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善悪の判断

宗教の話と絡んで善悪の判断が出てくる。

宗教においては善いことの例をたくさん揚げて、良いことの実践を勧める。
又、悪いことの例をたくさん揚げて悪いことの行いを自粛させる。

このように『善悪とは何か』を決めておいて、善の道を進むように指導する。

日本人ならこれに違和感を感じるはずだ
日本人は、まず悪いことをする気がない。
なかったと言うべきか。

日本には宗教がなかったので善悪という概念自体がなかったのだ。

日常生活において助け合うのは当然で、他人を出し抜いて自分だけ利益を得ようという人がいなかった。
そのおかげで、16,500年前から縄文時代が続いたのだ。

ある時期に、外国から儒教、道教、仏教が入り込み、善悪だとか天国地獄などという概念が吹き込まれた。

ここいらから、他人を蹴落として自分の利益を得ようという人が生まれてきた。

しかし、縄文の血が流れている日本人は、ことあるごとに神社に行く。
神社には教義がなく、善悪の判断もない。天国もなければ地獄もない。

人間は自然の一部であり、自然がうまく行くのは当たり前という感覚だ。
神道では、自分に不都合なことが起こるのは、自分に原因があるのでその穢れを祓いに行くというシステムになっているのだ。

昔、英語を教えていただいたカソリックの神父さん(カナダ人)からいくつも質問されたことを思い出した。

質問に答えているうちに、神父さんは「日本人はキリスト教を信じない野蛮人だと思っていたけれど、日本に住んで見て日本人の素晴らしさがわかった」と言い出した。

それでキリスト教への勧誘はされなかった。

多分、『洗礼を受けて、地獄に落ちている(とキリスト教は言う)先祖を放置して自分だけが助かろうとする日本人が少ない』ことを、神父さんは理解したのだと思う。

会話や小説、映画の中で善悪や天国、地獄の話が出てきた時は、外国ドラマを見ている感覚で軽く笑い飛ばすことにしている。

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