見出し画像

安倍元総理を悼む

 今日、2022年7月8日、決してあってはならないことが起こりました。安倍元総理が奈良で銃撃され、お亡くなりになったというニュースが世間を震撼させています。

 もちろん、安倍元総理だからダメだ、ということをこの記事で述べようとしているのでは断じてありません。また、私個人の政治信条は、安倍元総理とは異なる立場のことも多いです。

 しかし、一人の人間が、いかなる理由であっても、他者によって殺害される事態があってはならないのです。私はこのことが言いたい。残された者の気持ち、亡くなった本人の無念さを考えてみると、言語化しえないものがあります。だから、犯人は決して許されない。

 ルソーの言葉を紹介します。

暗殺者の犠牲にならないために、もし自分が暗殺者になったら死刑になることを承諾する

『社会契約論』p.141

ルソーは『社会契約論』で、死刑をある程度正当化します。なぜなら、社会的権利を攻撃する悪人は、すべてその大罪により、祖国への反逆者、裏切者になるからであり、「彼は、祖国の法律を侵すことによって、祖国の一員であることをやめ、ついに祖国に対して戦いをいどむことにさえ」(p.141)なるからです。

 つまり、「市民としてよりもむしろ敵として罪人を殺す」(p.141)のが死刑であって、だからルソーはそれを正当化しうると考えているのです。

 とはいえ、私は無条件的に極刑を望むつもりもありません。適切なプロセスで、法にのっとって、「一人の人間の命をうばった」ということに関して過不足ない量刑でもって処罰されることを望みます。

 それこそが、ルソーが述べていた「社会契約」であるはずです。それ以上でも、以下でもあってはならない。これがルソーの信念だったはずです。

 政治家が、問題の解決を暴力に訴えてはならないように、政治家が暴力を振るわない限り、私たちは政治を放棄して暴力に訴えてはならないのです。

 言論を守るために、自由を守るために、私たちは(法や物理的強制力などの)力に頼らず、声を上げなければなりません。それで始めて、社会契約のうちで平和を享受し続けることができるのですから。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?