと言ってきたことでした。

(※ご参照に
●『◆内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ◆』
【●私への恫喝】より

〇内田先生のメッセージ
【『トランプは政府機関の彼に対する捜査を激しく罵り、彼が万一起訴された場合に起こる「死と破壊」(death and destruction)について、暗鬱な警告を発した。」だそうです。】

〇内田先生のメッセージです
金の死体は朝鮮に運ばれ凌遅刑に処され八つ裂きにされ、胴体は川に捨てられ、首は京畿道、片手片足は慶尚道、もう一方の手足は咸鏡道に晒されました。凌遅刑というのは生きている人間の身体を少しずつ切り落とし、なかなか死なせないで苦痛を与える史上最も残酷な刑罰。金はもう死んでいたんですけど】【下川先生お稽古のあと『権藤成卿論』の続き。世界史の授業では李氏朝鮮末期の大院君と閔妃の血なまぐさい殺し合いにはまず触れることがありませんので、その説明に紙数を費やしております。韓流ドラマの時代ものはだいたいこの「勢道政治」が背景ですけれど、あれです。拷問はあんなものじゃないです

「世の中をよりよいものにしよう」と願う資格のある人間の条件を厳密化することによって、この人たちはどうやって世の中をよくする気なんだろうと思っていました。
 
みんながちょっとずつ「貧者の一灯」を持ち寄って、それをパブリックドメインに供託して、「塵も積もれば山」をめざすという方が「すべてのリソースを正しい目的のためだけに用いる」ことをめざすより話が早いんじゃないか。そう思っているのです。「世の中を少しでも住みやすくする」事業においては、「仲間を増やす」ということが一番大切です。自分と多少意見が違っている人についても、「まあ、そういう考え方もあるかも知れないなあ」と思って、正否の判断を急がない。中腰で少し耐える(あまり長くは無理ですけれど)。そして、どこかに「取り付く島」があったら、それを頼りに対話を試みる。
 今よく「ダイバーシティ&インクルージョン」という標語を聞きます。「多様性と包摂」。もちろん、すてきな目標です。ぜんぜん悪くない。でも、これって、微妙に「上から目線」だと思いませんか。
 つまり、「多様性を認めよう」と言っている人って、自分はその集団における「正系」に属しており、「メンバーシップ」を確保しており、「オレたちとはちょっと毛色の違ったのが何人かいてもいい」というニュアンスを漂わせている。「包摂」もそうですよね。「他者や異物を包摂しよう」という人って、「包摂する側」にはじめから立っている。
 いや、それが悪いと言っているんじゃないんです。それで上等です。でも、ちょっと「上から目線」「中から目線」じゃないかと思うんです。ちょっとだけですけど。

(※ご参照に

●拙稿『疑問』より

『GQ』の原稿、4500字をリタッチ。共謀罪の話。これ先月号にも書きませんでしたっけ?まあ、いいや。機会がある限り「共謀罪のどこが問題か」は書いておかないとね。僕が恐ろしいのは「国内に国を滅ぼそうとしているたくさんの人々が共謀の機会をうかがっている」という法制定の前提です。」

「もちろんこれは妄想に過ぎせんけれど、妄想に燃料を備給したのは、ヘイトスピーチや生活保護受給者への罵倒や「病気は自己責任」論や嫌韓・嫌中本であり、特定秘密保護法や共謀罪の前提にある「国内に反日勢力がうじゃうじゃいる」という現実認識です。それらはリアルに今ここに存在しています。

●際立つのが片山さつき議員で、生活保護受給者は「実質年収4百万円」の生活をしているという無根拠な都市伝説の流布に加担して、生活保護叩き発言を繰り返してきたが、最近も捏造投稿に基づいてNHKのニュース内容にクレームをつけて、生活保護受給者が社会福祉の「フリーライダー」だという世論の喚起に励んでいる。

他者からの同情や公的支援を当てにしてはならない。医療保険制度はいらない(医療は「サービス」なのだから金を出して買え。金がないやつは死ね)。公立学校も要らない(教育は「サービス」なのだから、金を出して買え。金がないやつは働いて学費を稼ぐか、有利子で借りろ)。社会福祉制度はいらない(他人の施しがないと生きていけないやつは死ね)と、ずいぶん非人情ではあるけれど、バケツの底が抜けたように「あっけらかん」としている。)

 でも、「上等」にも「その上」があるんじゃないかと思っているんです。 
 それは何かというと、言葉が平凡過ぎて脱力しそうですけれど、「親切」です。

 僕はそういう「親切」がとても大切だと思うんです。
 それが今の日本社会で最も欠けているもののような気がするからです。
「親切にしましょう」なんて、小学校の学級標語みたいですけれど、日本人にはどうもそれができなくなっているような気がします。「子どもでもできること」を大人たちがしなくなっている。それが問題なんじゃないかと思います。とくに「賢い」つもりでいる大人たちが「親切であること」の価値を顧みなくなった。
 僕は「どうやったら親切になれるか」ということをずっと考えてきました。そういうことを考えるのは僕が「親切じゃない人間」だからです。当たり前ですよね。自分が生まれつき親切だったら、そもそも「親切にする」という言葉の意味がわからない。

 というわけで、この論集は「尖った言葉が行き交う現代日本社会を憂えて、人に親切に接しようとしている男が、思い余ってつい『尖った言葉』を口走ってしまう」典型的な事例としてお読みいただければと思います。そんなややこしいもの読みたくないよと思う方もいるでしょうけれど、まあ、そこは一つなけなしの「親切心」を絞り出して、お付き合いください。

(※ご参照に
拙稿『◆内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ◆』目次より
■私に対する誹謗中傷、騒動全体の扇動
●攻撃系●揶揄系●セクシャルハラスメント系●貧困系●時間系

■職場関係者、あるいは私への恫喝
●私への恫喝●大学関係者への恫喝●その他のかたへの恫喝

■ストーカーの指揮、活動のバックアップ
●ストーリーを語れ●性的加害を示すデマを公開せよ
●過去の記録を配信せよ●監視、孤立化の指令●家族への危害
●ギャングストーキングについて

■その他のメッセージ
●権力の私物化●ファシズム系●ネポティズム●差別主義
●__●嘘について)

●医学生ゼミナールの質疑応答

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2021/08/12_1041.html

(※「あたらしいナチズム」をテーマにして周知させていただいています。先生の雅文による説明、そして両者の立場、平常でしたらご無礼に当たること承知していますが、このテキストの私は、長年の、世界に広がったただならないテーマの周知に努めさせていただく立場です。その重さを持ってダブルスピークのサンプルとしてご紹介させていただきたいと思います。テーマのより立体的なご理解につながることを目指して。)

Q:過度なグローバリズムによって国民経済が疲弊することで「ネイションへの回帰」が起こるとエマニュエル・トッドが言っていましたが、フランスのルペン率いる国民戦線やトランプなど「反グローバリズム」に親和的な政治勢力は排外主義的な傾向があると思います。どのようにしたら国際協調(あるいは国内の融和)と国民経済(国民を飢えさせない)を両立できるでしょうか。
A: 問題なのは、グローバリズムへの反動が強すぎて、行き着く先が僕たちが扱い慣れている「ナショナリズム」ではなくて、もっとずっと野蛮で暴力的なその先駆的形態前近代的な「トライバリズム(tribalism)/部族主義」になりそうだということです。
 ヨーロッパでもアメリカでも日本でも、いま起きているのは「ナショナリズムの復活」ではありません。もっと狭隘で、もっと排他的で、もっと暴力的な「ネーションの分断」です。人種、性別、宗教、政治的イデオロギー、性的指向、出自、階級、財産、学歴などさまざまな指標で「ネーション」が分断されています。
 例えば、日本の「自称ナショナリスト」たちの主務は「誰が日本人ではないか」という選別と排除です。在留外国人はもちろん「非国民」とみなされますが、政府の政策に反対する人間も「反日」認定され、「在日日本人」という「二級市民」に類別されます。

(※ご参照に
●『◆内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ◆』【差別主義】より
先生のメッセージです。
【日本でも遠からず同じことが起きる。問題は「福祉制度の不備」ではなく、「福祉制度を利用しなければ生きてゆけない人たち」を社会的な「害」として憎悪と軽蔑の標的にすることである。それで政治的成功を収めようとする人たちが必ず出てくる(もういる)。】

●本稿『ウクライナとパレスチナ』より
【ネタニヤフ首相はハマスを「新しいナチス」と呼び、演説では「私たちは光の民であり、彼らは闇の民だ」という善悪二元論的な理解を示しました。】)

 トライバリズムはナショナリズムとはベクトルが逆のものです。それまでなんとか想像的に統合されていた集団を分解して、「ほんとうの国民/偽の国民」の間に分断線を引いて、集団を純血化し、集団を小さくしてゆくことをめざします。

 例えばアメリカではトランプは国民を意図的に分断することで政治的浮揚力を得ようとしましたが、これはトライバリストのやり方です。一方バイデンは選挙後に「トランプ支持者を含めて全国民を代表する」と宣言しました。これがナショナリストの言い分です。
 ルペンやトランプや世界の「排外主義者たち」はトライバリストであって、ナショナリストではないというのが僕の考えです。
 国際協調と国民統合を両立させるためには、「純血」や「純粋」をめざす集団よりも、できるだけたくさんの人たちを「身内」「同胞」として迎え入れることのできる寛容な集団の方が好ましい。でも、そのために使える政治的な装置は手元には「ナショナリズム」しかありません。

 だから、とりあえず手元のナショナリズムを改良して、「できるだけ害が少なく、利益の多いナショナリズムのかたち」をみんなで考えて、手作りしてゆくしかトライバリズムに効果的に対抗できる道具はないのではないかと僕は考えています。

(※ご参照に
本稿●『愛と幻想のファシズム』中、
【『弱い個体を淘汰し、生き残ることができる強い人間たちだけでポスト資本主義の新しい世界を構築するという冷酷でハードな考え方である。】
 【「幸福にならなければならないという妄想が奴隷達を苦しめている」だから、「日本を一度徹底的に破滅すればよい」と鈴原はつぶやく。】)


●『ポストコロナ期を生きるきみたちへ』まえがき 

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2021/08/29_0846.html

(コロナ期に書かれた先生の手による学生たちに向けられた美麗な文章となります。先生は、教科書にも掲載されているかたです。「生産性」という言葉がここにもよくでてきますが、私はと言えば、社会的にはボトムに居る人間です。ですが、ご無礼も承知で、昨日今日、騒動を知ったかたにもできたら、騒動、集団ストーキングがどうおこわなれてきたか、形式を超えて実感してもらえたらと思って書いています。ご理解いただけますようよろしくお願い致します。こちらはダブルスピークのクリアな例としてとしてとりあげさせていただきました。)
 
だから、僕たちから想定読者である中高生に向かって言うべき言葉はまず「ごめんなさい」です。もう少し「まとも」な社会を手渡したかったんだけれど、うまくゆかなかった。その点について日本の大人たちは中高生に「ごめんなさい」を言わなければならないと僕は思います。
 読者に対する謝罪から始まる本というのはあまり見たことがありませんけれど、これはそういう例外的な一冊です。みなさんが、これから先、この社会をどうやって少しでも住みやすいものにしてゆくか、それについてのヒントがこの本の中にあることを心から願っています。

(※ご参照に
●『◆内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ◆』【ネポティズム】より

〇【もちろん、そんな国は国力が衰微して、遠からず先進国グループから脱落して、「独裁・ネポティズム」国家になるわけですけれど、既得権享受者たちは「それでもいい」と思っている。これまで蓄積してきた国富は自分たちの懐にねじこんでもおつりがくるくらいあるから。日本が滅びたら「そのときはハワイかシンガポールに引っ越せばいい。別にオレの生活変わんないし」というようなことを広言する人たちがだんだん増えてきました。亡国の徴候です。

●内田先生のポストです(3日前、2024年4月20日)
(‟good speed”の和訳に対して)【知らなかった•••どうして神さまからの恩寵が加速なのか。これが加速主義の霊的根拠かも知れません。odspeedという英単語は神的に速いことではなく、「うまくいきますように」という意味です。 これは中世の英語God spede「神が(あなたを)栄えさせますように」が元で、現代の英語で「速さ」を意味する"speed"も元々は「成功」や「繁栄」という意味でした。】

加速主義とは…【「民主主義」や「人権」や「政治的正しさ」のような時代遅れのイデオロギーがブレーキになって資本主義の矛盾を隠蔽し、資本主義の終焉をむしろ遅らせている。そのブレーキを解除して、資本主義をその限界まで暴走させて、その死を早め、資本主義の「外」へ抜け出そうというのが加速主義である。】


●無意味耐性の高い人たち

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2021/08/16_0819.html

(※先ほど、内田先生からストーカーへの指示を記録させていただきました。
質の高いエンターテインメントを生み出すためには「過去についての多様なナラティブ」を縦横に駆け巡る想像力が必要です。】【日本人が何を考え、何を求めていたかについての「ナラティブ」があまりに足りないという話をしました。】(拙稿『◆内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ◆』【ストーリーを語れ】より)。中心的な指揮のひとつと言っていいと思います。

一方で周知も長くやっていますので、皆様も同質のメッセージについては疑いはないかもしれません。いかがでしょうか…(必要であればご確認をお取りします)。日本では、当初から騒動を語るうえで「無意味」というキーワードでしばしば語られてきました。比較的わかりやすいキーワードの例示としてご紹介したいと思います。)

 8月6日の広島での平和記念式典で、菅首相がスピーチの一部を読み違えたことが報道された。

 だが、そのこと以上に私が当惑したのは、首相が意味をなさない文を平然と読み続けたということである。そういうことはふつう起きないからだ。

というのは、この事実から私たちは首相が「意味をなさない言葉を人前で堂々と話しても気にならない人」だということを知るからである。
 いや、たしかにそういう人は世の中にいる。大勢いる。あるいはもう日本人の過半がそうなのかも知れない。そうでなければ、そういう人が総理大臣に上り詰めるはずがない。
「意味のない言葉を口にしても気にならない」人のことを私は「無意味耐性の高い人」というふうに呼んでいる。無意味な言葉を朗々と読み上げることができ、無意味な仕事に必死に汗をかくことができる人たち、それが「無意味耐性の高い人」である。これは現代日本ではある種の「社会的能力」として高く評価されている。
 

 上意下達組織において最も重んじられるのは「イエスマンシップ」であるが、これを考査するための最も簡単な方法は無意味なタスクを課すことである。トップが下したまるで無意味な命令が、途中で「ちょっと待って。これ何の意味があるの? オレはそんな無意味な仕事はやりたくないぜ」というタイプの抵抗に出会うことなく、末端まで遅滞なく示達される組織は「完璧なトップダウンが実現されている」とみなされる。そして、現代日本ではそれが組織の理想なのである。
 組織が上意下達的になればなるほど、「ブルシット・ジョブ」が増えるのはそのせいである。今、日本人は「無意味な言葉と無意味な仕事」という「おろし金」で日々すり減らされている。

(※ご参照に

本稿【●維新と加速主義】より
【公務員は減らせるだけ減らす。行政コストは削るだけ削る。社会福祉制度のフリーライダーは一掃する。学校教育では上位者の命令に従うイエスマンを創り出す。これらはアメリカの「加速主義者」たちが主張し続けてきたことといくつかの点で重複する最新の政治的主張なのである。】

●以前のご質問
先生のアラートに対して、攻撃をしているのは先生の方であるのになぜそのようなことをなさるのか、ご質問します。

「人権蹂躙していいか」の問い。勝敗の内容。差別主義の肯定。最後に「私から超能力で攻撃を受けている記号」となります。

内田先生【Business Insierというお媒体に『福田村事件』(朝鮮人虐殺…震災時、デマにより多くの虐殺が引き起こされた歴史的なヘイトクライム)について寄稿しました。どぞ。】

さらにその理由をお尋ねしますと…
〇内田先生のメッセージです。
上意下達組織では上位者への忠誠が能力より優先的に配慮されるので、上から下までイエスマンばかりになります。イエスマンは「上におもねり、下には威圧的」という二面性を特徴としますので、日本中の組織は「おべんちゃら使いのハラスメント野郎」に満たされてしまったのでした。😭】



●旧悪は露見するか?

全文はこちら https://editor.note.com/notes/nc1be0f832dd2/edit/

(※ かなりあいまい度が低く、理解しやすい言及になているのではないでしょうか。集団ストーキングをどのように牽引されてたきたのかのサンプルとして皆様の理解の一助になれば、作業の甲斐があります。
まだ国内に限定されて毎日「私の個人情報」が掘り起こされている頃です。つまり、2年は前から現在までずっと新しい「私の個人情報」が発見され続けているのです。)

 ある週刊誌から「旧悪の露見」についてコメントが欲しいという電話があったのは2週間ほど前である。五輪開会式にかかわったクリエーターの二人が、民族差別といじめについての「過去の言動」を掘り返されて職を解かれたことについて、「こんなふうに簡単に昔のことを掘り出して炎上させることができる時代になると、誰でもがプライバシーを侵害されるリスクがあるのではないでしょうか」という論調でコメントを取りに来たのである。
 私は「その作業は決して簡単ではない」ということをまず申し上げた。
 例えば、私の過去の書き物のうちから何であれ「差別的」な発言を取り出して、「炎上」させることは理論的には可能である。ただその場合に、その人は私のとりあえず手に入る限りの私の著作を通読し、かつ過去十数年分のブログ記事すべてを読まなければならない。
 たぶんすべてを探せば「差別的な発言と解釈できなくもない」文言は見つかるとは思う。だが、私の書き物からそれを探しだすのは「干し草の山から針を探す」作業に近い。おそらく数週間にわたり、朝から晩まで私の書き物を読み続ける(場合によって、その挙句「何も見つからなかった」ということもあり得る)という地獄のようなタスクをこなさなければならない。
 どれほどの苦役であろう。
 だから、「ネットで検索すれば簡単に旧悪がばれる」という記者の設定そのものに私は同意しない。「ネットで検索すれば簡単に旧悪がばれる」人がいたとしたら、それはその人にとって「旧悪」ではなく、頻繁に更新され、上書きされてきた「新悪」だからである。今もなお「いかにもそういうことを言いそうな人間」だから、過去のテクストをサルベージしたら「すぐ」にお目当てのものが出てくるのである。
 二十年前に「言わない方がいいこと」を言ってしまい、それを消去する手立てがないという場合には、それから後「そういうことを言いそうもない人」たるべく自己陶冶するはずである。
 ジャン・バルジャンだって、別に「旧悪が露見した」わけではない。起業して成功し、人望篤い市長になっていたのである。彼の旧悪が明らかになったのは彼が無実の罪を着せられた人を救おうとしたためである。ふつう、心を入れ替えて「よい人」になろうと思って日々努力している人の身には「旧悪が露見する」ということは起こらない。もしかしたら、こいつ「ろくでもないやつ」じゃないのか・・・という疑惑を周囲に抱かせるからこそ「旧悪」を調べるようという気になるのである。
 だから「ネット時代になれば、誰でも過去の失言を咎められるリスクがある」というのは事実ではない。仮に過去に恥ずべき失言をなしたことがあったとしても、その後反省して、「そういうことを言いそうもない人」なるべく努力を重ねていれば、その人について「恥ずべき過去があるに違いない。いくら時間がかかっても構わない。徹底的に調べてやろう」という人は出てこない。

 ネットというテクノロジーを駆使するのは生身の人間である。生身の人間においてある人物の「旧悪」を探す意欲がむらむらと湧き上がることがなければ、仮に恥ずべき過去があったとしても、それはいずれ忘れられる。それでいいと私は思う。
 というコメントをしたのだが、企画自体が没になったので、コメントは採用されませんでしたという電話がさきほどあった。
 せっかくしゃべったことなので、備忘のために書き残しておく。

(※ 私からすれば、殺生な…という感想が思わず出てしまいますが…「毎日発見され続けている」ことが原因になっています。

・拙稿『◆内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ◆』『攻撃系』より

先生のコメントです。【『標的』評を「週刊金曜日」に書きました。政治的暴力はどのようにして行使されるかという実践的な問題に限定して論じました。
政治的暴力の特徴は「個人を属する組織から切り離して、攻撃を私人に集中すること」と「一罰百戒」的効果を達成するために「標的の選択が恣意的であること」です。】
【標的の選択に合理性がある場合には、次の攻撃目標が予見可能なので、回避や反撃の準備ができます。でも、「一罰百戒」が効果的なのは「次に誰が標的になるか予測できない」からです。だから「誰でもいい」のです。でも、一つ条件がある。それは「組織が『切りやすい』人」であるということです。

(※「一罰百戒」は先生がこの騒動を語る際、よく用いるモチーフです。「一罰百戒」とは……罪を犯した一人を罰することによって、他の大勢の戒めにすること。
比較的軽い罪を犯した一人を罰して、わずかな罪も見逃さない態度を示すことによって、他の大勢の戒めにすること)

●コロナ後の世界 

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2021/10/15_0921.htm

(私の立場は、先生のテキストに繰り返し触れられているとおりの人間で、本来でしたら日本の知的先端である先生の文章を周知の意味で採録するのも不調法に当たるかとお存じます。ですが、この立場だからこそという事情がこのテキストから読み取れるかもしれません。その意識が全体的に響いて
います。本日は、積年続いた騒動の最下層に流れていた意識を知っていただきたいと存じます。うっすらと全体に流れています。2年半前です。)
(続きとなります。私は当事者であり、皆様はとは立場は異なるかもしれませんが、sns上の安全と自由を願い、よりよい
結末に探っているのは皆様と同じかと思います。皆様のおかげでやっと周知ができるまでに至りました。それまではこちらの立場では許されない雰囲気があったのです。ここまで来ましたので、これを機に立場を超えてとなりますが、より深い理解していだけますよう願って、周知させていただければと思います。)

(先生、周知の度にやめていただけないでしょうか…)

(先生の周囲の方、お気づきになっていると思いますが、おとめいただけないでしょうか…)
(先生の周囲の方、お手数ですが私では聞いていただけません。よろしくお願い致します。)
(先生、毎日毎日飽きもせずに…やめていただけないでしょうか…皆様、怖い思いをされているかもしれません。それに対しては、恐怖で支配して何を行っているか、現実の理解を読み解いといてまいりますので、どうかお付き合いのほどお願い致します)

(テキスト全般に騒動へのほのめかしが浸透していることを太字部分からお読みいただければと思います。)

 まずこれからの議論の前提として、一つだけ全体で共有しておきたいことがあります。それは、今後も世界的なパンデミックが間欠的に繰り返すということです。

 ウイルスを媒介する野生獣は鳥、コウモリ、豚、ラクダとさまざまですが、本来は人間と接触する機会の少ない野生獣と人間が接触して、野生獣のウイルスが人間に感染して体内で変異することでパンデミックがもたらされるというパターンは同じです。そして、人類が自然破壊を続け、野生獣の生息地がどんどん狭くなり、人間と野生獣の接触機会が増える限り、人獣共通感染症はこれから先も繰り返し発生する。それは専門家が警告しています。アフリカ、南米、アジアがこれからも感染症の発生地になると思われます。
 人獣共通感染症の原因は人間による自然破壊ですが、もう一つ、自然による文明破壊が起きる場合でも、野生獣と人間の接触機会は増えます。野生の自然と都市文明の「緩衝帯」がやせ細れば、そうなります。日本でこれから懸念されるのは、このタイプの「人獣接触」です。

(※超能力の問題が生じるずっと以前のテキストになります。
普段、「くま」などに譬えられている人物は誰でしょうか?

●本稿「ウクライナとパレスチナ」より
【ネタニヤフ首相はハマスを「新しいナチス」と呼び、演説では「私たちは光の民であり、彼らは闇の民だ」という善悪二元論的な理解を示しました。イスラエルの国防大臣は「私たちは人間のかたちをした獣(human animals)と戦っている」とまで言い切りました。)

●『◆内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ◆』
【●監視、孤立化の指令】より
〇内田樹先生のメッセージです。
【「パソナ論」。ポストコロナ時代の富の最終的な源泉は「人間」と「土地」だという話になりました。これから「人間と土地の囲い込み」が始まります。過去の囲い込みと同じで、巨富を得るためには「人間も土地も無価値だ」という信憑をまず刷り込む必要があります。】)


野生から文明を守る戦い
 野生の自然が「人間の領域」を侵略するというケースは、今のところはまだ日本のメディアでは大きく取り上げられていませんが、僕はこれから先、非常にシリアスな問題になるだろうと思っています。

 しかし、すでに過疎地での「野生の侵略」はかなりのスピードで進行しています。

 日本はいま世界で最も早く人口減超フェーズを迎えています。ですから、「野生の侵略」によって文明圏が狭められているという経験は、今のところ日本だけで見られる現象だと思います。
 先日、千葉でもシカやイノシシの獣害が増えているというニュースを先日読みました。つい先日は、芦屋の城山というところでもハイカーがクマと遭遇しました。芦屋ではこれまでもイノシシとはよく出会いましたが、さすがに住宅地でクマが出たという話ははじめて聞きました。 
 
 有史以来、日本列島の住民たちは列島の自然を破壊しながら生息地を拡大してきました。ですから、自然破壊と自然保護についてはそれなりのノウハウを持っていますが、野生の自然に侵略されて、じりじりと後退しながら文明を守るというタイプの戦いはかつてしたことがありません。でも、どうやら今後はそうした戦いをしなければならなそうです。

(※ご参照に

●本稿「ウクライナとパレスチナ」
【ロシアも前近代のパラダイムに退行しつつあるように見えます。プーチンはウクライナの「非ナチ化」を掲げて侵攻しました。

●拙稿『◆内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ◆』【監視・孤立化の指令より】

内田樹先生のメッセージです。
【「パソナ論」。ポストコロナ時代の富の最終的な源泉は「人間」と「土地」だという話になりました。これから「人間と土地の囲い込み」が始まります。過去の囲い込みと同じで、巨富を得るためには「人間も土地も無価値だ」という信憑をまず刷り込む必要があります。】)
 

ノマドからセダンテールへ
 もう一つパンデミックが終わらせたと思われるのが「遊牧的生活」です。
 フランス語に「ノマド(nomade)」と「セダンテール(sédentaire)」という単語があります。「ノマド」は遊牧民、「セダンテール」は定住民のことです。 
 でも、パンデミックで、「ノマド的な生き方」をする人を最も高く評価するというこれまでの人事考課にはブレーキがかかるだろうと思います。
 それよりも、政策の優先課題は、日本列島から出られない人たちをどうやって食わせるか、この人たちの雇用をどう確保するか。どうやってこの人たちに健康で文化的な生活を保障するか、ということになります。これは池田内閣の時に大蔵官僚だった下村治の言葉です。日本列島から出られない、日本語しか話せない、日本食しか食べられない、日本の宗教文化や生活文化の中にいないと「生きた心地がしない」という定住民が何千万といます。まずこの人たちの生活を保障する。完全雇用を実現する。それが国民経済という考え方です。
パンデミックはある地域に住むすべての住民が等しく良質の医療を受けられる体制を整備しない限り、収束しませんし、国境線を越えて活発に移動する「ノマド」は、疫学的には「スプレッダー」というネガティヴな存在とみなされるようになったからです。

(※ご参照に
●『◆内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ◆』より
【2010年代から「組織マネジメント」というのが「トップダウンの組織を作ること」「トップのアジェンダに賛成する人間を重用し、異議を申し立てる人間を排除すること」「給料分の働がない人間、制度のフリーライダーを見つけ出し、処罰すること」

●拙稿『疑問  -再掲バージョン-』『○○○リバタリアンという怪物』より
(本文「健康で文化的な最低限度の生活」は生活保護の代名詞としても活用される憲法条文です)

【際立つのが片山さつき議員で、生活保護受給者は「実質年収4百万円」の生活をしているという無根拠な都市伝説の流布に加担して、生活保護叩き発言を繰り返してきたが、最近も捏造投稿に基づいてNHKのニュース内容にクレームをつけて、生活保護受給者が社会福祉の「フリーライダー」だという世論の喚起に励んでいる。もちろん、本人がそう「信じている」という信憑の問題もあるのだろうが、「そういうこと」を公言すると選挙で票が集まるという現実的な打算も同時に働いているはずである。


野蛮なトライバリズムから健全なナショナリズムへ

 菅政権が短命に終わったのは、「国民国家の最重要の任務は自国民の健康と生命を守ることだ」という世界の常識を過少評価したことです。安倍―菅政権は、「すべての国民の利害を代表する」のではなく、身内や縁故者や支持者の利益を優先的に配慮しました。反対者を含めて全国民の利益を代表する気がありませんでした。国民を分断して、一部の身内の利益を配慮する方が、国民を統合して、全体の利益を配慮するよりも政権維持には有利だということを学習した。

でも、「その政治的立場にかかわらず、全国民の利益を配慮する」ということを政権は過去9年間本気で取り組んだことがなかった。だから、やり方がわからなかった。それが感染症対策の失敗の原因だと思います。

 国境線の外側に関しては国境線の壁を守って、かなり排他的ではあるけれども、国内については、その属性にかかわりなく、全住民の権利を等しく配慮するというタイプの為政者がこれから世界では「あるべき政治家」となることでしょう。少なくともそれが「疫学的に望ましい統治者」です。

(※ご参照に
●『◆内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ◆』【●ネポティズム】より

【忠誠度の見極めにおいて安倍晋三はある種の天才だったと僕は思います。彼は「衷心から忠誠を誓う人間」よりも「自己利益のために心ならずも靴を舐める人間」の忠誠心の方を高く評価したからです。自分を捨てても利益を得ようとする人間が最も顎で使い易いことを彼は熟知していたのでした。
もちろん、そんな国は国力が衰微して、遠からず先進国グループから脱落して、「独裁・ネポティズム」国家になるわけですけれど、既得権享受者たちは「それでもいい」と思っている。これまで蓄積してきた国富は自分たちの懐にねじこんでもおつりがくるくらいあるから。
日本が滅びたら「そのときはハワイかシンガポールに引っ越せばいい。別にオレの生活変わんないし」というようなことを広言する人たちがだんだん増えてきました。亡国の徴候です。

●以前のご質問
先生のアラートに対して、攻撃をしているのは先生の方であるのになぜそのようなことをなさるのか、ご質問します。


内田先生【Business Insierというお媒体に『福田村事件』(朝鮮人虐殺…震災時、デマにより多くの虐殺が引き起こされた歴史的なヘイトクライム)について寄稿しました。どぞ。】

さらにその理由をお尋ねしますと…
〇内田先生のメッセージです。
上意下達組織では上位者への忠誠が能力より優先的に配慮されるので、上から下までイエスマンばかりになります。イエスマンは「上におもねり、下には威圧的」という二面性を特徴としますので、日本中の組織は「おべんちゃら使いのハラスメント野郎」に満たされてしまったのでした。😭】


 そのような趨勢が「健全なナショナリズム」の形成に結びつけばよいのですが、排外主義イデオロギーに転化するリスクが高い。ですから、ナショナリズムが過激化することなく、国民国家の同胞たち、「有縁の人たち」をまず配慮するけれども、過度に排外主義的にならないような「穏やかなナショナリズム」がこれからめざすべきイデオロギー的な着地点だと思います。
 しかし、いまの日本で「ナショナリズム」と呼ばれているものは、その語の本来の意味での「ナショナリズム」ではありません。国民を敵味方に分断して、味方の利害だけを配慮するというのは「ナショナリズム(nationalism)」ではありません。それは「トライバリズム(traibalism)」、部族主義です。
 ナショナリズムというのは、その属性にかかわらず、性別や信教や出自や政治的立場にかかわらず、「日本人であればみな同胞」として温かく包摂することです。国民を政治的立場で色分けして、反対者には権利を認めず、資源の分配から遠ざけるというような政治家は「ナショナリスト」とは呼ばれません。それはただの「トライバリスト」です。彼は「自分の部族」を代表しているのであって、「国民」を代表しているわけではない。

 このトライバリストたちによる政治がこの10年間日本をこれだけ衰微させてきたのです。トライバリストは国民を分断することによって長期政権を保つことには成功しましたけれど、敵や反対者の活動を封殺し、公的セクターから排除したために、国力は著しく低下しました。当然のことです。国民の一部しか国家的な事業に参加する資格を認められないのなら、国力は衰微します。多くの場合、イノベーションは学術的なものも、ビジネスモデルでも、メインストリームの外側にいる人たちが起こすものです。でも、トライバリストたちは自分たちの「部族」に属している人間にしか公的支援を行わないできた。日本学術会議の会員任命拒否が典型的ですけれども、政府は「政権に反対する学者には公的支援を行わない」という姿勢を明らかにしました「部族」外のイノベーターには機会を与えないということを10年間続ければ、経済力も、文化的発信力も、国際社会におけるプレゼンスも劇的に低下して当然です。

 かつて帝国主義国家が植民地を支配するときに活用した「分断統治(divide and rule)」によってたしかに政権基盤は安定しましたけれど、国力は失われた。植民地の場合はそれでもよかったのです。植民地は宗主国にとっての収奪の対象であって、むさぼるだけむさぼって、収奪する資源が尽きたら棄てればいいからですでも、独立国が自国の統治に「植民地主義」を適用するということはあり得ないことです。その「あり得ないこと」を過去10年間安倍ー菅政権は行ってきた。この致命的な失策をどこかで補正しなければなりません。どこかで、トライバリズムを棄てて「ふつうのナショナリズム」に立ち戻る必要があります。その道筋はまだ見えていませんが、それ以外に日本再生のチャンスはありません。

(※ご参照に

本稿●『愛と幻想のファシズム』中、
【『弱い個体を淘汰し、生き残ることができる強い人間たちだけでポスト資本主義の新しい世界を構築するという冷酷でハードな考え方である。】
 【「幸福にならなければならないという妄想が奴隷達を苦しめている」だから、「日本を一度徹底的に破滅すればよい」と鈴原はつぶやく。】)

●本稿より
〇上から3日後。テレビ出演。
(※ 騒動を古くから知る人にとっては、こちらもベーシックに繰り返されているお話かと存じます。)
【共謀罪通った朝から僕のツイッターのところに来たクソ”リプ”(返信)すごかったですよ。】
【「日本から出て行け」とか】
”市民が市民を監視する社会が到来した”
【本当にね、共謀罪があけたチャンネルというのは市民が市民を密告したり、どう喝したり、罵倒したり、自分の隣人を敵だとみなすことを政府が奨励していると】【一番怖いのは市民による市民の密告】【ゲシュタポ(ナチスの秘密警察)の場合なんかでも、ほとんで、隣人が隣人を密告した】
法の執行機関と制定機関が同一であるような同一形態のことを 『独裁』というわけですから】


●憲法の話(長いです)

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2021/10/27_0940.html

(私にはなぜか伏せられる形で、騒動の歴史や原因や現状が語られていると、先生のメッセージからお伺いしています。こちらからは、ストーカーの報道に依拠する形で皆様と接しているかたが多と思います。現在の報道はアメリカ向けとなっていて、そこでは日本と海外の情報差による分断が生じているとお聞きし、そのギャップと格闘しながら、躓きつつ、衆知を進めています(本来でしたら、私から一方的に情報を提示するのでなく、皆様と直接対話して、問題の内容だけでなく、場のルール、話法を把握しながらオープンに進められればどれほど楽かとかんじずにはいられませn)。
今、騒動の当事者、集団ストーキングの被害者にできることとして、こちらの歴史、起源、現状、これからを提示し、先生と私、古くから知る方(ちなみにストーカーが騒動に合流するのは、全9年の内、およそ4年前からです)が照合する情報を、新しく騒動を接することになった方にも知ってもらおうと更新しています。これを読んでいただければ、その理由が理解していただけると信じていますが、平素でしたらご無礼に当たるような立場の違いを超えて、先生の文章をレファレンスし、周知させていただいています。それによって、より一層ストーカーと私、騒動の立体的でクリアなご理解をいただけますように願っています。)

(更新しながら思ったのは、何か地殻変動のようなものが起こって信じられなくなったというのが大きいのかもしれません。ほのめかしのハードルも高いのでしょうか)

(憲法がテーマとされていますので、騒動のエッセンシャルなもので、人権など含めます。そこに関わる周知も、本質的なものとなります。また、加害の周知では、かならず記事と周知への感情の混乱が起きます。もし、攻撃的と映るのなら、それは書かれた記事との私の参考・補足のとの距離、そしてほのめかしの理解の障害、この2点かと思われます。そこは皆様にご判断を委ねます。ご検討いただきますよう何卒よろしくお願い致します。)

(こちらの文章はどちらかと言えば、騒動への言及というよりは、本稿が参照するテキストの基本的な話法であるダブルスピークの表の意をお知らせするものにあたるかと思われます)

 私が憲法に関して言いたいことはたいへんシンプルである。それは現代日本において日本国憲法というのは「空語」であるということだ。だから、この空語を充たさなければいけないということだ。
 日本国憲の掲げたさまざまな理想は単なる概念である。「絵に描いた餅」である。この空疎な概念を、日本国民であるわれわれが「受肉」させ、生命を吹き込んでいく、そういう働きかけをしていかなければいけない。
 憲法は書かれたらそれで完成するというものではない。憲法を完成させるのは、国民の長期にわたる集団的努力である。そして、その努力が十分でなかったために、日本国憲法はまだ「受肉」していない、というのが私の考えだ。
 
 もう一つ長期的な国民的課題がある。それは国家主権の回復ということである。
 日本はアメリカの属国であって国家主権を持っていない。その国家主権を回復するというのはわれわれの喫緊の国家目標である。これはおそらく100年がかりの事業となると思う。これもまた日本国民が引き受けなければならない重い十字架である。

 けれども、現在の政権を含めて、日本のエスタブリッシュメントはそれを認めていない。日本はすでに完全な国家主権を有しているという「嘘」を信じているか、信じているふりをしている。すでに国家主権を有しているなら、アメリカの属国身分から脱却するための努力の必要性そのものが否定される。 

(※ご参照に
〇先生のリポストです
(リアルタイムでは周知、記録で通ったポストです。この比喩で実行されたストーカーへのご指令になります。皆様の声がこけたれば簡単なことのように思うのですが、そうとはいかず残念です)

【山本太郎「この国は植民地だと思われますか」 高市大臣「主権国家です」】

(※シナリオのご理解に 現在、ストーカーの一情報は日本ではなく、アメリカに向けて提示されています)

〇【何度も申し上げている通り、日本にある米軍基地を在日米軍は(グァンタナモと同じように)「アメリカの海外領土」だと思っています。その先方の「勘違い」を歴代政権は黙って追認してきたのです。】

「アメリカの海外領土」】【「勘違い」

(※シナリオのご理解に 現在、ストーカーの一時情報は日本ではなく、【アメリカ】に向けて、【勘違い】を目指して提示されています

 ひどい時代だったのだ。ついこの間まで、ほんとうにひどいことがあった。たくさんの人が殺したり、殺されたりした。でも、それはもう終わった。今さら、戦争の時に自分たちがどんなことをしたのかを子どもたちに教えることはない。あえて、そんなことを告白して、子どもたちに憎まれたり、軽蔑されたりするのでは、戦争で苦しめられたことと引き比べて、「間尺に合わない」、彼らはたぶんそう考えたのだと思う。子どもたちには戦争の詳細を語る必要はない。子どもたちに人間性の暗部をわざわざ教えることはない。ただ「二度と戦争をしてはいけない」ということだけを繰り返し教えればいい。戦後生まれの子どもたちは戦争犯罪について何の責任もないのだから、無垢なまま育てればいい。戦争の醜い部分は自分たちだけの心の中に封印して、黙って墓場まで持って行けばいい。それが戦後生まれの子どもたちに対する先行世代からの「贈り物」だ、と。 
 
 憲法とは、われわれの国の最高法規である。その最高法規の制定過程がどういうものだったのかについて国民的な合意が存在しない。マグナカルタでも、人権宣言でも、独立宣言でも、どういう歴史的状況の中で、何を実現しようとして、誰が起草したのか、どういう議論があったのか、どういう風に公布されたかということは歴史的な事実として開示されている。それが当然だ。でも、日本国憲法については、それがない。

(※ご参照に
●『ABOUT IT』より
【(「待ってろ」の指揮開始から2日後。)】
【ここから先の資料がなくなっていて、探しても見つかりませんでした。なので、それが引き起こした現象のみを書くと、“仲間の中に「生活保護」がいる”という情報がコミュニティーに拡散されました。もちろん面識はありません。確かに私は裕福な生活はしていませんけど、それはデマです。

2日後、「生活保護」の件を多くの人から“人権の剥奪”といった趣旨で批判を受け(ます)。

●『◆内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ◆』【●揶揄系】より
【今の憲法では公務員による拷問は「絶対に」禁止するとあるのに、しれっと「絶対に」を削除して拷問出来るようにするのが自民党の改憲案なんだよね

自民党主導の改憲を許せば日本は独裁国家になる。】
スクリーンショット内の文字「ときどき拷問するよ

(※ 【ときどき拷問するよ】)


 世界中どこでも、国のあるべきかたちを定めた文章は起草された時点では「絵に描いた餅」である宣言を起草した主体が「われわれは」と一人称複数で書いている場合も、その「われわれ」全員と合議して、承認を取り付けたわけではない。自分もまた宣言の起草主体の一人であるという自覚を持つ「われわれ」をこれから創り出すために宣言というものは発令される。それが宣言の遂行的性格である。
 
 この憲法を自力で書き上げられるような国民めざして自己造型してゆくこと、それが憲法制定以後の実践的課題であるべきだったのだ。ただ、そのためには、日本国民が「われわれは『日本国民』にまだなっていない。われわれは自力でこの憲法を起草できるような主体にこれからならなければならない」と自覚することが必要だった。

しかし、戦後の日本人たちはそれをしなかった。「日本国民は存在しない」「われわれは憲法制定の主体ではない」という事実から目を逸らした。それがいけなかったのだと思う。

●本稿『維新と加速主義』
 加速主義というのは(…)「民主主義」や「人権」や「政治的正しさ」のような時代遅れのイデオロギーがブレーキになって資本主義の矛盾を隠蔽し、資本主義の終焉をむしろ遅らせている。そのブレーキを解除して、資本主義をその限界まで暴走させて、その死を早め、資本主義の「外」へ抜け出そうというのが加速主義である。

・『愛と幻想のファシズム』中、【『弱い個体を淘汰し、生き残ることができる強い人間たちだけでポスト資本主義の新しい世界を構築するという冷酷でハードな考え方である。】
 【この思想を鈴原冬二はそのまま口にしている。
「大切なのは、人間があまりに動物から遠く離れてしまったということだけだ。人間は、ただの動物だ。(...)俺は、人間を動物へと戻す。」「幸福にならなければならないという妄想が奴隷達を苦しめている」だから、「日本を一度徹底的に破滅すればよい」と鈴原はつぶやく。】)


 仮に「南京虐殺はなかった」というようなことを言い出す人間がいても、「俺はそこにいた」という人が現にいた。そういう人たちがいれば、具体的に何があったかについて詳らかに証言しないまでも、「何もなかった」というような妄言を黙らせることはできた。

 歴史修正主義が出てくる文脈は世界中どこでも同じだ。戦争経験者がしだいに高齢化し、鬼籍に入るようになると、ぞろぞろと出てくる。現実を知っている人間が生きている間は「修正」のしようがない。それは、ドイツでもフランスでも同じだ。
 

 戦争経験者の多くが死んだ後に、歴史修正主義者たちが現れて、平然と「アウシュヴィッツにガス室はなかった」というようなことを言い出した。そのあたりの事情は実は日本とそれほど変わらない。
 
 各国で歴史修正主義がそれから後に跳梁跋扈するようになったのは、一つにはこの「大人たち」の罪でもあった。彼らがおのれの功績を誇らず、他人の非行を咎めなかったことが歴史修正主義の興隆にいくぶんかは与っている
ことさらにあげつらって、屈辱を与えるには及ばない。「大人」たちは、勝敗の帰趨が決まったあとに、敗者をいたぶるようなことはしない。対独協力者たちを同胞として改めて迎え入れようとした。人間的にはみごとなふるまいだと思うが、実際には「大人」たちのこの雅量が歴史修正主義の温床となった。私にはそんなふうに思える。

(※ご参照に
ダブルスピークとの関連性においても、周知においても、あるいはストーカーへのご指令においても、【歴史修正】は、ずっとキーワードになってきました。ストーカーへのシナリオ指示でも重要な要素になっています。ですので、ここでとりあげたいと思います。


●拙稿『疑問』より
テレビ出演で「権力の私物化」「個人攻撃」「悪意と憎悪」とご批判を受けて、メッセージが事実であることをご確認されます。

ただし、その後、「嘘」など否定のメッセージが散見され出します。

3日後、先生から
ホロコースト虚偽説を描いたDenial という映画があります。歴史修正主義はどんな妄説も、その正否にかかわる論争に持ち込みさえすれば、それなりの学問的根拠があるように見えることを利用する、という実話の映画化。歴史修正主義は「両論併記に持ち込んだら勝ち」なんです。

●拙稿『◆内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ◆』より
【AERAの原稿はこのところtweetしている「自国の歴史をドラマ化することのたいせつさ」について書きました。でも、今の日本に「世界に配信できる」だけの質の歴史ドラマを作る力があるでしょうか。僕は懐疑的です。「世界に向けて発信する」というのは「分かりやすい話をする」こととは違います。】
(続きです。)【むしろ登場人物たちの葛藤と混乱と深い喪失感を活写することで「地下水脈」にたどりつけるんじゃないかという気がします日本近代史に登場する「物語
るに足るほどの人々」はどれも器が大き過ぎて類型化しがたい人たちです。
それを娯楽作品に仕上げる力を持つクリエーターが登場してくれるでしょうか。】)

  彼らのこの生々しい願いが憲法の堅牢性を担保していた。そして、その人たちが死んでいなくなってしまったとたんに、私たちの手元には、保証人を失った一片の契約書のごときものとして日本国憲法が残された。
 
 護憲派はこの常識と抑制の産物である。だから、非常識と激情に弱い。
私たちは「自然物としての憲法」をぼんやりと豊かに享受し、それに敬意を示すこともなくさんざん利用し尽くしたのちに、ある日「お前たちが信じているものは人工物だ」と言われて仰天している「年取った子ども」に過ぎない。
そして、その上で、どのような宣言であっても、憲法であっても、法律であっても、そのリアリティーは最終的に生身の人間がその実存を賭けて担保する以外にないのだと腹をくくる。
絶えずその文言に自分の生身で「信用供与」をする主体の関与がなければ、どんな憲法も宣言も死文に過ぎない。
私たちは、この憲法が空語だということを知らずにきた。そして、身銭を切って、この憲法のリアリティーを債務保証してくれていた人たちがいなくなってはじめて、そのことを知らされた。
 それを認めることはつらいと思う。でも、私は認める。歴史修正主義者や改憲派がこれほど力を持つようになるまで、私はぼんやり拱手傍観していた。憲法はもっと堅牢なものだとナイーブにも信じていた。でも、改憲して、日本をもう一度戦争ができる国にしたいと思っている人がこれだけ多く存在するということは、私たちの失敗である。それを認めなければいけない。だから、もう一度戦中派の常識と抑制が始まったところまで時計の針を戻して、護憲の運動をはじめから作り直さなければならないと思う。戦中派がしたように、今度は私たちが身銭を切って憲法の「債務保証」をしなければならない。これが護憲についての私の基本的なスタンスである。

(※ご参照に
●本稿『国葬という政治的失着』より
そのようにして、10年にわたって、法律も憲法も無視し、国民の反対も無視することが「できた」のは、逆説的だけれども、安倍晋三という政治家に「他の総理大臣たちに卓越した力」があったと認めざるを得ない。

 民意を得るための最良の方法は民意を得るためにまったく努力する様子を見せないことだというのが安倍政治の「教訓」であり、続く二代の政権はそれを愚直に踏襲して、短期間のうちに支持を失った。

※【安倍】とはだれでしょうか…。

●本稿『憲法空語論』より
 だとしたら、次善の策としては「神の代行者」を任じる権力者が全成員を「潜在的な罪人」とみなして、その一挙手一投足を監視する社会を創る他ない。自民党の改憲草案を読むと、彼らがまさにそう推論していることが分かる。
「人間はすべて邪悪で愚鈍で嘘つきであるから、全権を持つ権力者が全員を監視しなければならない」という彼らの国家観と「憲法と現実に齟齬がある時は現実に合わせて書き換えるべきだ」という憲法観はまったく同型的な思考の産物なのである。】


●男たちよ

前文はこちら http://blog.tatsuru.com/2022/01/12_1659.html

(騒動に関する周知さしていただいています。その難所のひとつは、周知の内容のひどさや残酷さが、ニュースの内容に帰せられるのはなく、それを伝達する人間に転嫁されてしまうところです。バッドニュースを運ぶ人間に対してネガティブな感情が向くことによるリスクはけっして小さなものではありませんでした。これは私だけでなく、集団ストーキングだけでもなく、被害を訴える人間すべてが抱えるリスクになるかと思います。実は昨日、リスクの高さにスルーしようかと思ったのですが、他のかたの推薦をいただきました。そういう意味でも皆様とともに作成しております。騒動とその傾向のより鮮明な理解のため、先生にはご無礼をご容赦いただきたいと思います。皆様にはこの一文だけではなく、騒動全体の緊密な理解につながると考えます。今日はこのテキストを周知して終わりにできればと思います。こちらのは騒動への言及よりも、騒動への示唆の方が意味が強いかと思います。テーマ自体が騒動のメカニズムとしてしばしば登場するものとなります。)
(昨日のこちらのテキストについて、騒動を長く知るかたからご確認をいただくことができました。ご面倒おかけして恐縮するとともに感謝申し上げます。)

 どうしたらいいのか問われても、私に妙案があるわけではない。中高年サラリーマン諸氏にはとりあえず「私は思考停止しているのではないか」という病識を持ってもらうしかない。病気になるのは「よくあること」である。病気になったら治療すればいいだけの話である。けれども、病気なのに「病気じゃない」と思い込んでいるといずれ危機的な事態になる。問題は、おそらく中高年サラリーマンの多くが「自分は思考停止なんかしてない」と思っていることである。だって、「周りの人間たちと同じことをしている」からである。ふつうは「みんながしていること」が「正常」で、「みんながしてないこと」が「異常」であるみんなが思考停止している社会では、思考停止していることが「ふつう」なのである。そして、これが現代日本社会のほんとうの病態なのだと私は思う。
 例えば、全国紙や民放テレビは遠からずビジネスモデルとしては立ち行かなくなる。いくつもの新聞やテレビ局が消えるだろうが、その場合これまでそういうメディアが果たしていた社会的機能は何が代替するのか。重要な問いのはずだが、メディアはそれについては口をつぐんで語ろうとしない。「なぜ私たちは存在理由を失ったのでしょうか?」と自問するのがつらい仕事だということはわかる。だが、おのれ自身の足元が崩れている時にそれを報道することも分析することもできないほど知的に非力なメディアには冷たいようだがもう存在理由がない。
 思考停止から脱出するのはそれほど難しいことではない。自分の足元をみつめ、未来をみつめる。そして、ただしく絶望することである。思い切って「しょんぼりする」のである。

(※ご参照に
〇本稿【●維新と加速主義】より
【公務員は減らせるだけ減らす。行政コストは削るだけ削る。社会福祉制度のフリーライダーは一掃する。学校教育では上位者の命令に従うイエスマンを創り出す。これらはアメリカの「加速主義者」たちが主張し続けてきたことといくつかの点で重複する最新の政治的主張なのである。】

〇内田先生【Business Insierというお媒体に『福田村事件』(朝鮮人虐殺…震災時、デマにより多くの虐殺が引き起こされた歴史的なヘイトクライム)について寄稿しました。どぞ。】

さらにその理由をお尋ねしますと…
〇内田先生のメッセージです。
上意下達組織では上位者への忠誠が能力より優先的に配慮されるので、上から下までイエスマンばかりになります。イエスマンは「上におもねり、下には威圧的」という二面性を特徴としますので、日本中の組織は「おべんちゃら使いのハラスメント野郎」に満たされてしまったのでした。😭】)


〇(これはプロパガンダについて教えていただいた記事からの抜粋です。)
【これは権威主義国家でよく使われる手法なんですけど、ウソか本当か分らない情報を、ソーシャルメディアなどを使ってとにかく大量に流すんですね。すると人びとはどの情報を信じればよいかわからず、変化よりも現状維持を選ぶようになると。つまり、権力者が自分たちの体制を維持しようと思ったら、まじめに説得するより、訳のわからない情報を流して思考停止にさせた方が、人びとを楽にコントロールできるというわけです。】)


●危機の危機

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2022/03/28_0812.html

『新潮45』という雑誌が以前存在した。ある時期から極右的な論調に変わって、質の悪い記事を掲載するようになってそのうち廃刊になった。まだまともな雑誌だった頃にはよく長いものを書かせてくれた。

危機いうのはね、あれは二〇世紀に入ってから、はやりだしたんよ」と言われて、「おおっ」と思いました。

ところが、このとき幸福論が哲学の主題であることを止めて、代わりに危機論が前景に迫り上がってきた。そのときに、「どうして危機論がその時期に流行りだしたのか」その歴史的理由を二人であれこれ考えました。
 
 貨幣価値が長期にわたって安定していると、それ以外の時代には存在しえない階層が棲息可能になります。それは「高等遊民」という種族です。彼らが生き延びる条件が整うのです。
 このランティエの消滅こそが1910年代の危機の実相ではないか。

そういう意味では、レーニンも、ムソリーニも、スターリンも、毛沢東も、20世紀的な「大衆」の力に乗って出てきた政治家たちであるという点では「新興階層」の人々なのです。彼らはまさに旧時代の貴族たちをその「ノブレス・オブリージュ」のモラルごと蹴散らして登場してきたのです。
 貨幣と軍事力、それがこれからは国際政治の力学を決定してゆくのだという新たな社会観の前に旧世界の貴族やランティエたちが膝を屈します。

これまで彼らが独占してきた芸術や学芸や政治や科学や冒険や快楽が、リアルな実力を背景にした新興階層に次々と奪われていく。その救いのない被侵略感と被略奪感がおそらく「危機」という言葉を基礎づけた生々しい身体実感ではないか。僕はそんなふうに想像するのです。
 
 近代科学技術がもたらした大量殺戮というトラウマ体験、国民国家間の全面戦争を抑止してきた貴族たちの超国家的連帯の喪失、知的なイノベーションを担っていた階層の没落と貪欲な「大衆」の出現・・・これらの与件全体を俯瞰すると、たしかにこれがいちどきに現実化したのは「危機」と称するにふさわしい事況だったと言えそうです。

(※「戦争こそ平和」「束縛こそ自由」…ダブルスピークを念頭に入れていただければ)

 爾来、このときに原型が作られた「危機」的状況は、様々に意匠を変えながらではありますが、ここ100年の間、同一の構造を維持してきたように僕には見えます。ごくおおざっぱな言い方を許してもらえれば、この100年間、思想のたたかいは、世界を単純な論理や図式で「正邪、理非、善悪」の二元論で割り切ることをめざす「敵をつくる思想」と、個人と集団の奉じる多様な価値の共生を受け入れる「敵をつくらない思想」が拮抗してきた過程として見ることができる。そう僕は思います。戦況は一貫して「二元論」的、対立的な思考とそれが分泌する他責的で攻撃的な語法が優勢で、「いろいろあっても、いいじゃないか」的な寛容の思考を壁に追い詰めつつあります。「敵をつくらない思想」は今や土俵際で「徳俵」に足の指をかけて、全身を弓なりにして必死に耐えているといった状態が続いてきています。

(※ご参照に
本稿『ウクライナとパレスチナ』
【「新しいナチス」】【善悪二元論的な理解】【「私たちは人間のかたちをした獣(human animals)と戦っている」】【「ふつうの戦争」ではなく、人間が悪魔と闘っている「神話的な戦争」】【それではイスラエルのガザ攻撃に歯止めが利かなくなって当然です。相手は人間じゃないんですから。】 )

 このような全体的趨勢の中で、メディアの語り口はほとんどつねに「正邪、理非、善悪」の二元論に寄り添ってきました。その定型的な語り口のせいで、たしかに一時的には、世界の見通しはよくなったように思えます。けれども、このクリアカットな思考は、「うまく説明できないもの」を嫌います。そのようなものは存在しないことにするか、存在するが観察や分析には値しないものとして、テーブルの上から掃き落としてしまう。それを繰り返しているうちに、世界の現象のうち「うまく説明できるもの」だけがテーブルの上に残り、「うまく説明できないもの」が足元にうずたかく堆積するようになった。たしかにテーブルの上を見る限り、話はたいへんすっきりしている。すっきりし過ぎるほどすっきりしている。でも、足元にはテーブルから叩き落とした不定形のものが、行き場を失って、粘ついた汚物のように堆積し、私たちの足に絡みついている。その不快が逆にますます「話をすっきりさせたい」という私たちの無謀な欲望を亢進させる。

(※ 【うまく説明できないもの】とはだれでしょうか…)

 私たちの時代の病は、あらゆる領域で、「フラット化」志向というかたちで発現しています。政治の領域での「フラット化」はたいていの場合、「問題は非常に簡単である」というワーディングを枕詞にして語り出されます。ある制度なり、慣習なり、法律なり、集団なり、さらには個人が本態的に邪悪であったり、無能であったりするために、私たちの社会はこれほど不幸になっている、だから、「諸悪の根源」を特定し、それを摘抉するならば、すべての問題は一気に解決し、私たちの社会は「原初の清浄」を回復するであろう、と。

(※ご参照に
・本稿『ウクライナとパレスチナ』問題は和平協定そのものの合理性よりむしろ国民感情です。最も強く人を衝き動かすのは怒り、憎しみ、屈辱感といった「負の感情」です。】)

 この政治的説話は大衆に対してつよい魅力を発揮しています。わが身の不幸を説明することに困難を覚えている人々にとって、「悪いのはあいつらだ」という有責者の名指しほどフラストレーションを緩和してくれるサービスはありません。現に、私たちの社会における政治的ヒーローたちは「『悪』に対する過剰な攻撃性」によって高いポピュラリティを獲得しています。「語り口が穏やかである」とか「考えが深い」とか「反対者に対して忍耐づよく説得を試みている」といったことを政治家の美質に数える習慣をメディアはほぼ完全に放棄しました。そのような文言を僕は久しくメディアで見聞したことがありません。メディアを徴する限り、今政治家に求められているのは、何よりも「スピード感」であり、「わかりやすさ」であり、「思い切りのよさ」のようです。

 たしかに、そういう人たちはテーブルからてきぱきと「ゴミ」を掃き落とすことは得意でしょう。でも、「掃き落とされた人々」は(強制収容所に幽閉するか、粛清するかしない限り)、結果的には、その政治家の掲げる政策を失敗させるためにしか行動しません。
短期的なコスト削減策が、長期的には巨大な損害を生み出した実例を私たちは福島の原発事故で学習したばかりのはずなのに。
 
知性の深みや、ひろびろとした展望や、人間的器量の宏大さを感じさせてくれるような言説に触れる機会はますます減っています。僕はそれこそがこの時代の危機のもっとも危機的な徴候ではないかと思います。

「危機だ、危機だ」と警鐘を乱打することは少しもむずかしいことではありません。「危機はここにある」と名指すこともそれほどむずかしいことではありません。でも、「危機を回避するために、人々が知恵を出し合い、手持ちの資源を分かち合うための対話と相互支援の場をどうやって立ち上げるか」という実践的な問いに答えることはむずかしい。たいへんにむずかしい。そのような場を立ち上げるためには、何よりも他者に対する寛容と想像力が必要なのですが、まさに「寛容と想像力」の必要を訴える言葉がどこでも聞かれなくなったという当の事実が、つまり危機を回避するためのただ一つの道を人々が寄ってたかって塞いでいるという悲しむべき事実こそが、この社会の危機の実相なのだと僕には思われるのです。

(※〇ご参照に
・『維新と加速主義』
 加速主義というのは(…)「民主主義」や「人権」や「政治的正しさ」のような時代遅れのイデオロギーがブレーキになって資本主義の矛盾を隠蔽し、資本主義の終焉をむしろ遅らせている。そのブレーキを解除して、資本主義をその限界まで暴走させて、その死を早め、資本主義の「外」へ抜け出そうというのが加速主義である。

・本稿『ウクライナとパレスチナ』中の【新しいナチズム】

・『愛と幻想のファシズム』中、【『弱い個体を淘汰し、生き残ることができる強い人間たちだけでポスト資本主義の新しい世界を構築するという冷酷でハードな考え方である。】
 【この思想を鈴原冬二はそのまま口にしている。
「大切なのは、人間があまりに動物から遠く離れてしまったということだけだ。人間は、ただの動物だ。(...)俺は、人間を動物へと戻す。」「幸福にならなければならないという妄想が奴隷達を苦しめている」だから、「日本を一度徹底的に破滅すればよい」と鈴原はつぶやく。】)



●現代における信仰と修業

http://blog.tatsuru.com/2022/03/25_0904.html

(※「ナチズム」についても描かれますが、どちらかと言えば、「思想と実践」に重きを置いて選択させていただきました。)

 私が研究していたのはエマニュエル・レヴィナスというフランスのユダヤ人哲学者である。リトアニアに生まれ、フランスとドイツで哲学を学び、ホロコーストを生き延び、タルムード解釈学を相伝され、その学知によって崩壊寸前だったフランスのユダヤ人共同体の精神的導師となった人物である。

(※ご参照に

・本稿『『愛と幻想のファシズム』再読』>【『弱い個体を淘汰し、生き残ることができる強い人間たちだけでポスト資本主義の新しい世界を構築するという冷酷でハードな考え方である。】
 【この思想を鈴原冬二はそのまま口にしている。
「大切なのは、人間があまりに動物から遠く離れてしまったということだけだ。人間は、ただの動物だ。(...)俺は、人間を動物へと戻す。」
「幸福にならなければならないという妄想が奴隷達を苦しめている」だから、「日本を一度徹底的に破滅すればよい」
と鈴原はつぶやく。】)

『◆内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ◆』
>『●ファシズム』内田先生のリポストです。
(こちらのリポストは、内田先生に対して挙がったファシズム批判、一連のものです。)

【ドイツの政府機関
「1944年の今日7月20日は、ヒトラーの暗殺未遂事件があった日。軍の一部の将校らがナチス支配に対抗し、クーデターを試みました。結果は失敗におわり、この事件に関わったとされる多くの人が処刑されました(画像)。そしてその中には、外務省の職員も13名いました。」】

(※「ヒトラー」とは誰のことしょうか? 「軍の一部の将校ら」は誰を指しているでしょうか?))

 私が研究したレヴィナスという人は先の大戦で応召したのち、捕虜となり、捕虜収容所に終戦まで収監された。戦争が終わってみると、リトアニアにいた親族のほとんどはアウシュヴィッツで殺されていた。帰化した第二の祖国フランスのユダヤ人共同体は崩壊寸前だった。

 そういう人たちに向かってレヴィナスはこう語った。では訊くが、あなたがたはこれまでどんな神を信じてきたのか? 善行をするものに報償を与え、悪行をするものには罰を下す「勧善懲悪の神」をか? だとしたら、あなたがたが信じていたのは「幼児の神」である。

(※ご参照に
・本稿い『ウクライナとパレスチナ』
【二つの国家がそれぞれの国益を守るために行う「ふつうの戦争」ではなく、人間が悪魔と闘っている「神話的な戦争」だということになります。それではイスラエルのガザ攻撃に歯止めが利かなくなって当然です。相手は人間じゃないんですから。

 ホロコーストは人間が人間に対して犯した罪である。人間が人間に対して犯した罪の償いや癒やしは神がなすべき仕事ではない。神がその名にふさわしいものなら、必ずや「神の支援なしに地上に正義と慈愛の世界を打ち立てることのできる人間」を創造されたはずである。自力で世界を人間的なものに変えることができるだけ高い知性と徳性を備えた人間を創造されたはずである。

秩序なき世界、すなわち善が勝利しえない世界における犠牲者の位置を受難と呼ぶ。この受難が、いかなるかたちであれ、救い主として顕現することを拒み、地上的不正の責任を一身に引き受けることのできる人間の完全なる成熟をこそ要求する神を開示するのである。」(同書)

 レヴィナスはこの峻厳なロジックによって、戦後いったん崩れかけたフランスユダヤ人共同体を再建した。二十代の私はこのレヴィナスの複雑な弁神論につよく惹きつけられた。信仰を基礎づけるのは市民的成熟であるという言葉は私がそれまでどの宗教者からも聞いたことのない言葉だったからである。  
 最後に個人的なことを書く。レヴィナスの哲学と合気道修業の間に二十代の私が「同じもの」を感じたまま、その内在的連関を言葉にできなかったと書いたけれど、四十年も同じことを繰り返していると、さすがに少しはわかってきたことがある。
 それはこのどちらもが人間の生身感覚の上に構築された体系だということである。
 
 そして、なるほど私は成熟を遂げたのだという成熟のありありとした実感を最終的に担保するのは理知や概念ではなく、生身なのである。幼児のときには見えなかったものが見え、聞こえなかったものが聞こえ、判別できなかった香りや味がわかり、かつては感知できなかったものの接触や切迫がありありとわかること、それが成熟するということである。霊的成熟とは徹底的に身体的な、誤解を怖れずに言えば、生物学的な経験なのである
 レヴィナスは「生身を持つもの」にしか真の信仰を担うことはできないと教えたのである20世紀の戦争と粛清と強制収容所の痛ましい経験からレヴィナスが学んだのは、悪とは「スケール」のことだということであった。生身の人間の尺度を超えたスケールで「人間的な社会」や「人間的価値」を作り出すことはできない。それがわかったときに、レヴィナス哲学と武道の内在的な関連が私にも少しだけ腑に落ちたのである。




●『撤退論』まえがき

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2022/04/13_1732.html

今回は「撤退について」という主題での寄稿依頼です。まずは編集の趣旨についてご説明致します。

 というのも、国力が衰微し、手持ちの国民資源が目減りしてきている現在において「撤退」は喫緊の論件のはずであるにもかかわらず、多くの人々はこれを論じることを忌避しているように見えるからです。「撤退する日本はどうあるべきか」について衆知を集めて論じるという機運が高まっていない。 

(※【撤退】とは何を意味しているでしょうか…)

 僕が「撤退」と言っているのは、具体的には、この国力衰微の現実に適切に対応するということです。痩せて腹回りがへこんだらベルトのボタン穴を一つずらすとか、寒気がするので厚着するとか、そういう種類の、ごく非情緒的で、計量的な問題です。にもかかわらず、そのことが制度的に忌避されている。どうしてなんでしょう。

 システムを補正し改良するということはシステムに瑕疵があったということを認めることからしか始まりません。でも、現在のわが国の為政者たちは「失政を絶対に認めないという」立場をこれまでかたくなに守り抜いてきました。そして、「誤りを決して認めない」という態度を取り続けることで長期政権を保ってきた。「決して失敗を認めないこと」が成功体験として記憶されている。だから、成功体験に固執する。
「撤退」をめぐる議論は、これまで採択されてきた政策の適否についての精密な点検なしには成り立ちません。どの政策がうまく行って、どの政策が失当だったか、それを吟味することなしには、議論は始まらない。でも、それは現在指導層を形成している人たちが「それだけは絶対にしたくない」ことなのです。

 第二の理由はもう少し複雑です。それは為政者たち自身も「日本はこれからどんどん衰微してゆく」ということは客観的事実としては認めており、その原因も理解しており、それに対する対策もすでに講じているのだけれども、そのプロセスを国民に対して開示する気がないということです。 
 喫緊の政治的課題が「目減りしつつある国民的資源を誰にどう分配するか?」ということであることもわかっている。
 ですから、当然にも自分たちなりの「撤退戦略」をすでに構想している。それくらいの知恵がなければ、政権は担当できません。でも、それについて公的な場面で話題にする気はない。というのは、それが国民資源のかなりアンフェアな分配をもたらす計画だからです。僕はそう思います。
 彼ら指導層のこれまで思考と行動のパターンを考えると、それは新自由主義的な「選択と集中」をさらに徹底したところの「強者にすべての資源を集中し、弱者は見捨てる」というものになるのだろうと思います。それ以外の解のために知恵を絞るほどの倫理性を僕は日本の指導層に期待しておりません。

(※【強者】とは誰で、【敗者】とは誰でしょうか…)

 でも、「強者が総取りする」という「撤退」戦略を、パンデミックとインフレと貧困で人々が苦しんでいる状況下で公開したら大多数の国民の怒りを買うことは間違いありません。さすがに大多数の有権者の怒りを買ったら政権の維持が難しい。だから、それについては腹に納めて、黙っている。
 いかなる国民的議論も経ずに、政府部内では「撤退計画」はすでに起案され、着々と実施されている、僕はそう考えています。そして、ある日「ポイント・オブ・ノーリターン」を越えたところで、つまりもう政府主導の「撤退計画」以外の選択肢を採る可能性が失われた時点で、はじめて「日本は沈みつつありますが、生き延びる手立てはもうこれしかありません」という手の内を明かす。そういうシナリオができていると僕は考えています。それがどういう「シナリオ」であるかどうか、それは別稿で書きたいと思います。

(※ 誰に呼びかけているのでしょうか…)

 「多様性と包摂」という看板だけは掲げていますけれども、今の日本人は人種・国籍・言語・宗教・生活文化を異にする「他者」たちと共生できるほどの市民的成熟には達していませんし、そもそもそのような市民的成熟が緊急に必要であるということについての国民的合意さえない。そんな国が人口減を移民で補うことができるはずがありません。
 でも、今のままでしたら、「日本はこうやって撤退に失敗した」という「やってはいけない見本」を提示するということでしか世界の役に立たないということになりそうです。

(※ この記号に限らず、現在まで時折と言っていいと思いますが、先生が提出されているタイプのメッセージです。
「撤退」が何を意味するかは、騒動を知る方で理解されていない方はあまりいらっしゃられないのではないでしょうか。
本日も別の記号で提示されておりました。

リポスト【無限リンチ】

内田樹先生のメッセージです
【「今日のところはこの辺にしといたるわ」というギャグがありますが、とても大切な言葉だと思います。市民的成熟とは「程度の違い」を判定できるということですから。】

大変僭越ですが、記録ですので事実を述べさせていただくと、今までは提出された後しばらくして、通常の動作にお戻りになられて現在に至るというのが私の認識になっています。

〇翌日(2024年3月13日)の内田先生のリポストです。

ほぼリアルタイムに近い形で記録させていただきたいと思います。

【「ジャンプ40年史の旅(後編)の巻」でも逸話が語られていました 】


先生のお言葉を拝借しますと「私たちは人間のかたちをした獣(human animals)と戦っている」ということに、見えておりません私は遅まきながら昨日身をもって気づくことができました。日々更新される「個人情報」をごらんになっている方には、完全には少なくとも、ある程度は浸透されている感覚かもしれません。
一方で、おそらくこの体験は、集団ストーカー被害に遭われる多くのかたが覚えのあるものかと思われます
(私のリポストです。他の被害者のかたのポストを英訳させていただきました)

「みんなの命を守らなければいけない。やらなければやられる」というような伝達情報も拝見いたしました。これを見たとき、皆様としては「どっちもどっちなのだろうが、リスクの低いほうを選ぼう」という結論に落ち着くかたが多いのではないだろうかと想像します。

しかし、理論的には奇妙です。日本の認識では「撤退」という言葉のニュアンスが感覚としてピタリとはまります。「撤退論」は2年前から頻繁にメッセージされ、しかもリスクの質を考えると、リスクの高低は変わらないはずだからです。

こちらも他のかたにご紹介していただいた記事ですが、数日前、ローマ教皇がウクライナに「白旗」の進言をアナウンスするということがありました。その際のゼレンスキーの反論をご紹介させていただきたいと思います。
「2500キロも離れた場所で、生きたい人と滅ぼしたい人の間を事実上仲介するような場所ではない」
集団ストーカー被害者の心情もきっとこういうものではないかと思われます。)


●憲法空語論

全文はこちらhttp://blog.tatsuru.com/2022/05/03_0859.html

 今号は憲法特集ということなので、憲法についての私見を述べる。
「空語であるのが当然」であり、少し喧嘩腰で言えば「空語で何が悪い」ということである。
 あらゆるタイプの「宣言」と同じく、憲法も空語である。ただし、それは「満たすべき空隙を可視化するための空語」、「指南力のある空語」、「現実を創出するための空語」である。
 
 しかし、「人間は邪悪で愚鈍な度し難い生き物であって、これからも改善の見込みはない」というような言明は居酒屋のカウンターで酔余の勢いで口走るのは構わないが、公文書に書くべきことではない。というのは、いったんそのような人間観を公認してしまったら、これからあと、その社会の成員たちは「より善良で、より賢明な人間になる」という自己陶冶の動機を深く傷つけられるからである。

 全成員が邪悪で愚鈍で嘘つきであるような社会でも「生きていける」ように制度設計することはたしかに現実的であるかも知れないけれど、その制度がよくできていればいるほど、その社会の成員たちが「善良で賢明で正直」になる可能性は減じる。
 成員全員が邪悪で愚鈍で嘘つきであっても機能する社会があるとしたら、それは原理的には一つしかない。「神がすべてを統御する社会」である。神が万象を俯瞰し、成員の行動も内心もすみずみまでをも見通す社会なら、全員が邪悪で愚鈍で嘘つきであっても、社会は機能するだろう。でも人間は神ではない。

 だとしたら、次善の策としては「神の代行者」を任じる権力者が全成員を「潜在的な罪人」とみなして、その一挙手一投足を監視する社会を創る他ない。自民党の改憲草案を読むと、彼らがまさにそう推論していることが分かる。
「人間はすべて邪悪で愚鈍で嘘つきであるから、全権を持つ権力者が全員を監視しなければならない」という彼らの国家観と「憲法と現実に齟齬がある時は現実に合わせて書き換えるべきだ」という憲法観はまったく同型的な思考の産物なのである。

(※【ご参考に】
・noteテキスト『疑問』より
(続き)【監視社会というのは政府が網羅的に市民を監視する社会ではなく、市民が市民を監視し、密告し、機会があれば暴力をふるう社会のことです。共謀罪はそういう社会を創り出すための装置です。人間の卑しさと弱さと欲心を「レバレッジ」にして国を支配する術においては安倍政権は確かに卓越しています。】

・共謀罪について、『権力者の全能感が見える』の文章。
権力者が全能感を覚えるのは、不合理で、不適切なことをしても誰もそれを咎(とが)めない時である。だから歴史上の独裁者たちはまったく無意味な苦役をその臣民に強いることで、おのれの全能を確認しようとしたのである。」)

(毎回大変お手数をおかけして恐縮ですが、騒動を最初期からご存じで、内田先生のメッセージにも精通しているかたのジャッジを仰ぎたいと思います。頼りにしてしまって申し訳ございませんが、何卒よろしくお願い致します。)


●『複雑化の教育論』をめぐるロングインタビュー その2

全文はこちらhttp://blog.tatsuru.com/2022/06/06_1055.html

フィリピンの人がこう言っていました。「英語が母語同様に使えることはたいへんpracticalであるが、母語では英語と同じ内容が話せないことはtragic である」と。これはほんとうにそうだと思います。タガログ語では、政治や経済や学術について十分に語ることができない。そのための語彙がない。そのためのレトリックや複雑な構文が洗練されていない。「言語の植民地化」というのは、そういうものだと思います。宗主国からすれば、現地住民の創発性の「芽を摘む」ことが植民地支配においては必要だったわけですから、母語を痩せ細るに任せて、宗主国の言語を学ばせた。それは日本が朝鮮や台湾でやったのと同じことです。母語を使わせず、宗主国の言語を使わせることで、彼らの「母語のアーカイブ」へのアクセスを妨害した。でも、「母語のアーカイブ」に深く沈潜することが、新しいアイディアの発生にはどうしても必要なのです。

(※ 私は、今も海外のかたと対話が禁じられていますので、「言葉が違う」「発語のルールがわからない」とうるさがられるほど繰り返していると思います。逆から見れば皆様からも同じで私が空気が読めなことを嘆かれているかもしれせん。そこは申し訳ありません。先生と対話を始めた当初は、国内でも同じで、よく「宗主国ー非植民地」の言語観に譬えてお話してきました。”抑圧や支配をされた側は、その立場にいる限り、自分の歴史を自分の言語で語ることができなくなる”といった内容です。)

〇ご参考に
内田先生のメッセージです
(私が現在の劣勢に変化し始めた頃、状況が見えない私は、空気が物理的に読めず、「なぜ、人権や国際法といった西側諸国の普遍的な価値が侵害されても許されるのか、そのロジックを教えていただけないでしょうか」と周囲の皆様に聞いて回っていました。その際の内田先生からのご返答になります。
【市民が立ち上がって「緊急事態宣言を解除しろ」とデモをすれば、内閣は当然これを「社会秩序の混乱」と認定します。つまり「緊急事態の発令は不当だ」という民意の表示そのものが「緊急事態発令を正当化する」という悪魔のような仕掛けなんです。】)

(本日、こちら更新内容に触れたメッセージがありましたので、内田先生からのご確認として提示しておきたいと思います)

〇内田先生のリポスト内、他のかたの話題に触れたメッセージ
【「ルールを守って講義をしましょう」「人に迷惑を掛けずに主張しましょう」というのは、結局支配階級の許す範囲でしかモノが言ええなくなってしまっているということでしかないんですが、そのヘゲモニーに自発的に従う人々が自身が賢いと勘違いしている構図ばかりが多くて鼻白みますわい】
【なんかイヤなのは規定されたルートのみ人の主張は認められる、ということを前提にしているからなんです。なんというかなあ、こういう清潔な閉塞感」みたいなのが蔓延していることに疑問を持たない飼いならされた感じが嫌というか】

〇内田先生のメッセージ
これって「ルールを変えたければまずはルールに従って、ルールを変えられるほど出世してからやれ」「システムを変えたければまずシステムに順応して、システムを変えられるほど出世してから変えろ」と同じで単なる現状肯定主義なんです。


●選挙では誰に投票するのか?

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2022/06/19_1305.html

 私はどの候補者についても私の政治的意見との完全な一致を求めない。かなり違っていても構わない。「私が個人的に暮らしやすい社会を作ってくれるかどうか」を基準にして私は選挙に臨むことにしている。極端なことを言えば、権力者が「内田に発言機会を与えない」「著書を発禁にする」「投獄する」というような命令を下した時に身体を張って反対してくれそうな人であれば誰でもよい。

 それでも、歴史を振り返ると、どういう政策が国を亡ぼすことになるのかはだいたいわかる。それは「わが国の本来の姿に戻る」ことをめざす政策である。わが国が「こんなありさま」になっているのは外部から異物が混入してきて社会を汚染したせいである。だから、その異物を検出し、排除すれば社会は「原初の清浄と活力」を回復するであろうというタイプの言説である。

 このタイプの妄想を信じた人たちによってこれまでたくさんの人が殺され、多くの価値あるものが破壊された。いまウクライナでロシアがしていることも、新疆ウイグルや香港で中国がしていることも、この「あるべき国の姿」幻想に駆動されているのだと私は思う。だから、これがいずれ両国の「亡国」の遠因になると私は思う。今は中ロどちらの国民も権力者に圧倒的な支持を与えているけれども、国民ひとりひとりが「わが国はいかにあるべきか?」よりも「これがほんとうに私の暮らしたい社会なのか?」と自問する習慣があれば、今あるような国にはなっていないはずである。

(※ご参照に
・本稿『維新と加速主義』中、 加速主義というのは(…)「民主主義」や「人権」や「政治的正しさ」のような時代遅れのイデオロギーがブレーキになって資本主義の矛盾を隠蔽し、資本主義の終焉をむしろ遅らせている。そのブレーキを解除して、資本主義をその限界まで暴走させて、その死を早め、資本主義の「外」へ抜け出そうというのが加速主義である。

・『愛と幻想のファシズム』中、【『弱い個体を淘汰し、生き残ることができる強い人間たちだけでポスト資本主義の新しい世界を構築するという冷酷でハードな考え方である。】
 【「幸福にならなければならないという妄想が奴隷達を苦しめている」だから、「日本を一度徹底的に破滅すればよい」と鈴原はつぶやく。】)

 だから私は「わが国の本然の姿はどうあるべきなのか」を論じない。そんなことを論じてもろくなことにはならないからである。それよりは「これがほんとうに私の暮らしたい社会なのか?」を問うようにしている。私は基本的人権が尊重され、市民的自由が守られる社会で暮らしたい。それだけである。国が貧しくてもいい、軍事的強国でなくてもいい。金があり、力があり、隣国から畏怖されているが、権力者におもねる以外に国民に生きる手立てがないような国では暮らしたくない。だから、「私が暮らしやすい社会」にしてくれそうな人なら誰でも私は応援する。

(※ご参照に
・本稿『パワークラシーの国で』より
だから、彼らは自分たちが「法の下の平等」から除外されていること、「非常識」という評言が自分たちには適用されないこと、他人に無用の屈辱感を与える権利があることを繰り返しアピールすることになる。)



●安倍元首相銃撃の報に接して

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2022/07/08_1344.html


 原稿を書き上げた直後に「安倍元首相が銃撃されて心肺停止」というニュースが飛び込んで来た。
 いかなる政治的立場にある人間に対しても、その活動を妨害するために暴力を用いることは絶対に許されない。「絶対に許されない暴力」の犠牲になった安倍氏に対しては、立場を越えてすべての国民がその無事を祈っていると思う。私はほとんどすべての政治的イシューについて氏の掲げる政策に反対してきたけれども、今はただ彼の健康の回復と政界復帰を願っている。

(※暴力のお話です。現在まで続いています集団ストーキングの情勢が劇的に変わったのが、「超能力」であったようにお見受けしています。ターニングポイントはあそこだったと思います。メモ書きの件が、大変な騒ぎとなり、私も皆様を驚かせたことを謝罪し続けております。これがなかったら、皆様の集団ストーキングへの評価も少しはかわっていたかもしません。あれから一年以上経ちますが、転がるようにここにいます。でも、あの当時、「連続殺人犯」容疑など含め、雑然と騒ぎが高揚したように思いますが、皆様に書いてきたことは、自己防衛を除き、その通りに実行しているとお約束することができます。アラートは毎日継続されてはおりますし、「怖い表情」など状況証拠が上がっていると思いますが、それが大きく見えるのは、ストーカーの報道の世界観です。ストーカーも私の発言そのように言うかもしれません。皆様には恐怖や不信感、不快感、そしてなみなみならないリアリティーを与えているかもしれません。私ももっとうまくお伝えする方法が見つかるといいのですが、バイアスを退けるのは意識だと言います。「私であれ、ストーカーであれ、誰であれ、騙されたくない」という意識でもって、内田先生と私、当事者間に何が起こっているか、見ていただければ、それだけでものの見方も変わってっ来ると思います。(糸井さんとの間に起こっていることは、申し訳ありませんが、アラートのやり取りの通りです)。

「なぜ、頬がこけて言っているのかlol」「以前と顔が別人のように老けている」「骸骨」…と揶揄されてきました。私には皆様との約束がありましたし、正直snsの反応もどうなるかわからないという思いでずっと黙っていました。ある朝、いつものように痛みで目覚めて、鏡の中の自分を見て、命の危機を感じました。
今日を含め何か月も、「内田先生、しつこいですよ」、「雷」、「原発」、「暴力」、その他の表象などのメッセージ群を提出し続けていますが、そうなる前のことです。

変容する自分の姿と、先生の日々のメッセージと合わせた時に、端的に「殺される、これは」と恐怖を感じた時から、防衛を開始します。

もちろん、日常であれば、二人の関係性を顧みれば不躾なご質問ですが、こちらは命が奪われようとている、そういう関係に転じています。あるきっかけから、先生の出すアラートによって「私が先生を攻撃をしている」というご批判がヒートアップするなか、私は先生にお問いかけをします。「ご自分が攻撃しながら、なぜ私から攻撃を受けているとアラートを提示し続けるのでしょうか」とお尋ねします。

〇内田先生のメッセージです
【テロへの報復と称してガザで数週間で約6千人の子供を残忍に殺害した。】【自衛する権利がある!】)

(※【子供を残忍に殺害してした】のは誰に当たるでしょうか。翻って、【自衛する権利がある】のは誰でしょう?)

そのあと、痛みに耐えている私は「やめていただけないでしょうか」とお願いします。先生が返されます。

〇内田先生のメッセージです。
【たぶん6車線(3+3)だと思います。】
(※ 車線の痕跡が跡形もなく消えてしまった道路の写真です)

それ以来、半年以上、毎朝私は目覚めてすぐ、「原発」の記号を出すのが日々の習慣になっています。そして、毎日10度以上、20度はいかないぐらいでしょうか、かなりの数に上るメッセージを出しています。
【先生の周囲のかた、おとめになっていただけませんでしょうか
今日はひどいのですが、一時ソース上で何かあったのでしょうか…】
【先生、一日中なぜやめられないのでしょうか…】
【先生、お願いします…どうしてもやめられない…なぜでしょうか…】
・・・

私は皆様のリアクションをご確認することはきません。これは不気味なのでしょうか、それともとくに気を払うようなものでもないのでしょうか…。事件が起こった時、当事者に対して「悪魔化」はメディアでは一般に必須のプロセスといえるかもしれません、「人以外」「悪魔」までいってますので表象的には最終形態まで行ってるのではないでしょうか。

多方、不思議に思っているのは、現実はこの構図とは逆で、いつしかこのプロパガンダとは転倒した状況が生まれています。私としては、自分のとれる数少ない対策として皆様に訴え続けているのですが、皆様には「暴力」の問題は、どのような受け止めになっているのでしょうか…こちらの注意書きはしばらくして、記録からは削除するかもしれません)

(※先生、きついのでやめていただけないでしょうか…)

(表現がキツイというご批判をいただいているとお受けしています。皆様の意見を見て、時宜を見計らって、細部を調整できたらどれほどスムーズに作業が進むのだろうか、と思います。しかし残念なことですが、軟禁されたまま欠席裁判となっています。空気が読めず(不器用&物理的に)、ふさわしい話法の照合が取れないまま書いていますので、法廷の文脈を外しておりましたら何卒お許しいただきたいと思います。私もある程度の無理をしてでも努力してまいります)
(昨日削除したパートに関して、復活のお声を届けていただいたと思います。こちらにも感謝申し上げます。補足の注意書きとしては、異様な長さになっていて読みにくさも相当でしょうが、お言葉に甘えて昨日のパートを復活させたいと思います。

人間は主語を認識することが困難だと言います。記述の対象自体が残酷な場合、対象の加害者でなく、周知している被害者が皮肉にも炎上していしまうという事例を見るのはこれまで往々にありました。また、周知とは、攻撃を意味するものではなく、ただ事実をお知らせする行為です。私も書くことに意識が振り切られてご配慮が行き届かなくなるかもしれませんが、主客の転倒の可能性についてどうかご検討のほどよろしくお願い致します)

・騒動も長引くについて、インターネットでは問題も拡大され、子細に枝分かれしていくのは避けられないでしょう。炎上も集団ストーキングも多層的なレイヤーにおいて行われます。そういったとき、問題をその起源までさかのぼり、見極めるというという思考法があります。上辺の理解や扇情的な反応ではなく、問題を考えるうえで動機を目的を「騙されないため」の方法です。
拙稿『ABOUT IT』では、繰り返されてきたメッセージである「セクシャルハラスメント」を最初に置かせていただきました。ですが、事象を接近して詳細に見た場合には、先生とは別のやり取りがその前にありましたので、ご紹介させていただければと思います。

・私は依頼されて、ある映画コメントを推敲して再アップします。これが始点となります。日付を調べましたらもう9年前の出来事です。それが「失敗」というご反応をいただきます。それは提出したものに対しての評価ですから仕方がありません。私も皆様のお役に立てず残念でした。

そこで不調法な表現を許していただきますと、そこから内田先生が連日、私についての誹謗中傷といって差し支えのないメッセージが開始されることになります。驚いて、こちらとしては素直に謝罪を繰り返すのですが、先生はいったん沈静化、しばらくして緩やかに復帰されるということが起こります。先生のご反応と騒動の扇動を見て、これ以上のやり取りは難しいのではないかと考え、私は映画コメントをネットから削除します。

〇その際の内田先生のメッセージになります。
【二度寝から悪夢で目覚めるなう。〇〇くんと対談してたらフロアにいた人が「ウチダの話は聞くな」と絶叫し始め、「あの・・・そういうことは自分で講演会でも開催して、そこで言っていただけませんか」とお願いするのだけれど無視されて、ついカッとなってひどいことをしてしまってじっと手を見る夢。】【日頃抑圧されている暴力性が夢の中でリリースされてしまうのかな。】

こちのメッセージをいただいた私は、映画コメントを再アップしますが、同様のプロセスが繰り返されることになりました。)

 どれほど妥協の余地のない政治的対立であっても、その理非を決するのは「自由な言論」の審級であるべきで、それ以外の手段を私は受け容れない。そのことをもう一度繰り返しておきたい。
 けれども、この数年、日本社会で政治を語る言葉は年を追って「自由な」というよりは「節度を失った」ものになってきていた。そのことはみんな感じていたと思う。
 それでも、「暴力的な言葉」はただの「言葉」に過ぎない、言葉が人を深く傷つけることはない。そう信じていた人も多いと思う。でも、それは違う。
 罵倒や嘘やプロパガンダが言論の場を領するようになると、「聞き届けられるべき言葉」と「消え去るべき言葉」を判定する力が言論の場にはあるという確信を人々は失い始める。自由な言論の場の審判力に対する信頼が失われた時に、物理的暴力の持つ現実変成力への期待が膨張する。言論への信認が失われる時に、物理的な力だけが決定力を持つという忌むべき思想が人々の心に入り込む。このふたつはゼロサムの関係にある。

(※ご参照に
・『内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ』【嘘】より
内田先生の引用リポストです
【「日本語が乱れた」】 

内田先生のメッセージです
どれほど嘘に嘘を重ねても処罰されないということが「権力を持っている」ということであるというのが安倍政治の根本原理でした。ですから、政権は全力で彼女を守るはずです。「嘘をついたらペナルティがある」というルールを自民党政権は絶対に受け入れることができないからです。】(【安倍】とは誰でしょうか。)

 政治的暴力を抑止するために必要なのは、警察や軍隊の強化ではない。十分な信頼に足るだけ、論理的で、感情豊かで、かつ節度ある自由な言論をもう一度作り直すことだ。その作業なら今すぐここから始めることができ

(※ご参照に
・本稿『ウクライナとパレスチナ』より

問題は和平協定そのものの合理性よりむしろ国民感情です。最も強く人を衝き動かすのは怒り、憎しみ、屈辱感といった「負の感情」です。】)

・『内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ』【私への恫喝】より
【(引用rt内、”トランプが支持者に向かって遊説”という時事に対して)

内田先生のメッセージ「『トランプは政府機関の彼に対する捜査を激しく罵り、彼が万一起訴された場合に起こる「死と破壊」(death and destruction)について、暗鬱な警告を発した。だそうです。」】

・これを書いた翌日、先生のメッセージになります。やり取りが成立したと見て、記録させていただきたいと思います。
【(※昨日、「暴力」をテーマに文章を更新しました)】
(※和製銃映画として有名な作品のティーザー動画。シンボリックな銃撃シーンが何度も繰り返されます)


●国葬について

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2022/09/22_0836.html

(※周知させていただきます。以下のメッセージは先生が騒動を通しても頻繁に繰り返されてきたメッセージになると言っても過言ではないと思います。私も何度も皆様に意味を同じくするメッセージをお知らせしてきました。立場の差を考えれば、非常に不躾ではありますが、ここに来るまでに9年の歳月を騒動に費やし、私すべてを失ってきました。集団ストーキングは始まる以前の周知は、先生の名前も匿名で行われていました。ただ、感情の赴くまま記録しているわけではありません。その文脈をお含みおきいただければ幸いです。
周知は行為自体が個人攻撃のように映るかもしれませんし、誰の内容がひどいのか、人間は主語が識別できないと言います。ですが、社会的に大きな影響を持つ公人的なお立場に関する情報は、ニュースがそうであるように公益にもつながる意味を持っています。その特権的なお立場自体がここでもテーマになっております。何卒ご理解のほどよろしくお願い致します。)

国葬についてはいろいろな媒体に寄稿した。これは「赤旗」に求められたコメントだったが、没になった。岸田首相が「安倍元首相ほどの悪ではなかった」というあたりがお気に召さなかったようである。
 
 まさか国葬への反対がこれほど高まるとは首相は予測していなかっただろう。法的根拠がなくても、国会の審議を経なくても、閣議決定で決めたことを国民は最終的には黙って受け入れる。安倍政権の8年間はまさにそれを証明してきた。岸田首相はその「成功体験」を真似ただけである。
 安倍元首相のふるった強大な権力はある種のループ構造になっていた。どれほど国民が反対しても、野党が反対しても、合理的根拠がなくても、彼はやりたいことを強行した。すると、国民は「そんな無茶ができるのは、それを裏付けるだけの強大な権力を有しているからだ」と推論した。そして「それほど強大な権力者であるなら抵抗しても無駄だ」という諦めの境地に至った。つまり「あれほど権力的にふるまえるのは、ほんとうに権力を持っているからだ」という人々の思い込みが彼の権力基盤だったということである。よくできた仕組みだ。

(※【国葬】…集団ストーキングによる私の処刑に対してよく譬えらた記号です。 【安倍元首相】とは誰でしょうか…

〇【ご参考に】
・拙稿『ABOUT IT』より
騒動開始時、繰り返しご主張されていた内容のメッセージです。「セクシャルハラスメント」についてです。私の映画コメントのアカウント名は女性名(昔飼っていたペットの名前です)でした。

その通りだと思います。権力は「他の人がしたら処罰されることをしても自分は処罰されない」ことで確証されるので、権力を持つ人は自分の地位を確認したくなると(不安になると)必ず「そういうこと」をするようになります。そして、ある日ついに処罰される日が来るまでそれを止められない。

・本稿、共謀罪をめぐる先生のコメントです。この記事から6年前。
共謀罪について、『権力者の全能感が見える』の文章。
権力者が全能感を覚えるのは、不合理で、不適切なことをしても誰もそれを咎(とが)めない時である。だから歴史上の独裁者たちはまったく無意味な苦役をその臣民に強いることで、おのれの全能を確認しようとしたのである。】)

●国葬という政治的失着

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2022/09/27_1151.html

(上のテキストと同じ社会的事象がテーマになっています。)

なぜ岸田内閣は国民の信をこれほど急に失ったのか。「してはいけないことをした」というよりは「すべきことをしなかった」せいだと私は思っている。
 法的根拠のない安倍元首相の国葬を国会の審議を経ず強行したことで一気に支持率は下がったでも、国民はこのルール違反を咎めたわけではないと思う。政府の「ルール違反」はこの10年もう日常化していたし、それは安倍時代には内閣支持率に影響しなかったからである。
 
 安倍時代はそれで済んだ。選挙で勝てば「民意は得た」と居直って、個別的な事案については、どれほど国民の反対があっても無視することができた。国民の反対を無視しうるということそのものが磐石の権力基盤の上に政権が成立しているという事実を証し立てていると国民たちは信じ込まされたのである。「あれほど権力的にふるまうことができるのは、実際に権力があるからだ」と国民は合理的に推論して、権力者に抗うことを諦めた。
 そのようにして、10年にわたって、法律も憲法も無視し、国民の反対も無視することが「できた」のは、逆説的だけれども、安倍晋三という政治家に「他の総理大臣たちに卓越した力」があったと認めざるを得ない。
 民意を得るための最良の方法は民意を得るためにまったく努力する様子を見せないことだというのが安倍政治の「教訓」であり、続く二代の政権はそれを愚直に踏襲して、短期間のうちに支持を失った。

(※【安倍】とはだれでしょうか…。
〇ご参照に
・本稿内『パワークラシーの国で』より
「パワークラシー」は違う。権力者の正統性の根拠が「すでに権力を持っている」ということだからである。】
「【パワークラシー」の国では、権力者批判が許されない。】
【「パワークラシー」の社会では、「権力的にふるまうことができる」という事実そのものが「権力者であること」の正統性の根拠になるのである。なんと。】 
だから、彼らは自分たちが「法の下の平等」から除外されていること、「非常識」という評言が自分たちには適用されないこと、他人に無用の屈辱感を与える権利があることを繰り返しアピールすることになる。】


●日本の研究力の低下

(※ここまで本稿でお取り扱ってきましたのは「騒動への言及」のテキストでした。先生がある言語レベルにおいて騒動について語っている文章をご紹介してまいりました。これは試験的な意味を込めて、ダブルスピークの表の意となるサンプルとして採録したいと思います。皆様のご反応によっては取り下げたいと考えています。騒動の立体的な理解につながることをめざしてアップしますので、ご検討のほどよろしくお願い致します。)

  2015年に学校教育法が改定されて、大学教授会の権限が大きく殺がれた。大学は学長・理事長に権限が集中する「株式会社のような」トップダウン組織になった。それによって大学の組織運営は画期的に効率化するはずだった。たぶん「効率化」はしたのだろう。ひたすら人員を減らし、予算を削り、短期的に成功しそうな研究計画にだけ予算を配分する「選択と集中」が実現したのだから。だが、その結果がこの底の見えない研究力低下である。教育改革を主導してきた人々はこのみじめな結果をどう総括するのか。
 というのは修辞的な疑問であって、私は答えを知っている。それは「改革が足りなかった」というものである。政府の政策は100%正しかったのだが、頑迷固陋な現場の教職員がその実現に抵抗したせいで所期の成果が得られなかった。だから、さらにトップの権限を強化し、現場から自己裁量権を奪い取るべきだ。トップのアジェンダに忠実に従うイエスマンだけを重用し、反対する者は排除すれば、日本の研究力はV字回復する。そう信じている人たちが政策決定の要路にとどまる限り、日本の研究力低下と大学の非民主化は止まらないだろう。

(※ ご参考に

・本稿内『パワークラシーの国で』より
「パワークラシー」は違う。権力者の正統性の根拠が「すでに権力を持っている」ということだからである。】
「【パワークラシー」の国では、権力者批判が許されない。】
【「パワークラシー」の社会では、「権力的にふるまうことができる」という事実そのものが「権力者であること」の正統性の根拠になるのである。なんと。】 
だから、彼らは自分たちが「法の下の平等」から除外されていること、「非常識」という評言が自分たちには適用されないこと、他人に無用の屈辱感を与える権利があることを繰り返しアピールすることになる。】

・拙稿『◆内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ◆』『大学関係者への恫喝』より

内田先生のメッセージです
(政権が大学の学外委員に強力な権限を与えようとしているという記事に)【彼らが教育を管理したがるのは、たぶん株式会社が組織の理想だと信じているからでしょう。CEOが全権を握って、アジェンダに従う従業員たちを重用し、逆らう者は解雇するのが「世界標準」だと信じて、それを大学にも適用できると信じている。どうしてそんなに愚かでいられるのか分かりません。】

同日の6時間後 【理事会だん。ほぼ全部人事でしたので、発言機会なく「並び大名」でした。さ、ムサコに帰ります。結局お昼ご飯食べる暇はありませんでした。お腹空いた。】

※ならびだいみょう【並び大名】 歌舞伎(かぶき)の殿中の場などで、大名に扮(ふん)して、ただ並んでいるだけの役者。転じて、ただその場に居るというだけで、何の役にも立たないこと。そういう人。 ーgoo辞書より

●村上文学の意義について

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2022/10/19_1457.html

(※掲載は、世界的な文学者に対する先生ではなく、私の不躾に当たるのではないかと考え悩みました。実際に周知において、内容の性質が対象ではなくその発表者に帰されることはSNSでよく見かける風景です。1日迷ったのですが、ひとつの「騒動の言及」の仕方、ニュアンス、その定型的なサンプルとして知っていただきたいと思いました。ただ、こちらもいただいたご反応によっては取り下げようと思います。)

現代日本作家で、これだけ多くの外国語に訳され、人種も宗教も階層も異にする読者たちの支持を得ている人は例外的である。なぜ、村上文学はこれほどの普遍性を持ち得たのか。

(※ これは、集団ストーキングが海外に広がり始めた頃のテキストです)

 私の仮説は、それは彼が「存在しないもの」との交渉を書き続けたからだというものである。「現に目の前にリアルに存在するもの」について書かれた作品の場合には、一読して「この作品は自分を読者に想定していない」と確信できることがある。そこで行き交うジャルゴンも意味ありげなしぐさもまったく理解できない作品の場合、私たちはすぐに本を閉じてしまう。けれども、仮に遠い国の、遠い時代のものであっても、登場人物たちが「あり得ない場所」で、「存在しないもの」に出会って、傷ついたり、癒されたり、別人に変貌したりするという物語はある種の普遍性を持ち得る。なぜなら、「存在しないもの」に対しては、どの時代の、どこの国の人も(無縁である度合いにおいて)等距離にあるからである。逆説的だが「存在しないもの」のリアリティーは歴史的・地理的な限定を超えるのである。

(※「あり得ない場所」とはどこでしょうか…。
「存在しないもの」とは誰でしょうか…。

おそらく海外での受け止め方とは異なり、私は「存在する人物」ではなく、こちらが一般的な受容のされ方だと思います。少なくとも、先生におかれては、一貫してこの認識だったとお見受けしていました。糸井さんにおいては「夢の動物」という表現になります。)

 村上文学では「この世ならざるもの」、人知を以ては計りがたいものが私たちの世界に繰り返し侵入してくる。そして、愛する人を拉致し去り、人を取返しのつかない仕方で傷をつける。でも、これは有史以来世界中の人びとが経験してきたことの実感なのだと思う。
「存在しないもの」は「存在するとは別の仕方で」私たちにフィジカルに切迫してくる。「存在しないはずのもの」が現にリアルに、タンジブルにそこにある時に、それとどう向き合うのか、どうやってそれと折り合いをつけることができるのか。そのような問いについていくつか有用な経験知を人類は伝えてきた。ルーティンを守ること、礼儀正しいこと、「ありもの」で急場の用を便じること、抑制的であること、世の大事の多くは「原理の問題」であるよりも「程度の問題」であると知ることなどなど。私たちが「成熟」の指標としていることの多くがここには含まれる。そのような実践知の意味が身に沁みる人たちは世界に散らばっている。彼らが村上文学の読者を形成しているのだと私は思う。

(※ 集団ストーキングが世界へ拡散されだした時、日本で多くのかたがそれを注意深く見つめていたのを私は記憶しています。今でも強く印象に残っているのは、内田先生だけが”こんなの責任の取りようがあるわけないだろう”といったメッセージをされていたことでした。日本においても、いまとは騒動の受け止めが異なっていた時期です。やはり、先生は当事者でありながら冷静に騒動の位置づけを定められていたのです。)

(お時間ですので、今日の作業は終了したいと思います。皆様にはお付き合いのほどありがとうございました。)
(先生、痛みと眠気で思考ができなくなります。お願いですのでおやめください)


●生産性の高い社会のゆくすえ

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2023/02/15_1817.html

(ご反応を求めましたところ、‟該当文章を選択し、削除する作業は、アンフェアーに映る”といったご意見をいただきました。こちらはご意見に従い、全文をご参照できるようにリンクを貼っておきたいと考えます)

若い経済学者が高齢化について「唯一の解決策ははっきりしている」として、「高齢者の集団自決」を提言したことが話題になっている。

 似たようなロジックでかつてドイツは「ユダヤ人問題の最終的解決」を企てた。問題そのものをなくすことで問題が解決できると信じてホロコーストを始めたのである。だが、いくらユダヤ人を殺してもドイツの国運は向上しなかった。やむなく、「チャーチルもルーズベルトもスターリンも世界ユダヤ政府の走狗だ」と「ユダヤ人」概念を拡大解釈することで問題が解決しない理由を説明しようとした。それでも戦況はさらに悪化するばかりだった。最後は「政権の中枢にユダヤのエージェントがいて、政策を失敗に導いている」と言い出す者さえ出てきて体制が滅びた。
 
 でも、仮にそうやって「無能な人間」たちを社会から組織的に排除し、発言権を認めず、行政コストもかけない仕
組みを作ったとしても、やはり日本の国運の衰退は止まらないだろう。そうなると次には「無能者の排除」を声高に主張している人たち自身のうちに「隠れ無能者」がいて、社会の停滞を引き起こしているのだと言い出す人が出てくるからだ。

 でも、「社会的に有害無益なメンバー」の摘発と排除にどれほど資源を投じてもそれは価値を創り出すことにはならない。社是に「フリーライダーをゼロにすること」を掲げ、全社員がひたすら「働きのないやつ」の摘発と排除業務に励んでいる会社は遠からず売り上げがゼロになるのと同じことである。



●パワークラシーの国で

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2023/02/22_1105.html

若い経済学者が高齢社会対策として高齢者の「集団自決」を求めた発言がニューヨークタイムズに大きく報じられた。

(※ 上記コラムと同様のテーマです)

日本のSNSでは、その極端な見解のせいで、老人支配で割りを食っていると思っている不満な若者たちを中心に数十万のフォロワーを獲得し」、「社会的禁忌を嬉々として破ることで熱狂的な視聴者を獲得してきた日本の扇動者の一人」と紹介していた。

(※  拙稿『ABOUT IT』より。先生の騒動の出発点、セクシャルハラスメントについてのコメント【権力は「他人がしてたら処罰されることをしても自分は処罰されない」ことで確かめられるので、権力を持つ人間は自らの地位を確かめたくなると(不安になると)必ず「そういうこと」をするようになります。】)

 確かに日本社会には「権力を持つ老人たち」がはびこっていて、若い人たちのキャリア形成を阻んでいるのは事実である。だが、他方には圧倒的多数の「権力を持たない老人たち」がいる。彼らは支配され、収奪され、権利を軽んじられる側にとどまっている。このような社会を「老人支配」と呼ぶことが適切であろうか。
 では、どう呼べばいいのか、しばらく考えているうちに「権力者支配(powercracy)」という言葉が思い浮かんだ。
 むろんそんな政治用語は存在しない(今私が思いついたのだから)。

(※「権力者支配(powercracy)…『内田先生と騒動、最近のメッセージ』でも騒動との関連でご紹介いたしました。
【powercracyの語り口です。「今の権力の座にいるということはすべての政策が正し」い】。
比較的最近ですが、騒動の文脈を知る方から"今の与党が正しいわけがない、批判を受けている”といったご批判をお受けされていたと拝見しました。)

 ふつうは王政であれ、貴族政であれ、寡頭政であれ、民主政であれ、主権者はその権利を正当化する根拠を示す。「神から授権された」とか「民意を負託された」とか、あるいは端的に「賢明だから」とか。「パワークラシー」は違う。権力者の正統性の根拠が「すでに権力を持っている」ということだからである。
「パワークラシー」の国では、権力者批判が許されない。権力者を批判できるのは、権力者だけだからである。選挙で相対少数になった野党には政権を「批判」する資格がない(できるのは「反発」だけである)

「パワークラシー」の国では、権力者が権力者であるのは、政治的に卓越しているからでも、知的に優れているからでも、倫理的に瑕疵がないからでもない。すでに権力を持っているからである。これが「パワークラシー」である。「パワークラシー」の社会では、「権力的にふるまうことができる」という事実そのものが「権力者であること」の正統性の根拠になるのである。なんと。
 
 わが国が「パワークラシー」の国だと考えると、当今の権力者たちの異常な言動が理解できるはずである。彼らの非論理性や非倫理性は、別に何らかの政治目的の達成のために採択された非情な手段ではないのである。権力者であるために必要なのは、卓越した政治的見識を持つことでも、雄弁の才に恵まれていることでも、人心掌握に長けているからでもなく、「現に権力的にふるまっている」という既成事実だったのである。
 だから、彼らは自分たちが「法の下の平等」から除外されていること、「非常識」という評言が自分たちには適用されないこと、他人に無用の屈辱感を与える権利があることを繰り返しアピールすることになる。
 まことに困ったことに、「パワークラシー」の国では、権力者だけでなく、権力を持たない一般市民までがその影響を受けて、「権力者であるような顔つき」を競うようになる。
 
 どうも最近、非常識で、傲慢で。攻撃的な人が増えてきたなと思っていたが、あれは別に日本人の人格が劣化したわけではなく、彼らなりに社会的上昇めざして、「いやな野郎」になるべく努力していたのである。そう気づいて、腑に落ちた。

(※太字は本文に対して私が加える形をとっていますが、本文のものも活かしています。「」と同様、騒動と関連を示すケースが多々あります)

●中国最新事情

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2023/02/15_1814.html

中国の生活者の肉声はなかなか日本には届かない。取材活動にきびしい制約が課されているし、市民も口が重い。どこで、誰に会って、何を話したのか、それを政府はすべて把握している(と市民は信じている)。実際に監視されていなくても、市民が「監視されているかも知れない」という不安を抱いている限り「パノプティコン(一望監視装置)」は効果的に機能する。

(※ こちらも拙稿『ABOUT IT』から。【ミッシェル・フーコー『監獄の誕生』 説明 監獄の誕生です。】と紹介されていた監獄です。騒動初期には多用されていました。

 中国には社会的信用評価システムというものがある。政府がビッグデータを活用して、全国民の社会的信用(平たく言えば「体制への忠誠度」)を格付けしているのである。

反体制的傾向は日常生活で思い通りに物事が進まないというストレスで報復されるのであるそんな悪魔的なシステムがほんとうに実在するのかどうか、実は半信半疑だった。でも、斎藤さんはあっさり「ありますよ。スコア低い人は海外には出られません」と頷いた。


 私が訊きたかったもう一つのことは、一人っ子政策の帰結である数千万人の天涯孤独の老人たちのために政府は社会福祉制度を整備する気があるのかということだった。

 斎藤さんが教えてくれたのは、中国メディアではこのところ「高齢者の安楽死」を肯定的に語る論者が増えてきたという話であった。なるほど「高齢者が集団自決すれば問題解決」というのはそれほど独創的なアイディアではなかったのである。

(※ 【天涯孤独の老人】とは誰を指しているでしょうか。上記 【高齢者が集団自決】のテーマとの関連)

●『君たちのための自由論』あとがき

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2023/02/16_1659.html

僕はもう定期的に教壇に立つということはなくなりましたけれども、いまでもいくつかの大学に理事や客員教授としてかかわっているので、大学で「今何が起きているのか」はある程度わかっています。そして、大学に関して言えば、楽観的になれる材料はほとんどありません。
その原因については本書の中でも繰り返し述べています。それは「教育研究を中枢的に統御し、管理しようとする欲望」がもたらしたものです。「諸悪の根源」というような激しい言葉を僕はあまり使いたくないのですけれども、「統御し、管理しようとする欲望」が今の学校教育の荒廃の主因であることは間違いありません。

(※ 「戦争こそ平和」「束縛こそ自由」。ダブルスピークを意識していただければ)

 それは「創造」と「管理」ということが原理的には相容れないものだからです。

 日本社会では「管理」したがる人の前にキャリアパスが開かれています。彼らは統治機構の上層に上り詰め、政策決定に関与することができます。でも、「創造」に熱中している人はシステム内での出世にはふつう興味がないので、創造的な人が政策決定に関与する回路はほぼ存在しません。

 というのは、「管理」が大好きな人たちは、あらゆる仕事に先立って「まず上下関係を確認する」ところから始めるからです。「ここでは誰がボスなのか」「誰が命令し、誰が従うのか」「誰には敬語を使い、誰にはため口でいいのか」「誰には罵倒や叱責を通じて屈辱感を与えることが許されるのか」ということをまず確認しようとする。彼らはまずそれを確認しないと仕事が始められないのです。

 ですから、日本の組織においては、上司が部下に対して最初にするのは「仕事を指示すること」ではなくて、「マウンティングすること」ことなんです。目下の人間にまず屈辱感を味合わせて、「この人には逆らえない」と思い知らせることがあらゆる業務に優先する。
 そんな集団が効率的に機能すると思いますか? 
 どうして、仕事がうまくゆかないのか。そう問われると、彼らは反射的に「管理が足りないからだ」と考える。「叱り方が足りないからだ」「屈辱感の与え方が足りないからだ」と考える。そして、さらに管理を強化し、組織を上意下達的なものにし、査定を厳格にし、成果を出せない者への処罰を過酷なものにする
 今の日本の「ダメな組織」はこの「督戦隊が多すぎて、戦う兵士が手薄になった軍隊」によく似ています。学校現場もそうです。
 
 そこから導かれる結論は当然ながら「さらに管理を強化して、現場の教員たちに決定権・裁量権をできるだけ持たせない」というものになります。そうやって次々制度をいじっては、教師を冷遇し、査定し、格付けし、学長や理事長に全権を集中させ、職員会議からも教授会からも権限を剥奪しました。こうすれば「現場の抵抗」はなくなり、教育政策は成功するはずでした。でも、やはり何の成果も上がらなかった。
 もう一度繰り返しますけれど、「管理」と「創造」は相性が悪いのです。
 創造というのは「ランダム」と「選択」が独特のブレンドでまじりあったプロセスです。平たく言えば「いきあたりばったり」でやっているように見えるのだけれど、実は「何かに導かれて動いている」プロセスのことです。

僕やサコ先生の関心は、どうやってもう一度「創造」を活性化するかということだと思います。それについて二人ともずいぶん真剣に考えてきたし、いろいろ「実験」もしてきました。
サコ先生も僕も「管理する側」から見たら、とても手に負えない人たちだと思いますでも、それは僕たちがただ反抗的であるとか、反権力的であるとかいうことではなく、「創造」ということにつよいこだわりを持っているからです。そのことをぜひこの本を通じてご理解頂きたいと思います。

(※ご参考に
〇拙稿『◆内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ◆』『●大学関係者への恫喝』より

翌日の内田先生のメッセージです
ほぼリアルタイムに近い形で記録させていただきたいと思います。 第三者のかたと意味の共有が確認取れました。

【Dr. Uchida and the gang stalker】 I would like to record this in near real time. We have confirmed that the meaning is shared with a third party.

They want to control education, probably because they believe that a corporation is the ideal of an organization, that it is the "global standard" for the CEO to have total control, to heavily favor those employees who follow the agenda and fire those who disobey, and they believe they can apply that to universities as well. I don't know how they can be so foolish."】

【ご参照に】
同日の6時間後 【理事会だん。ほぼ全部人事でしたので、発言機会なく「並び大名」でした。さ、ムサコに帰ります。結局お昼ご飯食べる暇はありませんでした。お腹空いた。】

※ならびだいみょう【並び大名】 歌舞伎(かぶき)の殿中の場などで、大名に扮(ふん)して、ただ並んでいるだけの役者。転じて、ただその場に居るというだけで、何の役にも立たないこと。そういう人。 ーgoo辞書より

【See also】
Six hours later on the same day 【Board meeting. Almost all of them were personnel, so I was a "Narabi-Daimyo" without a chance to speak. Now, I'm going back to Musako. We didn't have time to eat lunch after all. I'm hungry.】

※Narabi-Daimyo In kabuki, an actor who merely stands in a line dressed as a feudal lord. In other words, a person who is merely present but does nothing of any use. A person like that. From goo dictionary

●韓国の地方移住者たちに話したこと

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2023/03/03_1605.html

その逆風の中で地方の再生をめざす活動家たちは、直感に導かれて選択した地方移住という生き方にどのような歴史的必然性や道理があるのか、その根拠を求めて、遠く日本までやってきたのである。

 けれども、医療や教育は本来弱者のための制度ではないのか。疾病や障害のある人のために医療はあり、生活できるだけの知識や技術をまだ会得していない人のために教育はある。そして行政も弱者のための制度である
 権力者や富裕者は行政サービスを別に求めてはいない。彼らはむしろ彼らの旺盛な活動に干渉しない「夜警国家」を望ましいものだと思っている。彼らの自由な活動を妨害するものから彼らの権利と富を守る以上の業務を彼らは行政に期待しない。
 米国のリバタリアンたち、そのさらに過激化した「新反動主義者たち」は現に堂々とそう主張している。彼らに言わせると、福祉制度は富を富者から貧者に移転させることであり、財産権の侵害であるからただちに廃止されなければならない。極論だが、「強者はきめこまかい行政サービスなど必要としない」ということは彼らの言う通りである。
 行政は本来弱者のためのものであると言うと目を剥く人がいるかも知れない。

(※ 【リバタリアン】…前述『○○○リバタリアンという怪物』をご参照ください。「加速主義」とともに騒動のキーワードのひとつです。)

医療が癒しを求めている人の救難信号を聴き取るところから始まるように、教育が学びの機会を求めている人の救難信号を聴き取るところから始まるように、行政は共同体からの支援を求めている人の救難信号を聴き取るところから始まるはずである。
 
過疎地に居住している人々は、少数者であるがゆえに行政サービスを諦めねばならないというのは行政の趣旨として間違ってはいないか

(※ 【救難信号】…現在救難信号を出しているのは誰でしょうか。)


(※ ご批判の旨、ただいま情報の橋渡しをしていただきました(毎夜のお付き合い、恐れ入ります)。ご意見ご反応ありがとうございます。おそらくは「そうは読めない」というここだと思います。そこから来る「誇張」の印象かという印象もあるのではないでしょうか。従来の例では、補足のご説明、さらには騒動を古くから知る方のご協力を得て、ご説明をしてきたところだと思いますので、今回もそのように努めたいと思います。

お付き合いのほどよろしくお願い致します。)
(文章量が多いですね。おそらくサイトの特徴といっても過言ではないと思います。編集はもっとタイトに詰めていった方がいいかもしれません。私も皆様がご覧の通りに試しながら行っています。今日はお時間となりましたので終わりたいと思います。)


●アメリカに取り憑いた病(『ソフト/クワイエット』パンフレット)

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2023/03/07_1425.html 

なぜ、人種差別の廃絶がアメリカでは遅々として進まないのか?
人間はしばしば非道で残虐であるが、それにしても程度の差というものがある。店舗やレストランでマイノリティを差別的に扱うことと、マイノリティであるという理由で殺すことの間には決定的な差がある。相手の人格を攻撃することと、相手の身体を破壊することの間には、ふつうの人間にとっては越えることの非常に困難な心理的な壁があるはずである。そもそも法治国家であれば、それは重罪人として残る人生を獄中で送るという「割に合わない」代償を支払わなければならない。
 けれども、アメリカではその壁が低い。非常に低い。だから、もののはずみで人はこの壁を越えてしまう。
 本作は、差別意識がいささか過剰だけれども、ふつうに市民生活を送っている人が、もののはずみで殺人を犯す話である。その日常から異常へのあまりに容易な切り替えがこの映画が観客にもたらすショックと恐怖の根幹部分をかたちづくっている。

(※【ふつうの人】…「ふつうに」「常識的に」というのは私が一時期よく訴えていた主張で、私の主張や騒動を語るキーワードとしてよく用いられます。
【殺人】…この頃は、先生が「故人の死」をはじめ、私に対して「殺人者」のレッテル張りを扇動していた真っ最中です。)

 でも、怖いのは、別に誰からも差別されていないし、その人種属性によって社会的不利益をこうむってもいない「ふつうの人」の中に育つ差別意識とマイノリティへの憎悪である。彼らは何か具体的な被害をこうむっているわけではない。その差別意識と憎悪は幻想的なものである
 現実的根拠を持つ偏見なら現実的政策によって矯正可能である。だが、幻想に養われた偏見は現実をどれほどいじっても矯正できない。この映画の怖さはそこにある。
 なぜアメリカではそのような幻想的な差別意識が「ふつうの人」の心理の深層に根を張っているのか。それについて個人的な説明を試みたい。
 
アメリカは市民的自由を重く見る社会である。病的なほど重く見ると言ってよいと思う。だから平等がこれほど激しく忌避されるのである。というのは、自由と平等は原理的には両立しがたいからである。

 公権力が市民の生活に介入して、市民的自由の一部を制限することなしに、平等は達成され得ない。
 でも、それだけは絶対に許せないという人たちがアメリカにはたくさんいる。驚くほどたくさんいる。彼らは「社会的公正」とか「平等」を端的に悪であると見なす。そんなものは近代西欧が生み出した「イデオロギー」に過ぎない。生得的な差異や能力差によってヒエラルキーが形成されることのどこが悪いのかと言い切って、「政治的正しさ」を一蹴し、民主主義より個人の自由を優先する過激なリバタリアン(今では「新反動主義者」とか「加速主義者」と呼称されるらしい)が今アメリカには簇生している。

(※ 【リバタリアン】…前述『○○○リバタリアンという怪物』をご参照ください。「加速主義」とともに騒動のキーワードのひとつです。)
(※ どこまで端的に語っていいのでしょうか…
【バタリアン】=【加速主義者】=(ここでは)【アメリカ】=…そして誰のことを指しているでしょうか。)


 でも、こういう確信犯的な差別主義者がアメリカで大量発生するのは、ある意味で当然なのである。それはアメリカでは「自由は平等に優先する」ということが国是のうちに埋め込まれているからである。あまりそういうことを言う人がいないので、私が代わって説明する。
 そもそも合衆国憲法には「平等の実現」は政府の目標としては掲げられていない。

 平等の実現は政府の義務でも市民の義務でもないのである。万人は平等なものとして創造されているのだから、そのあとの自由な競争によってどれほど強弱貧富の差が生まれたとしても、それは自己責任なのである。

そして、観客サービスの行き届いたホラー映画でもある。「人間はモンスターより怖い」という(太古から知られた教訓を語る)恐怖譚である。
 映画は「死んだはずのもの」が湖水から浮かび上がるという『13日の金曜日』的な場面で終わる。「死んだはずのものの再訪」をフランス語ではrevenant(幽霊)と言う。「娘たち」のマイノリティへの憎しみは決して終わることなく、この後も繰り返しさまざまな症状として「再帰」してくるだろう。それがアメリカに取り憑いた幽霊なのだ。アメリカがこの幽霊と縁を切れる日が来るだろうか。たぶんいつかは来るのだろうけれど、まだずいぶん先のことだろうと私は思う。

(【人間はモンスターより怖い】【死んだはずのもの】【幽霊】…誰のことを語っているでしょうか)


●維新と加速主義

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2023/04/16_1101.html

(※ 【加速主義】…「加速主義」とともに騒動のキーワードのひとつです。)

 ある講演会で大阪の維新政治15年の総括を求められた。行政、医療、教育、どれをとっても大阪市府の現状は高い評点を得られるものではない。だが大阪での維新の人気は圧倒的である。なぜ政策が成功していない政党を有権者は支持し続けるのか。

 公務員は減らせるだけ減らす。行政コストは削るだけ削る。社会福祉制度のフリーライダーは一掃する。学校教育では上位者の命令に従うイエスマンを創り出す。これらはアメリカの「加速主義者」たちが主張し続けてきたことといくつかの点で重複する最新の政治的主張なのである。

(※【フリーライダー】…とは誰でしょうか)

 加速主義というのは2010年代アメリカに登場してきたホットな思想である。資本主義はすでに末期を迎えている。人類は「ポスト資本主義」の時代に備えなければならない。だが、「民主主義」や「人権」や「政治的正しさ」のような時代遅れのイデオロギーがブレーキになって資本主義の矛盾を隠蔽し、資本主義の終焉をむしろ遅らせている。そのブレーキを解除して、資本主義をその限界まで暴走させて、その死を早め、資本主義の「外」へ抜け出そうというのが加速主義である。
 映画を倍速で観る人たち多数派を占めつつある時代にふさわしい思想だと思う。結果の良否はどうでもいい。結果を今すぐこの目で見たいという欲望のあり方は私にも理解できる

(※【映画を倍速で観る人たち】…私の不正アクセス画面で倍ではないですが、映画の速度を上げて見ていたことから)
 

 加速主義的傾向が支配的な社会では「スピード感」がすべてを押し流し、浮き足立った気分を煽る人たちが世間の耳目を集める。そうして焦燥に駆られて採用された政策がいかなる結果をもたらしたかの事後的検証には人々はもう興味を示さない。未来を早く知りたいという焦燥感は私にも理解できる。だが、過去を振り返り、失敗から学習する習慣を失った人たちの前に明るい未来が開けるということがあり得るだろうか?



●豊かな社会とは

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2023/05/01_1431.html

(できれば全文引用したいところですが、かなりの長文になり、本稿の趣旨からするとためらわれます。そこで、全文はリンク先を本サイトをご覧いただきたいと思います。

最後に、騒動を初期からご存じで内田先生の記述にも通じている方にご判断を仰ごうかと考えています。何度もお声がけすることになってしまい本当に申し訳なく感じています。)

 これまでずいぶん長く生きてきたけれども、日本の国力がこれほど低下した時期は過去になかった。

 だが、まことに不思議なことだが、そういう穏やかな未来図を描く人は、政官財にはいない。メディアにもいないし、学術の世界でもまず見かけない。見かけるのは目を血走らせて「起死回生の大博打」をねらっている人たちばかりである。防衛費を倍増させて、「いつでも戦争ができる国」にしようと鼻息の荒い人たちがおり、五輪だ、万博だ、カジノだ、リニア新幹線だと「これに成功すれば、経済波及効果は何兆円」というような「取らぬ狸の皮算用」に夢中になっている人たちがおり、「生産性のないやつは生きている価値がない」と揚言する学者やコメンテイターがいる。

 そして、一方には、低賃金に喘ぎ、ブルシットジョブで疲れ切り、ハラスメントでメンタルを壊されて、暗い顔をして職場に通う労働者たちがいる。どうして「豊かなはずの国」で、人々はこんなに「貧乏くさい」のだろうか。それについて考えてみる。

(前タイトル【維新と加速主義】をご参照ください。

「貧乏」についての考えた…以下をご参照ください
拙稿『ABOUT IT』https://note.com/xr448/n/n92c59ebc6c36

・『内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ』内「貧困系」の項目 https://note.com/j_oot/n/nc09258af8bcb#6fae818d-599b-4946-a263-d6f74a45ce1e

 貧乏と「貧乏くさい」は違う。まずそのことを明らかにしておきたい。
 貧乏というのはクールでリアルな経済状態のことである。精神状態とは直接にはかかわりがない。だから、貧乏でも心豊かに暮らすことはできる。
 
 でも、そんな気楽な時代も不意に終わった。自分のパイの取り分が減り出すと、急に人々は貧乏くさくなり、他人の取り分についてあれこれ言い出した。「働きもないのに取り過ぎているやつがいる。社会的有用性に基づいて、資源は傾斜配分されるべきだ」と。そうやう理屈をこねながら日本人はどんどん貧乏くさくなっていった。公務員の既得権益を剥がせとか、生活保護のフリーライダーを許すなとか、生産性のない人間は去れとかいう言葉づかいは、私の記憶するかぎり、この時期にはじめて登場したものである。それまでは聞いたことがなかった。

 数年前に米国の雑誌が日本の大学の衰退について特集を組んだことがあった。その記事の中で、今の日本の大学をどう思うか、教員学生にインタビューをした時に、彼らが実情を叙した時に用いたのは、「罠にはまった」(trapped)、「息苦しい」(suffocating)、「身動きできない」(stuck)といういずれも身体的な苦しみを表わす形容詞だった。たぶんこれは今の日本社会を生きている多くの人たちに共通する実感なのだろうと思った。

(※ 私の「監視」「監禁」状況との相関)

  私はもうこの貧乏くささにうんざりしている。貧しくてもいい。「貧乏くさくない社会」に暮らしたい。
 それなら、どういう社会が「貧乏くさく」ないのか。とりあえず私が敗戦後の日本で見聞した「共和的な町内」はそうだった。他人の富裕を羨まない、弱者を見捨てない、私財を退蔵せずに分かち合う、公共財ができるだけ豊かになるように努力する。言ってみればそれだけのことである。現に大人たちがそのようにふるまい、それが「ふつう」なのだと子どもたちが思うなら、その社会は、たとえ物質的に貧しくても、「貧乏くさく」はない。私はできるならそのような社会に暮らしたい。

(※「ふつう」…私が一時期、今もときおり多用していた表現で、複数のかたからガスライティングに活用された記号です)

 この手作りの「コミュニズム」はかつてのソ連や中国の共産主義と本質的なところでまったく違うものだと思う。というのは、この新しい「コミュニスト」たちは富裕者や社会的強者に向かって「公共のために私財を供出しろ。公共のために私権の制限を受け入れろ」とは強制しないからである。公共をかたちづくるためにまず身を削るのは「おまえ」ではないし「やつら」でもない。それは「私」である。
 そう思い切ることからしか豊かな社会は生まれない。同意してくれる人はまだ少ないけれど、私はそう確信している。
(2023年5月10日『診療研究587号』)


(※「私」…日本語で「わたし」という主語の表記も私との関連をほのめかす記号として多くのかたが使用)


●憲法の主体とは誰のことか

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2023/05/10_0948.html

人間は自由で権利において平等なものとして生まれる」という人権宣言の言葉も、「すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって生命、自由、および幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられている」という独立宣言の言葉もどちらも空語である。現在のフランスにも米国にもそんな現実はないからだ。

「現実と乖離しているから憲法を書き換えろ」という人たちがいる。
「では、現実のありのままに叙した憲法を制定した後、彼らはどのような世界を築くために、どういう努力をする気なのか。ただ現状を肯定し、現状を追認してゆくことを「国是」に掲げた後、何をする気なのか。
(信濃毎日新聞 2023年5月6日)

(※ご参照
・『内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ』内、【監視、孤立化の指令】
https://note.com/j_oot/n/nc09258af8bcb

・『ABOUT IT』内【■ここ最近について】
https://note.com/xr448/n/n92c59ebc6c36

●『怪物』公式パンフレット解説

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2023/06/02_1300.html

怪物を制御する主体
 人は誰でも自分の中に一匹の「怪物」を飼っている。
 私がそのことを知ったのは半世紀ほど前の学生運動の渦中においてである。当時、キャンパスはしばしば「無警察状態」になった。どのような非道なふるまいをしても刑事罰を受けるリスクがないという状態になると、暴力性を自制できない人がいる。それも少なからずいることを私はそれまで知らなかった。

(※ 【怪物】…ここでは誰を指しているでしょうか…)

 ふだんは「ふつうの人」のような顔をしている学生の形相がいきなり変わって、すさまじい暴力をふるった。しばらくしてキャンパスですれ違った時にはまた別人のように「ふつうの顔」をしてすたすた歩いていた。

 あの頃、たくさんの学生が同じ学生によって殺されたり、重い傷を負わされたりした。多くの場合、犯人は捕まらなかった。だから、若い頃に人を殺したり、生涯残るほどの傷を負わせた人たちの多くは、その後就活して、勤め人になり、今ごろはもう年金生活者になっていると思う。でも、家族も友人も誰もそのことを知らない。

 先の戦争の時も同じようなことがあったのだろうと思う。ふだんは穏やかなおじさんや内気な青年であった人たちが、何をしても処罰されないという状況に投じられた時に「別人のような形相」に変わって、略奪し、放火し、強姦し、殺害したということを私は信じる。彼らは復員した後、まだもとの穏やかなおじさんや内気な青年に戻ったのだろう。

(※ 【何をしても処罰されない】…頻出されるメッセージです。
・セクシャルハラスメントについて【権力は「他人がしてたら処罰されることをしても自分は処罰されない」ことで確かめられる】
【処罰のおそれも報復のおそれもないと知るといくらでも卑劣にも暴力的にもなれる人間がこの世には一定数存在していることを僕は経験的に知っています】)

つまり、自分の性格の延長上に、例えば、暴力的であるとか、嫉妬深いとか、嘘つきであるとか、「よくある悪徳」が過激化したかたちがおのれの「怪物」であったら、たぶん私たちはその暴走を止めようとするだろうと思う。その「怪物」は紛れもなく「私自身」に起源を持つものであり、そうである以上、自分に「製造者責任」があるからだ

 子どもは「ふつうの自分」がどんな人間であるかについて、いまだ確たる自己像を形成していない。わずかに場面が変わり、人物配置が変わっただけで、子どもはまるで別人のようになる。その可塑性こそ「子どもらしさ」の本質なのだが、そのせいで子どもたちは「怪物」を解き放った時にも自分がその起源なのだという自覚を持つことができない。それは「見ず知らずの誰か」なのだ。だから、子どもが解き放つ「怪物」は怖い


(昨日の作業において、初めと最後にお断りしましたように、騒動を最初期から見てきて、そして内田先生のメッセージも熟知している方に、昨日の文章に関してご確認していただきました。「OK」とのことでした。労を割いていただてのご協力に深く感謝申し上げます。引き続き、同様の形式と観察眼で作業を進めてまいりたいと思います。)

(As I mentioned at the beginning and end of yesterday's work, I asked a person who has been following the turmoil from the beginning and is familiar with Dr. Uchida's message to check yesterday's text. He said, "OK. We are deeply grateful to him for his cooperation. We will continue to work with the same format and observation )
(本日も、作業の終了時に、ジャッジを仰いで終わりたいと思います。何度も本当に失礼になってしまっています。申し訳ないです。)


●テロリズムについて

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2023/06/23_1917.html

(※「集団ストーキング(ギャングストーキング)」は欧米ではテロ指定された行為です。『テロリズムについて』は、日本で起こった首相襲撃事件について書かれれています)

(※『内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ』より【ギャングストーキングについて】の項目
内田先生のメッセージです。
>「日本で革命ができるのは極道だけじゃい」というセリフが出てきてもおかしくない)

 一連の襲撃事件は「民主主義の破壊行為」「民主主義を揺るがす暴挙」などと批判されています。しかし、これらは自民党政権を批判する際に使われる言葉でもあります。
内田 その批判は原因と結果を取り違えていると思います。テロが起きると民主主義が壊れるのではなく、民主主義が壊れるとテロが起きるのです。
 
 少数派の意見が、民主的手続きを経て、部分的にではあれ実現するプロセスがきちんと機能していれば、政府に対する暴力行動が頻発するというようなことは起きません。少数派の意見であっても、採り上げられ、吟味され、実現されつプロセスが整備されている限り、反対派の人々も民主主義の統治機構を壊そうとはしません。あくまで投票行動や合法的な市民活動や労働運動や学生運動を通じて政治に関与するにとどまる。

 この10年間、自公連立政権が自分たちの支持層の利害だけを代表し、それ以外の国民の要望についてはほとんど「ゼロ回答」で臨むようになった。ふつうは政府が強権的・圧政的になると、民心は離反するものですが、日本ではそうならなかった。政府が独裁的になるほど、国民は萎縮し、少数派は腰砕けになった。この「成功体験」が政府を増長させたのだと思います。

(※【独裁】…本稿でも頻出のワードです。)

―なぜ日本では民主主義が機能しなくなったのですか。
内田 日本の為政者たちがこの「成功体験」に居着いて民主主義の基本原則を忘れたからです。民主主義の原則とは、オルテガが道破した通り、「敵と共に生き、反対者と共に統治する」ことです。為政者はおのれの反対者や政敵を含めた全国民の代表として、「公人」としてふるまうように要請される。

 それよりはトップに全権を委ね、そのアジェンダに賛成する者だけで政府を形成して、反対者は全部排除する。そうやってトップの決定が遅滞なく末端まで示達される仕組みの方が「効率がいい」ということを言い出す人が出てきた。「民間ではそうだ」と言うのです。

  しかし、少数派を無視する政治を続け、少数派の国民たちが「自分たちの政治的意見が実現する回路がどこにもない」という無力感に取り憑かれると、民主政はもう持ちません。
「少数派の意見に耳を傾けなければならない」というのはきれいごとではなく、民主主義国家を維持するための政治的リアリズムです。

(※【少数派】…【弱者たたき】は本稿でもたびたび現れるキーワードです)

― しかし、今の日本ではそういう恐怖心や緊張関係が失われています。
内田 政府と国民の間の対立関係は深まっていますが、政府の側には国民を恐れる気持ちがない。それより政権を支持する人たちの主張をどんどん汲み取ることで、コアな支持層を固めている
― 戦前の歴史が繰り返されないならば、日本の未来はどうなると思いますか。
内田 現在、日本の民主制は崩壊過程にあります。このまま政府とその「取り巻き」たちが公権力を私的目的に用い、公共財を私財化するネポティズム政治が続くうちに、日本は後進国に転落するでしょう。

(※【ネポティズム】について
騒動で頻出されるメッセージのひとつです。
ご参照に
・『内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ◆【●ネポティズム】
もちろん、そんな国は国力が衰微して、遠からず先進国グループから脱落して、「独裁・ネポティズム」国家になるわけですけれど、既得権享受者たちは「それでもいい」と思っている。これまで蓄積してきた国富は自分たちの懐にねじこんでもおつりがくるくらいあるから。】)

(恐れ入りますが、本日の仕事分、騒動を出発点からご存じのかた、もし疑義がございましたら、お声をいただけると非常に助かります。いつもお手を煩わせることになって申し訳ないのですが、ご協力のほど何卒よろしくお願い致します。)

(昨日分、古くから騒動を知るかたからご確認をいただくことができました。)

(※寝ておりました。原稿を触れ始めると、ガンガン睡魔に襲われます。)

(これを更新するのは、暴力や睡魔との戦いなんですよ…今もリアルタイムで受けていますが)

●関東大震災から100年 朝鮮人虐殺について考える

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2023/08/21_0704.html

(※本稿『福田村事件』でもご紹介していますが、内田先生がアラートの意味について、しばしばご返答として提示していただいた事件になります。)

― 今年は朝鮮人虐殺100年の節目の年です。内田さんはこの歴史をどう受け止めていますか。

内田 朝鮮人虐殺は「わが国の歴史の暗部」です。関東大震災の地震や火災で多くの人々が亡くなり、生き残った人々もパニック状態にあった。そういう状況で「朝鮮人が井戸に毒を入れている」「放火している」などという流言飛語が飛び交った。そして、自警団を組織した人々が朝鮮人や中国人や日本人を寄ってたかって刀や竹やりで殺した。混乱の中での出来事ですので、犠牲者の正確な数は分かりませんが、おそらく千人から数千人に及ぶと言われています。

日本に出稼ぎに来た朝鮮人たちにも日本人は非人道的で差別的な扱いをしてきた。ですから、日本人は「朝鮮人は日本人を恨んでおり、機会があれば復讐するに違いない」という不安を抱いていた。自分たちがこれまで朝鮮人たちに向けてきた憎々し気な顔を鏡に映して、それを他人の顔だと思い込んで恐れをなしたのです。これまで穏やかな共生のうちに暮らしていたら、「朝鮮人が襲ってくる」というような妄想が生まれるはずがありません。

 排外主義における憎しみの対象は具体的な「個人」ではなく、抽象概念としての「集団」です。
関東大震災でも、固有名を持った朝鮮人たちとの人間的かかわりがあった人たちはしばしば彼らを守る側に回りました。虐殺に加担したのは、「朝鮮人」というものを集団としてしか扱うことを知らない人たちです。
 排外主義的暴力が発動する条件は二つあります。一つはどれほど暴力をふるっても相手から反撃される可能性がないこと。もう一つは攻撃される対象が有徴的であること。

 (※ご参照に
●次は現在、記録を録っていますお三方のコメントです。「痰壺」(不特定多数の人間が痰を吐くための壺)、「いくら殴っても殴り返してこない最高の悪役」、先生のコメントは「なんでも入るゴミ箱」となります。

●本稿『月刊日本インタビュー「ウクライナとパレスチナ」』より【ネタニヤフ首相はハマスを「新しいナチス」と呼び、演説では「私たちは光の民であり、彼らは闇の民だ」という善悪二元論的な理解を示しました。イスラエルの国防大臣は「私たちは人間のかたちをした獣(human animals)と戦っている」とまで言い切りました。イスラエルによれば、今回のハマスとの戦闘は、二つの国家がそれぞれの国益を守るために行う「ふつうの戦争」ではなく、人間が悪魔と闘っている「神話的な戦争」だということになります。それではイスラエルのガザ攻撃に歯止めが利かなくなって当然です。相手は人間じゃないんですから。】 

― 昨今の日本では嫌韓感情や排外主義が高まり、韓国人をはじめとする外国人差別が表面化しています。
内田 朝鮮人虐殺について、たしかに現代人に直接の刑事責任はありません。しかし、私たちにはかつて日本人が犯した罪については、それを償う倫理的な責任がある。責任を引き受けるとは、ひとりひとりの死者たちが、どういう歴史的文脈の中で、どのように死んでいったのか、それをできるだけ具体的に詳細にわたって語り継ぐということです
 
 近年の日本社会では「歴史の暗部」を直視するどころか、自国の歴史には恥ずべき過去などなにもないと言い募る歴史修正主義がはびこっています。毎年9月1日に都内で行われる関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式に、歴代都知事は追悼文を送付していましたが、現職の小池百合子知事は2017年から送付を取りやめています。知事はその理由を「何が明白な歴史的事実か確定していないから」としています。体験者が証言する「さまざまな内容」は信用に値しないから「明白な事実」が確定するまでは何もしない、と。

 でも、「正論」や「一般論」なんて、極端な話、どうだっていいんです。どうせ、誰かが同じことを言うんですから。言う価値があるのは、自分が身体を張ってでもここで言わなければ「他の誰も自分に代わって言ってくれない言葉」です。一般論や大義名分は言葉としては「軽い」んです。だって、自分が身体を張って言わなくても「誰かが」自分に代わって言ってくれるはずだから。自分が身銭を切ってまで言い続ける必要なんかない。簡単に捨てられる言葉だからこそ、言葉が軽くなる。

(※ご参考に
・拙稿『疑問』より
以前、私の周知に対して、先生からご確認をいただきました。その2日後から「嘘」「フェイク」といったワードが
先生のアカウントに埋め込まれるということがありました。
私は解決を試みようと“どこがウソに相当しますか”と先生にお尋ねします。

先生のメッセージです【ホロコースト虚偽説を描いたDenial という映画があります。歴史修正主義はどんな妄説も、その正否にかかわる論争に持ち込みさえすれば、それなりの学問的根拠があるように見えることを利用する、という実話の映画化。歴史修正主義は「両論併記に持ち込んだら勝ち」なんです。】)

・拙稿『◆内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ◆』より
【AERAの原稿はこのところtweetしている「自国の歴史をドラマ化することのたいせつさ」について書きました。でも、今の日本に「世界に配信できる」だけの質の歴史ドラマを作る力があるでしょうか。僕は懐疑的です。「世界に向けて発信する」というのは「分かりやすい話をする」こととは違います。】
(続きです。)【むしろ登場人物たちの葛藤と混乱と深い喪失感を活写することで「地下水脈」にたどりつけるんじゃないかという気がします日本近代史に登場する「物語
るに足るほどの人々」はどれも器が大き過ぎて類型化しがたい人たちです。
それを娯楽作品に仕上げる力を持つクリエーターが登場してくれるでしょうか。】

― そもそも歴史を語り継ぐとは、どういうことですか。
内田 それは個人の仕事です。よく「歴史の風雪に耐えたものだけが生き残り、歴史の淘汰圧に耐えられなかったものは消えていく」と言われます。でも、そこまで歴史の審判力を信じてよいと僕は思いません。現実には、善人が受難し、悪人が栄耀栄華を極め、賢者が不遇に甘んじ、愚者が脚光を浴びるというようなことは日常茶飯事です。歴史の審判力は軽々には信じることができない。でも、いまの日本人は「現実化したものは現実化するだけの価値があった。消えたものは現実化するだけの価値がなかった」という虚無的な歴史主義を信奉しています。
― 内田さんが自ら語り継ぎたい歴史はありますか。
内田 
 そう思っていたところ、『月刊日本』から権藤成卿の著作を復刊するから解説を書いてほしいというご依頼を受けましたので、いまこつこつ書いているところです

長き脊の直立せる姿勢にて、寧ろ痩せたる神経質らしき顔面に炯たる眼光を閃かし急調絶語、声涙並び下るの處、予輩をして肝胆震動せしむ。彼の当時の音容は予が一生涯目にすがるものなり。予輩乃ち生死の友たるを盟ふて聊か後図を約せり」(高橋信雄『鈴木天眼 反戦反骨の大アジア主義』)


(※ご参考に

〇「超能力」アラートにおける回答としてこの『福田村事件』(朝鮮人虐殺)が提示されたとき、先生にご質問をしました。
”映画ですので様々な見方があると思うのですが、
「人間は時に愚かなことをすることがあり、そういった負の歴史を映像として残すことで二度と悲劇を繰り返さないためのリマインダー」を大きなメッセージとして製作されたと見ることができると思います。先生のテキストにもその旨を窺うことができるのですが、なのになぜ悲劇を繰り返そうとするのですか”

内田先生からご返答をいただきます。
(お答えとして、優生思想を扱った時事問題に付して、二つの記事をご指定になられます)

●【一つ目。http://blog.tatsuru.com/】
(※ 掲載が昨日の日付になっている記事です)

フリーライダーの効用』2024-03-11 lundi
【でも、使えないやつは有害無益だから、集団から追い出すべきだという論には同意しない。】
組織に寄生して、何も価値を生み出さず、むしろ新しい活動の妨害をする「フリーライダー」はどのような集団にも一定数含まれる。この「無駄飯食い」の比率を下げることはたしかに集団のパフォーマンスを向上させることにある程度までは役立つだろう。ただし、「ある程度」までである。というのは「無駄飯食いの排除」作業に割く手間暇がある限度を超えると、その作業自体が集団のパフォーマンスを著しく低下させるからである。】  
(本稿においては、『生産性の高い社会のゆくすえ』の内容にも相当します。)

●2本目【もう一つ、もうちょっと長いもの。これは『街場の成熟論』に採録されました。http://blog.tatsuru.com/】

本稿採録の『パワークラシーの国で』をご指定いただきました。以下抜粋。

社会的禁忌を嬉々として破ることで熱狂的な視聴者を獲得してきた日本の扇動者の一人
【わが国が「パワークラシー」の国だと考えると、当今の権力者たちの異常な言動が理解できるはずである。】
【彼らは自分たちが「法の下の平等」から除外されていること、「非常識」という評言が自分たちには適用されないこと、他人に無用の屈辱感を与える権利があることを繰り返しアピールすることになる。】

●ご参照に 
本稿『リバリアントという政治的奇形物について』より
際立つのが片山さつき議員で、生活保護受給者は「実質年収4百万円」の生活をしているという無根拠な都市伝説の流布に加担して、生活保護叩き発言を繰り返してきたが、最近も捏造投稿に基づいてNHKのニュース内容にクレームをつけて、生活保護受給者が社会福祉の「フリーライダー」だという世論の喚起に励んでいる。もちろん、本人がそう「信じている」という信憑の問題もあるのだろうが、「そういうこと」を公言すると選挙で票が集まるという現実的な打算も同時に働いているはずである。





●朴先生からのご質問シリーズ「言語の生成について」

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2024/01/24_1239.html

(※こちらは本稿の「新しいナチズム」というテーマとは直接に強い関係はないのですが、本稿の資料の読み解きに必要かと判断しました。ひょっとしたら後に別のテキストに移動させるか、場合によっては削除も考えていますが、試用として掲載したいと思いますので、皆様もご一考ください。)

(※Q)
「エスノメソドロジー( ethnomethodology 」という社会学の学知があります。この「エスノメソドロジー」はアメリカの社会学者であるハロルド・ガーフィンケル(Harold Garfinkel:1917~2011)という人が創り上げたものです。
『カラートラブル』は一九四〇年代のアメリカ南部のジムクロウ(黒人差別) を描いた作品である。[…]若い黒人のカップルが白人席のすぐ後ろの空いた席に移動したのを、 運転手がみとがめる。 運転手は、黒人は後ろから順に詰めて座らなければならないというバージニア州の人種隔離法をたてに、ふたりに後ろの席に移るように言う。[…](警官に)憲法が平等な権利を保証していることなどを挙げて反論する

(※普段【憲法が平等な権利を保障していることなどをあえて反論】しているのは誰でしょうか…)

 警官は結局ふたりを逮捕することをあきらめる。 運転手はふたりに一列だけ後ろに下がることで妥協しようともちかける。座席を直すことを条件にアリスもそれを受けいれる。運転手が座席を直し、これで一件落着と思われたそのとき、アリスは運 転手にさらに謝罪を要求する。 運転手は怒り、ふたたび警官を呼ぶ。今度は警官は即座にふたりを逮捕する。アリスは気を失って倒れ、バスからひきずりおろされる。ふたりを乗せたパトロールワゴンが走り去り、バスも乗客を乗せ、 なにごともなかったかのようにふたたび走り出す。
 僕がこの『カラートラブル』において注目すべき点だと思っているのは、 この物語が、休暇からチャペル・ヒル(ダーラム近郊のノースカロライナ大学の所在地)に戻る途中の、社会学の学生である「わたし」によって語られていることです。 バスのなかで遭遇した事件をいわゆる「知覚の衝突」として物語っているのは、この「わたし」 である。だが、この「わたし」は社会学者である自分自身を懐疑的な目でながめています。
そして、社会学者としての自分自身に違和感をもち、距離を置いている、この社会学者こそガーフィンケル自身でありました。

(※「わたし」…日本語では英語で「I 」にあたる位置1人称の代名詞が複数あり、「わたし」というのは私が使用し、頻繁にほのめかしとして使用されています。)

 ガーフィンケルが社会学者としての自分に距離を置いているのは、自分が目撃した事件を当時の社会学のできあいの言葉でうまく表現できなかったからです。 社会学の学生であるガーフィンケルの頭に最初に浮かんだ言葉は「階級」であった。だが、ガーフインケルがこの事件のなかに見たのは 実は「利害の衝突」ではなく、「知覚の衝突」でありました。 ガーフィンケルは、のちに彼が「世界の複数性」と呼ぶことになる問題を表現することのできる社会学の言葉をこの時点ではまだもっていかったわけです。
 この事件が短編小説という形で発表されたののはこのためだと考えられます。カラートラブル』は「世界の複数性」という問題を文学的な形式で表現したものです。

(※内田先生の文章ではありませんので、スルーしようか迷いました。私は皆様のご反応が見えません。盗作、二次創作、参照について、私もカウンターとして挙げられていると情報いただいていますが、いま、ストーカーの報道内では盗作、二次創作というのは、どれほどの価値になっているのでしょうか…。お声が挙がったようですので「ひとまず」とお断りをさせていただいたうえで掲載いたします。盗作こそが本テキストのテーマと深くかかわっていますので、そういう意味では重要ともとれます。引用に関する記述は見つかりませんでした。太字が重複部分です。

ガーフィンケルが社会学者としての自分に距離を置いているのは、自分が目撃した事件を社会学の言葉でうまく表現できないためである。社会学の学生であるガーフィンケルの頭に浮かんだ言葉は「階級」であった。だが、ガーフィンケルがこの事件の中に見たのは「利害の衝突」ではなく、「知覚の衝突」であった。ガーフィンケルは、のちに彼が「世界の複数性」と呼ぶことになる問題を表現することのできる社会学の言葉をこの時点ではまだ持っていなかった。この事件が短編小説という形で発表されたのはこのためだと考えられる。「カラートラブル」は「世界の複数性」という問題を文学的な形式で表現したものなのである。】

【浜日出夫『エスノメソドロジーの原風景─ガーフィンケルの短編小説「カラートラブル」』より】)

(※【複数性】…独自の個性をもつ個々人が、その独自性にもかかわらず人間として対等に複数で存在しているということを表す多数性である。 …ブログよりお借りしました)

 内田先生がいままで創り上げた「言葉」などを拝見すると、たとえば『ひとりで生きられないのも芸のうち』や『邪悪なものの鎮め方』や「民主主義がちゃんと機能するかどうかを決めるのは、制度設計の出来不出来よりも国民の成熟度です。国民の中の『まっとうな大人』の頭数があるラインを下回ると、民主主義は簡単に機能不全に陥ります。現代日本がそうです」などのような「内田先生が語らなければ、他に内田先生と同じことを語る人がいないこと」だけを選択的に語ってこられたと思います。

(※ 本稿のテーマが「内田樹先生と『新しいナチズム』」であり、普段私は民主主義を主張の立脚点にしています。そして同テーマの内田先生の主張が記載されています)

 これから第一番目の質問です。内田先生ご自身の身体実感に基づいて創り上げられた言葉がどうやって形になるのか、そのプロセスといいましょうか、メカニズムをぜひ教えて頂ければと思います。
 第二番目の質問は、内田先生が学者としていままで創り上げられた「学知」などがありましたら教えて頂ければ幸いです。

(※ 抜粋していますが、ほのめかしレベルにおける文章の趣旨も伝わると思うのですがいかがでしょうか…)

(※A:内田先生)
 第一の質問にお答えします。僕は物を書く時に一番たいせつにしていることは「正直」です。頭の中に浮かんだアイディアをできるだけ加工しないで、単純化したり、定型化したりしないで、「そのまま」出力する。
 
「既知の定型」という「罠」はそこらじゅうに張り巡らされています。もちろん「既知の定型」と言っても、もとはと言えば僕が自分で考えだしたものですから、「借り物」ではありません。「オリジナル」な知見なんです。でも、「既製品」なんです。

(※ご参照に『剽窃について ー再掲バージョンー 』より
https://note.com/xr448/n/n1e55d7316f45
英訳バージョン『Plagiarism -Reposted version 』
https://note.com/j_oot/n/n043ecb96f01f

〇内田先生のメッセージです“
「コピーライトという考え方はよくない」ということをしばしば発作的に申し上げているが、それはロラン・バルトやジャック・ラカン以来の、「私が語っているとき、私の中で語っているのは〈他者〉である」という「現代思想の常識」テーゼを反復しているにすぎない。”

〇内田先生のメッセージです
“私はどんな論件に関しても、自分の知見に独自性があると考えていない(今回の本も、ほとんど先人からの受け売りである)。なので、真似するなとか著作権が蜂の頭とかややこしいことは言わない(というより言えない)。”)

 そんなふうにして、「まっさらの、手つかずの、生まれたばかりのアイディア」をそっと走らせること、できるだけ長い距離を走らせることが、書く人間にとっての最優先課題となります。
 さて、どうやってそれを遂行するか。
 そのために一番たいせつなのは「正直」ということだと僕は思っています。
 僕が「正直」というのは、他人に嘘をつかないことではなくて、自分に嘘をつかないことです


 ということは、「僕が書きたいこと」とか、さきほどから「アイディア」とか言っていることって、それをどういう文体で叙するかという「スタイル」も込みだということになります。あるリズムやある音韻でないと、自分の言葉のような気がしない。だから、全部書き直した。
 なるほど、これが「正直」ということなのか。そう思いました。

 だから、「正直」っていうのは、外的な規範じゃないんです。自分で自分に対して課すものなんです。自分が正直かどうかを判定できるのは自分しかいない。
 そして、正直であることを止めたら、もう「ものを書く人間」を名乗る資格はないと思います。
 だから、彼は内容さえきちんと合っていれば、「リズム」だとか「音韻」なんて副次的な、装飾的なことにすぎないと思っていたのでしょう。
 でも、僕にとっては、そこに文章の「命」がある。「アイディア」というのは単なる概念単体じゃなくて、それを表わすために動員される無数の言語資源込みでしか成立しないんです。
 
 そういうタイプの「正直」さがどうして書く上で死活的にたいせつなことなのか、やはりまだうまく説明できません。とにかく僕にわかるのは、正直であることを止めたら、僕はたぶん何も書けなくなるだろうということです。

(※ ご参照に 『◆剽窃について 2◆』より
https://note.com/j_oot/n/n93922e552a4e
【これはより厳密な参考文献の掲載を求められる大学教授(当時)が、商業的な著作物において、海外の資料を翻訳、紹介して、その参考文献を掲載しなかったというのが、「盗作」「二次創作」の文脈になります。(ちなみに、ご著書には多くの参考文献が掲載されているのですが、対象となっている元ネタの批評は載っていませんでした。)

【いや,引用は「無断」でかまわないんですよ。問題なのは出典を挙げずに自分の文章であるかのように書いていることであって,それは引用ではなくて盗用,剽窃というのだ。】

これは当時、私に向けられていたメッセージの1つです。私は学生の頃に、元ネタとなっている批評を読んでいましたので、どう反応すればいいか、ご反応に困惑しました。でも盗作のメッセージが送られる、これが長い間続きました。】
(誤字修正))


●『福田村事件』

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2024/01/25_1846.html

(※「福田村事件」…集団ストーキングにおいて先生が多用するキーワードです。

〇【『福田村事件』】…別名「朝鮮人虐殺」。
>1923年(大正12年)の日本で発生した関東地震・関東大震災の混乱の中で「朝鮮人や共産主義者が井戸に毒を入れた」や「朝鮮人が放火した」などのデマが流れ、それを信じた官憲や自警団などが多数の朝鮮人や共産主義者を虐殺した事件である。
ウィキペディアより】

〇これまで私のとのやり取りにおいて、先生は、二度ほどこのメッセージを出されました。
それは、先生からアラートのメッセージ”超能力で私から攻撃を受けている”を出された後です。私が「自分と先生の出された記号との関係」をご本人にご確認した際に、以下のテキストをご返答としてご提示いただきました。
先生【Business Insierというお媒体に『福田村事件』について寄稿しました。どぞ。】
(『福田村事件』という映画に寄せて))

 この映画は朝鮮人差別、部落差別という日本歴史の暗部を前景化する。同じ題材を扱ったドキュメンタリーや劇映画はこれまでいくつもあったけれども、商業映画として製作され、かつ商業的に成功したという例を私は知らない。
「こういう映画」とはどういう映画か。それは単に自国の歴史の暗部を明るみに引き出す映画ということではない。いくら政治的に正しい意図で制作されても、それが単なる単純な善悪二元論で描かれるなら、商業的成功は望めない。エンターテインメントとして成功するためには、出てくるすべての人物が単なる「記号」ではなく、一人一人に奥行きと厚みがなければならない。この世には単純な善人もいないし、単純な悪人もいない。すべての登場人物が卑しいところこ弱いところも抱えており、その一方では勇気や善意も持つ、複雑な存在である。

(※本稿におけるコメントです。
・【ネタニヤフ首相はハマスを「新しいナチス」と呼び、演説では「私たちは光の民であり、彼らは闇の民だ」という善悪二元論的な理解を示しました。】
・【『福田村事件』はそういう映画でした。私たちは死者たちについて物語ることを通じて「供養する」。それは死者たちに「善人」「悪人」というラベルを貼って、それで済ませるのではなく、一言では片づけられない人間の「深み」を物語るということです。

  あるいは公開に際して、政治家からの介入があったり、上映妨害運動があるかと思ったけれども、それもなかった。この映画が描く事実そのものを否定する歴史修正主義者が大手を振っている今の日本社会で、この映画が無事に上映され、商業的成功を収め、映画として高い評価を受けているという事実は大きい。それは、これからもこうした作品を作ることが可能になったと続く人々を勇気づけることだからだ。

(※ 【歴史修正主義】…私は「私の個人情報」に対して、日々デマであることをご指摘していますが、騒動でつかれたウソに対して、しばしば「歴史修正主義」という批判が登場します。

先生自身のメッセージです【ホロコースト虚偽説を描いたDenial という映画があります。歴史修正主義はどんな妄説も、その正否にかかわる論争に持ち込みさえすれば、それなりの学問的根拠があるように見えることを利用する、という実話の映画化。歴史修正主義は「両論併記に持ち込んだら勝ち」なんです。】)

 定住民が遊行する人を差別し、迫害し、排除するということは、これまでも繰り返し行われてきた。それは定住民から見て、遊行の人々が「異物」だからである。「異物」は嫌悪の対象であると同時に激しく欲望をかきたてる対象でもある。行商する人々はその「異物」性をある種の商品として売ってもいる。そういう意味では危険な仕事である。

(※【異物】とはだれでしょうか…)

 福田村の物語は、定住民の遊行の民に対する違和感がある限度を超えて、殺意に変わる一瞬を劇的クライマックスとする。その時、半定住・半遊行の四人が、「間に入って」惨劇を阻止しようとする。
 この四人がそうするのは、とりわけ正義感が強いとか、常識的であるということではない。村人が行商人に向ける殺意は潜在的に自分たちにも向かっていると感じたからである。これを看過すれば、いずれこの暴力は自分たちにも向かうかも知れない。そう感じたからである。自分たちは今のところは「浮いている」だけだけれど、いつ、どういう理由で村人から「異物」認定されて、排除されるかわからないということに気づいているからである。

(※ ターゲットについて、先生がよく語られる分析です。

【「一罰百戒」が効果的なのは「次に誰が標的になるか予測できない」からです。だから「誰でもいい」のです。でも、一つ条件がある。それは「組織が『切りやすい』人」であるということです。】)

 この四人の中でも東出昌大演じる船頭がきわだって「中間性」が高い。彼は一応村に居を構えているものの、村外れに住んでおり、村人と交わりから微妙に遠ざけられている。それは彼が川の上を仕事場とする「海民」だからである。
 海民、山人、商人、遊女、ばくち打ち、修験、勧進聖、大工、鍛冶といった職業の人たちは網野善彦によれば「無縁の人」である。この世の秩序に「まつろわぬ」人たちである。
 だから、川を住まいとする船頭と街道を住まいとする行商人は「無縁」という点では同類なのである。

 船頭が独特の性的魅力を放つという設定も、彼が「海民」であるという設定を知れば理解に難くない。それは彼の個人的魅力というより、船頭という職能がもたらす「ここ」と「こことは違う場所」を架橋する「ただものではない」たたずまいから発するものだ。それゆえ、女たちは「ここではない場所」を望むときに、こういうタイプの「無縁の男」に激しく惹きつけられる。

 朝鮮帰りの澤田夫妻は、インテリであり「ここではない外の世界」を知っている。だから、服装も言葉づかいも村から「浮いて」いる。静子が情事の相手に選ぶのが船頭であるのは、彼もまた「ここ」に本当には根付くことができない「無縁の人」だからである。

「無縁の人」「浮いている人」の側に美男美女が多く、定住民の側が造形的には醜く描かれていたのは、現実にそうであるということではない。定住民には性的魅力がなく、遊行の民は誘惑的に「見える」という幻想を投影しているのである。そして、それがまた定住民たちの遊行の民への憎悪をかき立てもする。

 この映画を観て、若い人は「自分はこんな状況になっても虐殺には加担しない」と思うかもしれないが、それはわからない。誰でも虐殺の加害者になり得る。60~70年代の学園紛争を経験した世代として証言するけれども、ふだんおとなしそうな学生がいきなり節度のない暴力をふるうということは「よくあった」。  実際に、外から見ると区別もつかないようなわずかな政治綱領の違いから違う党派の学生同士が殺し合いを演じた。鉄パイプで人の頭を殴って、頭蓋骨を割るというようなことを、さしたる心理的抵抗なしにできる人がいるということを私はその時に知った。
 ある人が、「何をしても罰されない」という環境に置かれたときに、どこまで非人間的になれるか、それは平時にはなかなかわからない。だから、できるだけ「何をしても罰されない」状況を作り出さないように私は今も個人的に努力している。

(※『怪物』公式パンフレット解説をご参照ください)
(※【何をしても罰されない】…最初期から騒動頻出のメッセージです。 内田先生へのご批判のリポスト‟悲しいですが、本邦は古から「いじめればいじめるほど、成員は言われるがままになる」という手段が効果的なんでしょう。

内田先生【政治家がどれほど理不尽なことをしても「この人は理不尽なことをしても罰されないほど権力があるからそうしているに違いない」と国民は推論してくれる。だから「威張れる立場になるためには威張ってみせるのが一番効果的」という経験則が通用してしまう。】)

 私たちが内蔵している潜在的な暴力性を抑制するために必要なのは「感情教育」だと私は思っている。感情が深く、豊かで、複雑になれば、怒りや憎しみや屈辱感のような「負の感情」に流されて、感情を制御できなくなるということは起こらない。起こらないとまでは言えないけれども、少なくとも起こりにくくはなる。
 感情を豊かにするために私たちは「想像的に他人の身になってみる」ということをする。物語がそのための装置である。小説を読み、映画や演劇を観たり、落語を聞いたりすることはすべて「感情教育」に資する営みである。暴力をふるう側にも、振るわれる側にも、想像的に身を置くことで、人は暴力を制御する装置を内面化してゆく。本作もまたそのような「感情教育」のすぐれた機会となると私は思う。

(※【感情教育】【創造的に他人の身になってみる】…騒動に対して、私が記録しているかたとともに一時期エンパシーがよくメッセージにされました。その内容は、‟私の気持ちになって騒動を味わおう”というものです。)

(※「超能力」アラートにおける回答としてこの『福田村事件』が提示されたとき、先生にご質問をしました。

”映画ですので様々な見方があると思うのですが、「人間は時に愚かなことをすることがあり、そういった負の歴史を映像として残すことで二度と悲劇を繰り返さないためのリマインダー」を大きなメッセージとして製作されたと見ることができると思います。先生のテキストにもその旨を窺うことができるのですが、なのになぜ悲劇を繰り返そうとするのですか”というご質問内容でした。

この質問に対してはまだお答えをいただいていなかったと思います。)

(本日の作業は終了したいと思います。皆様にはお付き合いいただき、ありがとうございました。

最後に本日の作業について、騒動を初期からご存じであり、先生のメッセージにも精通している方にご確認を請いたいと思います。
毎日のように、大変なご面倒をおかけして恐縮の至りですが、何卒ご協力いただきますようよろしくお願い致します。本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです)

(※ ↑作業終わりにお断りしたご確認について
昨日の作業分に関してはご確認いただきました。毎日、お力を拝借してしまい恐縮しております。かつ、厚く感謝申し上げます)

(拝見しましたところ、多くの文章で私、および騒動に関係する記述は見つけることができるのですが、影響の濃淡のどこま濃いものをご紹介するかで、悩んでいます)


●「維新的民主主義」

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2024/01/29_1730.html

(※【維新】…日本の政党です)

 ある雑誌から「大阪でどうして維新はあれほど支持されているのでしょうか」という取材を受けた。同じ問いは10年以上前から繰り返し受けている。そのつど返答に窮する。維新は地方自治では失政が続いているし、党員の不祥事も止まらないのに選挙では圧勝するからである。
 
 どの施策を見ても、市民府民にとっては行政サービスの劣化をもたらすものばかりである。にもかかわらず大阪の有権者たちは維新に圧倒的な支持を与え続けている。なぜなのだろう。
 
 アレクシス・ド・トクヴィルは『アメリカの民主主義』の中で、アンドリュー・ジャクソン大統領について「その性格は粗暴で、能力は中程度、彼の全経歴には、自由な人民を治めるために必要な資質を証明するものは何もない」というにべもない人物評を記している。だが、そのジャクソン将軍をアメリカ人は二度大統領に選んだ。
「民衆はしばしば権力を託する人間の選択を誤る」とトクヴィルは書く。でも、それでいいのだ、と続ける。重要なのは、支配者と被支配者の利害が相反しないことだからだ。「もし民衆と利害が相反したら、支配者の徳はほとんどの用がなく、才能は有害になろう。」
 
それよりは徳性才能において民衆と同レベル程度の人間を統治者に選ぶ方が安全だ。彼らは有権者の意に反して「自分が正しいと信じたこと」を断行することはしないはずである逆に、「こんなことをしてもろくな結果にならない」とわかっていても、やると有権者が喜ぶことならやる。
 これはポピュリズム政治の本質を衝いた卓見だと思う。
 大阪の有権者たちはトクヴィル的な意味ですぐれて「民主主義的」なのだと思う。
 利己的であったり、嘘をついたり、弱いものいじめをしたりするのは「誰でもすること」である。「誰でもすることをする政治家」こそが民衆の代表にふさわしいというのはロジカルには正しい。

 果たして、大阪のこの「民主主義」はこれからどういう社会を創り出すことになるのか。私は深いい関心をもってそれを見つめている。

(※【支配者】【民衆の代表】とはだれでしょうか…

ご参照に 本稿で同政党を扱ったてテキスト『●維新と加速主義』

【「民主主義」や「人権」や「政治的正しさ」のような時代遅れのイデオロギーがブレーキになって資本主義の矛盾を隠蔽し、資本主義の終焉をむしろ遅らせている。そのブレーキを解除して、資本主義をその限界まで暴走させて、その死を早め、資本主義の「外」へ抜け出そうというのが加速主義である。】


●2024-02-07 mercredi

「救難信号を聴き取ってくれそうな甘さ」

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2024/02/07_1751.html

A:割りと切実なご質問でした。
 他者からの救難信号を聴き取る人のところにじゃんじゃん「助けて」という支援要請が集まってきて、キャパシティーを超えた場合はどうしたらいいんでしょう。
 これはまさに僕の現状みたいですね。いろいろな人から「ちょっと手を貸してください」ということを言われます。
 
 たしかに仕事は増えるんですけれども、それでも引き受けてしまうのは、なんというか、仕事をしていると、自分がちょっとずつ豊かになっていると感じるからです。
「贈り物」をすると、すこしずつ自分が豊かになる。ただ、僕を豊かにする「富」は贈ったものと同じ種類のものじゃないんです。まったく別の種類の「富」です。

 僕は人間が生きてゆくためには相互支援共同体というものがどうしても必要だと考えています。そのような共同体に帰属していないと、個人では人は生きて行けません。
 その共同体の制度設計の基本ルールは「最も弱い人が自尊感情を持ってメンバーでいられること」です。
 ですから、そういう共同体では「フリーライダー」というものは概念上存在しません。

 フリーライダーというのは「共同体のリソースを分配されるだけ分配されるけれど、自分からは何も差し出さない人」のことです。
「フリーライダーはいない方がいい」というふうに、多くの人が思っています。
 思っているどころか、「フリーライダーを根絶する」ことが政治的正しさだと信じて、「生活保護受給者」をいじめたり、undocumented な在留外国人を「国に返せ」と言ったりする人の方があるいは多数派かも知れません。
 でも、僕はこれは端的に間違っていると思います。共同体は、「標準的な個体」ではなく、「最も弱い個体」を基本に制度設計されるべきだと思っているからです。最も弱い個体でも気持ちよく暮らしてゆけるように制度を調える。その方が共同体は強靭なものになるからです。
 だって、フリーライダーがもたらす損失なんて、たかが知れているんです。

 
・・・というかたちで日本全体が貧しくなり、学術的生産力も激減しました。
 フリーライダーが得たわずかな金銭を奪還しようとしたせいで、システム全体が傾くことになったのです。それより奨学金の返還義務そのものをなくした方が、日本社会全体ははるかに大きな「富」を得たはずです。
  だったら、「フリーライダーをゼロにする」制度改革に血道を上げる暇があったら、「オーバーアチーバーに気分よく仕事をしてもらう環境を整備する」方が、費用対効果は圧倒的によい。
「フリーライダーを組織のフルメンバーとしてにこやかに迎え入れ、オーバーアチーバーには好きにさせておく」という「メンバー全員が気分よく過ごせる」組織を設計するのが、いちばん賢いということになります。

 君が受け取っている救難信号が具体的にどんなものか僕にはわかりませんけれど、「助けて」とひとに言われるというのは、とても「よいこと」なんです。それだけは覚えておいてください。
 そのときに君がした努力への「お返し」は、別のときに、まったくおもいもかけないかたちで戻ってきます。贈与のシステムはそれくらいには信じても大丈夫です。

(※【フリーライダー】…とは誰でしょうか。
騒動で頻出メッセージです。

ご参照に
・『ABOUT IT』
(内田先生のほのめかし)【それが引き起こした現象のみを書くと、“仲間の中に「生活保護」がいる”という情報がコミュニティーに拡散されました。もちろん面識はありません
多くの人から批判を受けます。】

【以降、先生からは“生活保護”“ホームレス”“無職”“貧困”などを示す記号が提出されます。文脈を共有しない人たちには社会福祉のメッセージです。】

・本稿で前述した内田先生のポストです。
【2010年代から「組織マネジメント」というのが「トップダウンの組織を作ること」「トップのアジェンダに賛成する人間を重用し、異議を申し立てる人間を排除すること」「給料分の働がない人間、制度のフリーライダーを見つけ出し、処罰すること」】)

(※昨日分の作業は、第三者様からのご確認をいただきました。毎日お骨折りいただき本当にありがとうございます。)






●『だからあれほど言ったのに』まえがき&あとがき

全文はこちら http://blog.tatsuru.com/2024/02/19_1057.html

 でも、今の日本の大人たちは(家庭でも学校でも)、子どもたちを怯えさせ、萎縮させ、硬直させることに熱中しているように僕には見えます。どうして、そんなことをするんでしょう。
 権力の側にいて、管理する人たちがそうするのはわかります。でも、「政治的に正しいこと」を訴える人たちも、しばしば人々を「怯えさせ、萎縮させ、硬直させる」ことに熱中しています。

 でも、声を大にして申し上げますけれども、処罰されることの恐怖からは「よきもの」は何も生まれません。創造のためにはある種の無防備さがどうしても必要です。「アジール」というのは、「無防備であっても傷つけられるリスクのない場」のことです。社会全体が「アジール」である必要はありません。でも、あちこちの片隅にそのような「ミステリアスな暗がり」がある社会の方がみなさんだってきっと暮らしやすいと思います。

(※ 頻出される教育論となります。ダブルスピークを意識してくださると読み通しやすくなります。

〇ご参照に 
本稿【●『君たちのための自由論』あとがき】

■『内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ』より抜粋します。
●(続き)【その提案を飲んで「組織を守る」という選択をした時に、勝負は終わります。敗北するのは「仲間を守ることができない」という点で道徳的インテグリティを自分から手離した組織そのものだからです。「一罰百戒」が攻撃する個人は組織を瓦解させるための「レバレッジ」なんです。】
(集団ストーキングが欧米ではテロ指定されている理由(集団の社会的理念の破壊)をクリアーに語られていていると拝見していました。) 

(※さきほど「x」で、拝見しましたので、忘れないうちに周知させていただきたいと思います。ご著書の紹介文となります。)


不自由で、貧しく、生きづらい――
この国の不出来なシステムを
悪用するか、逃げ出すか、それとも……

ウチダ流「日本人論」最新刊!!

失われた30年で「不自由な国」になってしまった日本。
新自由主義の迷走ぶり、経済格差や税の不均衡、少子高齢化、低レベルな政治、大手企業の不祥事など問題が山積となっている。
社会全体に諦観が蔓延しており、一般市民は不自由さをも感じているが……。
「不自由な国」への警告の書!


<項目>
★“大人”が消えている ――日本の危機
★ アメリカの顔色をうかがう日本政府の悲哀

★ 属国の身分を利用するか、そこから逃げ出すか
★ 日本の「ダメな組織」の共通項
★ 「21世紀の囲い込み」を目指す、現代の資本主義
★ 村上春樹が描く「この世ならざるもの」 
 ……etc.

●フリーライダーの効用

本文はこちら http://blog.tatsuru.com/2024/03/11_0911.html

[※9年続いております騒動周知のため、先生のテキストを素材とさせていただいています。騒動を古くから立ち会ってきたかたには、内容は馴染みのあるものかと思われます。こちらは比較的最近(4か月前)のテキストとなります。このテキストに埋蔵されたテーマの重要性を多重的に知っていただくために掲載をさせていただきたいと思います。]

[※このテキストは、「超能力」アラートにおける回答としてこの『福田村事件』(朝鮮人虐殺事件)が先生から提示されたとき、先生にご質問をしました。”なぜこのようなことを繰り返すのでしょうか”とお問いかけして、ご返答いただいたテキストになります]

【差別主義】【優生思想】

 高齢者の集団自決が高齢化対策の秘策であると公言した若い経済学者の発言が話題を呼んでいる。
 彼の言う「人間は引き際が重要だと思う」ということにも「過去の功績を使って居座り続ける人がいろいろなレイヤーで多すぎる」という事実の摘示にも私は同意する。でも、使えないやつは有害無益だから、集団から追い出すべきだという論には同意しない。人道的な立場からというよりは組織人としての経験に基づいてそう思うのである。
 組織に寄生して、何も価値を生み出さず、むしろ新しい活動の妨害をする「フリーライダー」はどのような集団にも一定数含まれる。この「無駄飯食い」の比率を下げることはたしかに集団のパフォーマンスを向上させることにある程度までは役立つだろう。ただし、「ある程度」までである。というのは「無駄飯食いの排除」作業に割く手間暇がある限度を超えると、その作業自体が集団のパフォーマンスを著しく低下させるからである。
 
 それに、若い方たちはご存じないだろうけれど、あらゆるパニック映画は「強者だけのグループを作って、自分たちだけ助かろうとする人たち」と「子どもや老人を一人も取り残さないために無理をする人たち」が対比されて、「自分たちだけが助かろうとする人たち」がまず死ぬという話型を繰り返している。「集団の中で最も弱いものをも取り残さず救える仕組みを作る」ためにどうすればいいのかについて深く思量することは(たとえそれが実現できなくとも)、集団を生き延びさせる上では有用だということを人類は早い段階で学んだのである。

(疑問を加えようとしましたが、押しつけがましくなったかもしれません)

(※ご参照に
〇『ABOUT IT』
(内田先生のほのめかし)【それが引き起こした現象のみを書くと、“仲間の中に「生活保護」がいる”という情報がコミュニティーに拡散されました。もちろん面識はありません
多くの人から批判を受けます。】

【以降、先生からは“生活保護”“ホームレス”“無職”“貧困”などを示す記号が提出されます。文脈を共有しない人たちには社会福祉のメッセージです。】

〇内田先生のメッセージです。
『〇〇〇リバタリアンという怪物』
際立つのが片山さつき議員で、生活保護受給者は「実質年収4百万円」の生活をしているという無根拠な都市伝説の流布に加担して、生活保護叩き発言を繰り返してきたが、最近も捏造投稿に基づいてNHKのニュース内容にクレームをつけて、生活保護受給者が社会福祉の「フリーライダー」だという世論の喚起に励んでいる。もちろん、本人がそう「信じている」という信憑の問題もあるのだろうが、「そういうこと」を公言すると選挙で票が集まるという現実的な打算も同時に働いているはずである。





●コミュニズムのすすめ

全文はこちらhttp://blog.tatsuru.com/2024/05/01_0912.html

(このテキストは、私のご質問に対して、先生がお答えとして提示していただいたものになります。

私のご質問
【昨晩、痛みに耐えかねてご質問させていただきました。 なぜ、現実とは逆に、私の方が【呪い】の主体で、【「日本社会に存在させてはならない」】となるのでしょうか… というご質問内容でした。これまでの経緯を反復し、代表するものとしてお問いかけ致しました。】)

先生のご返答になります

 現代日本の際立った特徴は富裕層に属する人たちほど「貧乏くさい」ということである。富裕層に属し、権力の近くにいる人たちは、それをもっぱら「公共財を切り取って私有財産に付け替える」権利、「公権力を私用に流用する権利」を付与されたことだと解釈している

 いや、ほんとうにそうなのだ。現代日本の辞書では、「権力者」というのは「公権力を私用に使い、公共財を私物化できる人」のことなのである。そういう身分になることを目標にして、人々が日々額に汗して努力している以上、国があげて「貧乏くさく」なるのも当然である。
 私はもうこの貧乏くささにうんざりしている。貧しくてもいい。「貧乏くさくない社会」に暮らしたい。
 それなら、どういう社会が「貧乏くさく」ないのか。とりあえず私が敗戦後の日本で見聞した「共和的な町内」はそうだった。他人の富裕を羨まない、弱者を見捨てない、私財を退蔵せずに分かち合う、公共財ができるだけ豊かになるように努力する。言ってみればそれだけのことである。現に大人たちがそのようにふるまい、それが「ふつう」なのだと子どもたちが思うなら、その社会は、たとえ物質的に貧しくても、「貧乏くさく」はない。私はできるならそのような社会に暮らしたい。

「豊か」というのは、私財についてではなく、公共財についてのみ用いられる形容詞であるべきだと私は思う
身分や財産や個人的な能力にかかわらず、メンバーの誰もが等しく「コモン」からの贈り物を享受できること、それが本質的な意味での「豊かさ」ということだ。マルクスはそう考えていたし、私もそう考える。

 貧富は個人について言うものではない。共同体について言うものである。私たちにとってほんとうに死活的に重要なのは、われわれの社会内にどれほど豊かな個人がいるかではなく、われわれの社会がどれほど豊かなコモンを共有しているかである。豊かであるか貧しいかを決定するのは、リソースの絶対量ではない。その集団の所有する富のうちのどれほどが「コモン」として全員に開放されているかである。
 
 最近、私の周囲でも、私財を投じて「みんなが使える公共の場」を立ち上げている人たちをよく見かけるようになった。私自身も10年ほど前に自分で神戸に凱風館という道場を建てた。武道の稽古だけではなく、能舞台としても使えるように設計してもらったので、畳の上に座卓を並べてゼミをしたり、シンポジウムをしたり、映画の上映会や浪曲、落語、義太夫などの公演もしている。ささやかではあるけれども、これも一つの「コモン」だと私は思っている。

(※私は、8年ほど前のある日、突然内田先生から「待ってろよ」というお言葉をいただき、そのあと「この中に生活保護を受給している人間がいる」とご指摘を受けました。ー拙稿『ABOUT IT』に詳述。
それ以来、先生は頻繁に排除アートのベンチなどに代表される差別主義的なメッセージや、「生産性」「フリーライド」など優生思想的なメッセージを提示されています。
ー拙稿『◆内田樹先生と騒動との関係、近頃のメッセージ◆』【●差別主義】に詳述)

 この手作りの「コミュニズム」はかつてのソ連や中国の共産主義と本質的なところでまったく違うものだと思う。というのは、この新しい「コミュニスト」たちは富裕者や社会的強者に向かって「公共のために私財を供出しろ。公共のために私権の制限を受け入れろ」とは強制しないからである。公共をかたちづくるためにまず身を削るのは「おまえ」ではないし「やつら」でもない。それは「私」である。
 そう思い切ることからしか豊かな社会は生まれない。同意してくれる人はまだ少ないけれど、私はそう確信している。

(※ 日本では人称代名詞の表現が英語に比べて複数あります。「おまえ(omae)」(=you)、「やつら(yatsura)」(=they)もその一部です。そして、自分が使用し、自分を指す表象として騒動初期から一般に流布したのが「私(watashi)」(=I)です。)


●内田樹さんの見た都知事選:「性善説」あざ笑う人の祭り

全文はこちら https://www.nippon.com/ja/in-depth/d01018/

(※2024年都知事選挙は「ゲーム」と重ねられ、〇〇氏は先方のかたとして比喩されています。現在日本で起こっている事実です。騒動の正確な理解のために周知しますがご容赦ください。 内田先生による都知事選の総評となります。)

失われつつある選挙への基本認識
今回の都知事選では、「選挙は民主主義の根幹をなす営みである」という認識が崩れてしまったという印象を受けた。選挙というのは有権者が自分たちの立場を代表する公人を、法を制定する場に送り込む貴重な機会であるという基本的な認識が今の日本からは失われつつあるようだ。

NHK党以外の候補も「表現の自由への規制はやめろ」と書いたわいせつな写真入りポスターを張り出すなど、目を疑うような行為があった政見放送も含め、注目を集めて動画サイトなどのフォロワーにつなげるなど、選挙を単なる売名や金もうけに利用しようとする候補者が多数登場した。

(※「ゲーム」では、選挙のように候補者がいるのでしょうか…どのようなシステムになっているのでしょうね)

公職選挙法に限らず、私たちの社会の制度の多くは「性善説」あるいは「市民は総じて常識的に振る舞うはずだ」という仮定の下に設計・運営されている。でも、「性善説」の制度は隙間だらけである。その隙を「ハック」すれば、簡単に自己利益を確保できる。候補者にさまざまな特権が保証されている選挙という機会を利用しても、私利私欲を追求したり、代議制民主主義そのものを嘲弄(ちょうろう)したりすることは可能である。そのことを今回の選挙は明らかにした。もう「性善説」は立ち行かなくなったらしい。

安倍政権から始まった流れ
だが、法律を制定する立法府の長が、法律を執行する行政府の長を兼ねる政体のことを「独裁制」と呼ぶのである。つまり、彼は「私は独裁者だ」という民主主義の精神を全否定する言明を繰り返していたことになる。

(※ 安倍元首相とは誰でしょうか…)

代議制民主主義を嘲弄
現行憲法下で独裁制を実現するために、差し当たり最も有効なのは立法府の威信を低下させること」である。有権者の多くが「国会は機能していない」「国会審議は無内容なセレモニーにすぎない」「国会議員は選良ではなく、私利私欲を優先する人間だ」という印象を抱けば、民主政は事実上終わる。
知性においても徳性においても「平均以下」の議員たちを大量に生み出すことで、自民党は政党としては使い物にならなくなったが、その代償に立法府の威信を踏みにじることには見事な成功を収めた。
その帰結が、「代議制民主主義を嘲弄する」人々が選挙に立候補し、彼らに投票する多くの有権者が少なからず存在するという今の選挙の現実である。NHK党は、暴露系ユーチューバーで有罪判決を受けたガーシー(本名・東谷義和)元参院議員を国会に送り込むなど、国会の威信、国会議員の権威を下げることにきわめて熱心であったが、これは彼らの独創ではない。自民党が始めたゲームを加速しただけである。
今回の都知事選で2位につけた石丸伸二氏も前職の広島県安芸高田市長時代に市議会と繰り返し対決し、市議会が機能していないことを訴え続けてネット上の注目を集めた。これも「立法者」と「行政者」は対立関係にあり、「行政者」が上位にあるべきだという、安倍元首相が体現してきた「独裁志向」路線を忠実に踏まえている。

(※暴露系ユーチューバー、石丸とは、日本ではストーカーを示す比喩として使用されています)

裏金事件も根底でつながる
自民党派閥の裏金問題は、国会議員たちがその地位を利用して平然と法律を破っている事実を白日の下にさらした。この事件は「国会議員はろくな人間ではない」という民主主義を空洞化するメッセージと、「政権に近い議員であれば、法律を犯しても処罰されない」という法の支配を空洞化するメッセージを二つ同時に発信していた。

(※ 【裏金】…日本では募金詐欺で使用されていた記号です。

民主政は「合理的に思考する市民」が多く存在することを前提にした制度である。有権者の多数が「まともな大人」でないと、民主政は簡単に衆愚政に堕す。だから、民主政は人々に向かって「お願いだから大人になってくれ」と懇請する。市民に向かって政治的成熟を求める政体は民主政の他にはない。
帝政も王政も貴族政も寡頭政も、どれも「市民が幼稚で愚鈍である方が統治コストが安く上がる政体」である。だから、これらの政体は市民に向かって「成熟するな」というメッセージを送る。「難しいことは考えなくていい。考える仕事は私たち支配者が代わって行うから、お前たちは愚鈍のままでいい」という甘い言葉を送り続ける。中国の歴史書・十八史略に登場する、「帝力なんぞわれにあらんや」とうそぶいて、自分が支配されていることさえ気づかなかった「鼓腹撃壌」の老人こそ愚民の理想である。
その中にあって、民主政だけが、市民を甘やかさない。市民に対して「大人になれ」という面倒な仕事を押し付ける。だから、民主政は嫌われるのである。

(※ご参考に
〇内田先生のメッセージです
(私が現在の劣勢に変化し始めた頃、状況が見えない私は、空気が物理的に読めず、「なぜ、人権や国際法といった西側諸国の普遍的な価値が侵害されても許されるのか、そのロジックを教えていただけないでしょうか」と周囲の皆様に聞いて回っていました。その際の内田先生からのご返答になります。
【市民が立ち上がって「緊急事態宣言を解除しろ」とデモをすれば、内閣は当然これを「社会秩序の混乱」と認定します。つまり「緊急事態の発令は不当だ」という民意の表示そのものが「緊急事態発令を正当化する」という悪魔のような仕掛けなんです。】)

制限強化は終わりなきいたちごっこ

一部の「性善説制度をハックする人たち」を何とかするために、今私たちが享受している政治的自由を規制すべきではない。
規制を設けるなら、法律で網をかけ監視や取り締まりをしなければならず、システム構築に膨大なコストが必要になる。だが規制を設けても、相手は新たな穴を探してくる。おそらく終わりなきいたちごっこになるが、これによって民主主義に関する新たな価値を生み出すことは無い。

(※ご参照に
以下は私がこれまで書いてきた拙文となります。

〇ストーカーの報道、物語の力強さ…自分は好きなのですが映画なんてお呼びでない気がしてきます。こういうお話をしていても、「自分が観ていないから」という地点に着地してしまいますね。自分なんて一番に信じるのかもしれません。ただ、バーチャルの「自分が観た」地点から言えますのでは、1年間、見ようによってはストーカーが参加するずっと以前の9年間、表情を変えて同様のことが起こり続けているのではということです。先生の比喩をお借りすれば「モグラたたき」(海外にも通じるともいます)が毎日続いていてると言ってもいい気がします。

〇おそらく明日も(本日も)前日と同じことが起こると思います。昨日も「今日と同じことが起こりますよ」とお伝えして実際に同じことが起こりました。そして一年中同じことが起こっています。
(その間、扇動者が「あたらしいナチズム」と呼ぶ状況が少しずつですが進行しています。内緒で、盗撮して、盗聴して、不正アクセスをして、それらを無断公開し、デマを振りまき、つきまといをし、裸の動画を公開し、家族を攻撃して、友人を攻撃して、お金を奪って、窃盗をして、ネットリンチにかけ、誹謗中傷を組織化し、誰もが持つような本人が隠したがっている秘密を暴き出し、ヘイトクライムを行い、ヘイトをビジネス化して儲け、巨額の詐欺にかけて、対話や反論は物理的に禁じじます。大切な人も時間も未来も過去も現在も全てを人から奪うような「あたらしいナチズム」です。)

〇そのプロパガンダが強いのは知っています。実際に勝てるとはどうしても思えなくなります。ただ、私から言えるのは、事実だけを見極め、客観的なものだけから考えた時には、起源に戻るということです。先生のシナリオではその本質を「無意味」と表現されていました。

[…]。一方で、現実問題が残る日本では、「何もなかった」という声がちらほらとお聞きしています。私もそうだと思います。それは先生の記述であり、私が実感し続けたことです。愉しさ、怖さ、絶望、高揚、生々しさ、残酷さ、扇情的、そうした感情を事実から切り離して、起源に戻っていただければ、私でなくても、見通せるものではないかと思います。明日も衣装は変わっても中身においては同じことがきっと起こるかもしれません。ですがその時に、もう一方の当事者であられる方のお言葉、「無意味」という先生の言葉、「どっちでも勝てればいい」という糸井さんの言葉を思い出していただければ、ある種のメタ認知が加わるのではないでしょうか。


「市民社会の常識」再生のために
私たちがなすべきなのは、「市民社会の常識」を再生させることである。「君がやっていること、それは非常識だよ」という言明が、現実に強い規制力を持っていれば、法律を作る必要はない。
米国では2016年の大統領選挙の時、ワシントンポスト紙が候補者たちのステートメントにファクトチェックをかけて、「ピノキオ」という単位でその真実含有量を表示したことがあった。「一部誤認や事実のつまみ食い」が1ピノキオ、重大な言い落としや誇張は2ピノキオ、重大な事実誤認や明白な矛盾は3ピノキオ、大うそが4ピノキオ。前大統領のドナルド・トランプ氏は「底なしピノキオ」の称号を贈られた。信頼できるファクト・チェッカーがその威信をかけて「誰が真実を語っているのか」を査定するならば、法的規制は要らない。
今回の都知事選が改めて示したのは、「常識あるまともな大人」が一定数存在しなければ、民主政は持たないということである。今は「大人になれ」も「礼儀正しくあれ」も「非常識であるのは恥だ」も、どれも強い指南力を持つメッセージではなくなってしまったが、それでも私はこれからも忍耐強くそう言い続けるつもりである。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?