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剽窃について ー再掲バージョンー

『ABOUT IT ー再掲バージョンー』をアップロードに伴い、こちらも同様の趣旨で少々の改編をしたいと思います。
つまり、下のように加筆します。

・本文中、「佐藤先生」と仮名の表記していますが、それは内田樹先生であることの明示。

・スクリーンショット内の文字を下部に書き起こす。冒頭部に「※」を付記します。

・過去に修正、加筆をしたか、どのくらいの部分加筆したのか、こちらについては残念ながらあまり記憶がありません。やはり事実関係は加えてないはずですが、もしストーカーの側から提出がありましたら、比較検討してくださればと思います。

騒動のご理解の一助になれば、こちらのテキストも少しはお役に立てたと嬉しく思います。ご査収くださいませ。




佐藤先生が提出する私宛てと思われるサインに“剽窃”“盗用”があります。

※内田先生のリツイート

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(※「いや,引用は「無断」でかまわないんですよ。問題なのは出典を挙げずに自分の文章であるかのように書いていることであって,それは引用ではなくて盗用,剽窃というのだ。不勉強な記者である。 大川隆法氏の長女が卒論で「無断引用」 指導教授を厳重注意に」)
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(※「Winnie the Pooh author A.A. Milne's son, Christopher Robin, sitting at home with his teddy bear, circa 1920s.」)
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(※「The real Winnie the Pooh and Christopher Rbin 1927」)


※内田先生のツイート

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(※「ルパシカ。"@oldpicture1900: 1916年(大正5年)。当時無名だった画家・東郷青児が二科展に初出展した所、いきなり二科賞を受賞した。以後それまでになかった独特のデフォルメされた美人画で名声を獲得していく。」)

※内田先生のリツイート

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(※「ここまでひどくはないけど、似たレポートがあって、学生を呼び出したことがある。そしたら、「えっ、ふたりで二人で共同で書いたらダメなんですか?」と自信満々で言われて、一瞬自分が間違えているのかと思った。
コンセンサスがなくなってるんですね。」)
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※内田先生のリツイート

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(※「美術館でドッペルゲンガーを見つけた人たち」)

※内田先生のリツイート

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(※「自分の感想を」「述べよ」「ウェブに掲載した内容の丸写しや他人のレポートの写しなどの違反行為が発覚された場合は、レポートは無得点になる。」「スゴイと思いました」)


※内田先生のツイート

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(※「チェホフってかっこいいなあ。」)

※内田先生のリツイート

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この問題に関して、考えをまとめると以下の3点になります。

①先生が日頃述べているコピーライトの考察と矛盾していること

“「コピーライトという考え方はよくない」ということをしばしば発作的に申し上げているが、それはロラン・バルトやジャック・ラカン以来の、「私が語っているとき、私の中で語っているのは〈他者〉である」という「現代思想の常識」テーゼを反復しているにすぎない。”

“私はどんな論件に関しても、自分の知見に独自性があると考えていない(今回の本も、ほとんど先人からの受け売りである)。なので、真似するなとか著作権が蜂の頭とかややこしいことは言わない(というより言えない)。”

“私とともに「著作権者」を代表して発言された○○○さんも「表現はパブリック・ドメインに設けられて、フェアユースに対しては原則的に自由に解放されるべきである(なぜなら、我々が「自分のオリジナル作品」だと思っているもののほとんどは先賢の「コピー」または「パスティーシュ」であり、私たちにできるのは、リスペクトを以て先行作品に接することだからである)」というものであった。 私もまったく同感である。”

先生の仕事を以前から拝読していたので、著作権に対する一貫した懐疑の姿勢は知っていました。ですから、それに反するような剽窃を指摘するサインには疑問を感じずにはおれません。コピーライトに関する今までの発言はすべてウソだったのでしょうか。


②サインが繰り返されていること
非営利で書いたバカな素人の感想コメントに対して、○○○に掲載される佐藤先生ほどの立場にある方が、剽窃を指摘し続けることにどのような意味があるのでしょうか。著書を参照したことは2度ほど謝罪の中で伝えました。ですが、2年以上たっても、未だにメッセージが絶えません。日常的に示される私宛の記号は呪いと言って差し支えないと思います。並外れた知性と圧倒的な人望、そこに対象の愚かさという要素を加えれば、組織化された呪いは容易に発生すると想像します。

「呪いの言葉」とは、「記号の過剰化」であり、複雑な人間の存在を記号化し、単純化することで、相手の破壊を目指すものであり、この破壊の全能感から逃れるには、自分を祝福するしかない、言論の自由に「呪詛する自由」は含まれない。先生が公言されてきた呪いに関する考察ですが、これらの教えは偽りだったのでしょうか。


③著書に出典が挙げられていないこと
本書で取り上げられてる作品のうち、私が参照したものを含む2つの作品に関する分析は、かつて雑誌などを通じて知っていたものでした。懐かしい記憶が蘇り、すぐに書籍記載の出典元を調べたのですが、相当数の参考文献、出典が挙げられている中、参照した分析を含む一連の研究の出典は見つけられませんでした。まだ、インターネットが一般的に流通していなかった頃の話です。後にいくつかの出典元は海外のサイトで発見しました。

上のことは、先生とSNSでサインの交換の上、確認を取っています。また、著作を見れば、裏付けも取れます。そうなると、私に向けられている盗用、剽窃の不正を行っているのは先生ということにりなます。

(↓先生からの確認のサイン)

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感想コメントを書くにあたって、先生の著書を参考にしました。たとえば『神話の法則』という物語を分析した研究書が制作フォーマットになっているように、フロイト—ラカンの精神分析が制作側のツールになっているように、主に制作陣が依拠する記号や表徴の表現術の参考として、他の作品の分析に活用しました。先生の著作はよく拝見していましたので、筆致に影響はあるかもしれませんけど、「文章の一致」や「コピペして語尾だけ変える」といったものはありません。お名前を引くかは逡巡もしたのですけど、1次情報が記載されていない2次情報の著作に対して、後々生じるかもしれないリスクの回避は、念頭にありました。また、参照した他の研究者の名前も同様ですが、映画情報サイトのコメント欄には形式的に馴染み悪く、権威付けでマウンティングするように思えたのも大きな理由でした。

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