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考えるな。甘えろ。

新しい職場に転職して、1か月が経とうとしている。環境を変えるのが苦手な方なので、まだなにかと緊張している。

そんな1日の勤務が終わり、「さぁ帰ろう。」と帰り支度をしていて気が付いた。あれ。ない。スマホがない。一人でリュック、ポケット、トイレやらあちこちをゴソゴソ探るも見つからず、断念して遠慮がちに「スマホ見かけてませんか」と同僚に声を掛けると、色々な人がわざわざ仕事の手を止めて、電話を掛けて着信音を鳴らしてみてくれたり、googleのデバイス検索機能を調べてくれたりした。皆さんの親切にうろたえる。

さて、私と同じく長男長女という立場に生まれた方がいらっしゃれば、きっと共感してくれると思うのだが、第一子というのは、誰も頼んでないのに「自分がどうにかしなくちゃいけない。」という思いにとらわれがちである。加えて、第一子というのは割とどんくさい。(個人的見解です)

 なので、どんくさいくせに、自分のヘマに他人を巻き込むのが居たたまれず、ペコペコ謝って早々に職場から日中の活動フィールドの公園に車で向かった。職場にないなら、心当たりはそこしかない。ここは冬の信州。とりあえず早くいかないと雪に埋まる。

 ちなみに私は運転が不得意な上に方向音痴である 。行き慣れていない場所にストレートにたどり着けることはそうそうなく、今回も途中右折すべきところを直進しU ターンして、その上駐車場を間違えた後、フィールドにたどり着いた。すると、なぜか見覚えのある車が2台停まっている。

勤務を終えた同僚2人が、小雪が舞う中わざわざフィールドに寄ってくれいた。その上私が道を間違えてU ターンしている間にスマホを見つけてくれており、のこのこ遅れてやってきた紛失した張本人は、ただスマホを受け取って、またしても親切にうろたえながら、ペコペコお礼を言って帰った。

申し訳ないことこの上ない。転職したばっかりで、それでなくてもおんぶに抱っこで働いているのに。あぁーもう大人なのに、なんて手のかかるヤツなんだ。と身が縮む。以前なら心も縮こまって落ち込んでたところだ。

でもそうだった。思い出した。ここ2年で、こういう時どうすればいいか学んだんだった。こういう時は、おずおずと縮んだ身を伸ばして、有難く親切を受け取り、図太い位思いっきり甘えるべきなのだ。

かつて欧米の寄付文化に習って、NPO 法人や慈善事業への寄付に税制の優遇をつけたら、かえって寄付が減ったという話を聞いたことがある。日本人は分かりやすい見返りがあると、一気に自分の行動をなんだか偽善的に感じて、気持ちが引っ込んでしまうようだ。そもそも寄付を検討する人は、その社会問題にコミットしたいという想いを持っている人だ。微力だと思いながらも、貢献することがその人の幸福であり理想の生き方だ。

だから、善意に出会ったら、「負担になってないかな」とか「自分本位なんじゃないか」とか「努力が足りないかもしれない」とかあれこれ考えずにさらりと受け取ることが大切だ。そう多分。エレベーターに乗った時、誰かが【ひらく】ボタンを押していてくれた時の「どうぞ。」「どうも。」位の感覚で。ちなみにこれは、誰かを手助けする側にたった時も大事な姿勢だ。「お先にどうぞ」位の気持ちがちょうどいい。

今、私のように、誰かに甘えてばっかりだと感じている人は、あれこれ考えず甘えてしまおう。その誰かは君の人生にコミットしたいんだ。不器用な遠慮や気負いでその気持ちを引っ込めさせてしまうのは、双方にとって、とてももったいないことだ。

だって、受け取って初めて「大丈夫です」って遠慮してたら得られない、深いつながりが生まれるから。受け取ってもらえることが誰かの幸せをつくるから。受け取り合う事で生きやすい社会をつくるから。

あ。それから、それと同じくらい大事なことがある。

公園で身体を動かす活動をするときは、スマホはファスナーのあるところに入れるんだ。滑り台の出口には特に注意だぜ。

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