見出し画像

OH!へんろ。親子の88か所巡り(49番札所): 西林山 浄土寺(愛媛県)

お遍路を題字とするなど、読者に訴えかけないnoteを書きつつ、何とか折り返しを過ぎました。あまり注目されると好きなことが書けなくなるので、細々とマイペースで続けされていただきます(笑)

わたしが、子どもたちと決めた今回のお遍路ルールは一つだけ。納経所で御朱印をいただくのは子どもたちの役割ということ。ちゃんと挨拶をして、御朱印をお願いし、最後はしっかり御礼をする、です。

画像1

今日の煩悩:

授業でドラマ「水戸黄門」の印籠について取り扱いました。初めの質問は「なぜ、黄門さまは自分で印籠を出さないか」です。

そもそも水戸黄門を見たことがあるのだろうかという心配をよそに、学生からは次のようなコメントが寄せられました。

画像5

なかなか鋭いですね良いコメントです。良いですね。

以前に何かで読みましたが、水戸黄門のドラマツルギーは「虎の威を借る狐」で、視聴者は黄門様に感情移入してドラマを楽しんでいるのではなく、悪代官などの行動に日本社会の価値観を見出して、そうだよねーと確認しながら安心するのです。

「何が偉いのかわからない」けれど、「助さん、格さん、その辺にしておきましょう」と命じ、全面降伏する強そうな助さんや格さんの姿に、おじいちゃんにただ者ではない力を感じるわけです。

たとえ「狐」であっても、周囲が「虎だ、虎だ」と言い立てることによって「虎」に見えてしまう。「ここにあらせられるは前の副将軍、水戸光圀公であるぞ」という一方的な名乗りを裏付ける客観的な証拠はそこにはないわけです。

「先生」「先生」と言われることを喜んだり、周りから「ここにあらせられるは何とか賞の受賞者で、何とか学会の理事であらせられる・・・」ということばかり言ってもらわないといけなくなった時、研究者としての使命も終わりますね。知らんけど。

実のところ、登場する悪者も、相手が繰り出す根拠のない自信を無視するが難しいのです。「面白いこと言うなあ、おじいさん。よしよし、じゃあな」と捨て置けないものです。

一方、ドラマの前半に出てくる老親の看病をする倅、健気に働く子どもたちなどの、堅気の人たちは黄門さまの突然の名乗りに対しても、少しは驚きますが、最後まで「お茶目なおじいちゃん」の感覚を持っています。

ドラマに出てくる悪者たち。大抵は代官だとか奉行ですが、自分たちも普段「根拠のない権威の名乗り」をして地位を利用しています。

例として良いかわかりませんが、出先機関の役人がいて普段業者などに対してえばっているとします。そこに本省のキャリア官僚がやってくる。直接は知らない人だけれど、自分の上司たちがペコペコしている様子に只ならぬものを感じ取るわけです。すると、自分が業者にさせているように、自分も本省キャリアにペコペコする。結局は同じ理屈のなかにいるからです。

水戸黄門に登場する悪者たちは、相手の「権威が高そうな振る舞い」に敏感です。

社会心理学者の山岸俊男先生がコミットメント関係で相互束縛されているコミュニティでは安心社会を形成したほうが有利な場合があると言いました。つまり、地図作製能力(マッピング能力)を使うので、誰と誰が仲間で敵かと言う関係に敏感になるということですね。

自分では自分の権威を基礎づけることが出来ない。しかし、「控えい、控えい」と言い募ることで権威を享受してきた。

「狐」が「時流に迎合して威張っているだけ」ということに、私たちが気付いていながらも、なかなかそれに対抗できない心理的な圧力がある。そして同じ呪縛は「狐」の側にもかかっていて、新たに台頭する「時流に迎合して威張っている者」に道をゆずる。

私たちも、学歴やら、地位やら、収入やら、発信力やら、何やらで、権威を振りかざし、利用しているのでしょう。

私も気をつけよう。お茶目なおじいちゃんと言われる人間関係を大事にしようと誓うのです。般若心経。


画像3

御詠歌:

十悪のわが身を棄てずそのままに 浄土の寺へまいりこそすれ

本尊:

釈迦如来

創建:

天平勝宝年間(749〜757)

真言:

のうまく さんまんだ ぼだなん ばく

歴史:

縁起によると、天平勝宝年間に女帝・孝謙天皇(在位749〜58)の勅願寺として、行基菩薩(668〜749)が彫造した釈迦如来像を本尊として祀り、開創されたとのことです。のち弘法大師がこの寺を訪ねて、荒廃していた伽藍を再興しました。

画像2

所在地:

愛媛県松山市鷹子町1198

駐車場:

あり。有料。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?