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異なる価値観が内なる世界を変えてゆく


価値観とは
価値観とは、美しい、正しい、心地よい、理想的である、優先すべきだ、と言った「価値判断の基準や捉え方」を意味する表現である。簡単に言えば、「何に価値を見出すか」という感じ方のことである。
(中略)
価値観は人それぞれ、千差万別である。「あらゆる物事について価値観が完璧に一致する他者」の存在など考えにくいほどである。「価値観」という言葉も、「価値観の一致」「価値観の相違」「価値観の共有」というような、「他社との一致・不一致」を考える文脈で多く用いられる。

実用日本語表現辞典


こんにちは。
認定講師の葉月です。
突然ですが、 “はぴ” からニックネームを変えました。
変えた理由は、自分の名前の価値基準が変わったことにほかなりません。
私は自分の名前が嫌いでした。
でも、ニックネームを変えたいと相談した友人たち(もちろんオンライン上の付き合いです)が、私の名前を考えてくれたんです。
いろんな候補がある中で、この ”葉月(はづき)” がなぜか輝いて見えたんですね。
友人曰く「嫌な思い出しかない名前の意味が、みんなで真剣に話す姿を見て昇華(別の高度な状態になる)したんじゃない?」とのこと。
まさに、価値観が変わった瞬間でした。

さて、話を戻します。
せっちゃんにこのコラム
【価値観の違う人から離れる度に心は貧弱になっていく】
をリクエストしたのは、今の社会の本質が詰まっているように感じたからです。
価値観について話していたわけではなく、何かの話のつなぎとして語られた「違う価値観を排除すると心が狭くなっていく」というニュアンスの言葉は、その時の私の心をぐっとつかんだのを覚えています。


せっちゃんの共感コラムはこちらから
【価値観の違う人から離れる度に心は貧弱になっていく】


皆さんは、このコラムを読んでどう思いましたか?
「全くその通り!」とヒザをポンとたたいた方もいるかもしれません。
「そんなこと言ったって、価値観合わない人といるのは嫌だし」と、心がそっぽ向いた方もいるかもしれません。
「きれいごとばかりだ!!」と、怒りがわいた方も、もしかしたらいるかもしれません。

結論をお伝えすると、どれも正解です。
このコラムを読んだ方の価値観によって、感じ方は違うから。
価値観つまり価値基準が違うんだから、相手の意見を否定するのもちょっと違う。
自分の考えを押し付けるのもなんか違う。
ここが、最後の3行に表現されている、エンパシー協会の理念に通じるところです。

エンパシーがお互いの価値観の違いを歓迎する共感の仕方になります。
シンパシーでは、価値観の違いはどうしようもありません。
エンパシーがもっと広まると繋がりを感じながらお互いの違いを歓迎する関係性が広がっていく未来が見えるのだと思います。

せっちゃんのコラムより



 
むかしむかし、あるところにひとりの人がいました。
その人は私とは年齢も性別も、生まれたところも学歴も違う人でした。
共通点は人であること。
共通の話題もない、世間話をする程度の人でした。
趣味も食べ物の好みもできることもすべてが正反対。
でも、お互いの世界を大きく広げる存在となりました。
興味がない映画でも見に行ったら楽しかったり感動したり。
すぐそこのコンビニにも車で行くぐらい車生活だったけど電車での移動が案外楽しかったり。
山に登ったりって疲れるけど爽快だと気づいたり。
一人では絶対食べないものを食べたり作ったりするきっかけとなったり。

これ、わたしと夫の話です。
共通の知人にも、自分たちの子供にさえも「なんで結婚したの?」と驚かれる(あきれられる??)ほどすべてが正反対。
価値観の一致なんてひとかけらもないぐらい。
こんなにも価値観が違うのになぜ関係性が継続できているか。
最近理解したことですが、彼はエンパシーの達人だったんです!
彼は、自分は自分、私のことを「そうなんだねー、いいんじゃない?」とほっといてくれた。
シンパシーを示してくれない彼に対して「私のことなんか何にもわかってくれない!」と思ったこともありましたが、私は私でそもそも分かり合えると思っていない(笑)
本当はエンパシー(相手は相手自分は自分)気質なのに、シンパシー(同調・共鳴)推しで生きてきた私が、唯一疲れない人間が彼だったんですね。
そして都合のいい時だけ、「お、なんか楽しそうじゃん」て、いっしょに活動してみる。
それをお互いにちょっとうれしく思ったり。


自分の世界が広がるときって、自分にはない選択肢を受け入れたときなのではないかと感じます。
今までと違うテイストの服を着てみる
いつもは選ばないデザートをチョイスする
いつもより遠回りしてみたり
いつもは見ない星空を眺めたり
 
そこには、自分の知らない世界が広がっていて、
そこには、感動がある。

 
人間関係も同じで、
自分の幅を広げてくれる相手は
自分の知らない世界を持っている人だったりする。
自分と違う基準を持っている人だったりする。


 日本という国は島国で鎖国をしていた期間もあったので、一般の庶民が違う文化や人種と交流する機会が少なかった。狭い国土で周りに合わせて和を保つ国民性がはぐくまれた。
そんな時代背景も、価値観が一致することを大切にする風土の一端にあるのかな、なんて個人的には思います。


今の社会に目を向けてみると、何ごとも「基準値内」「普通」「標準」であることが過度に求められているように感じます。
「普通」の人物像って・・・なんだ??
「4人家族(両親ときょうだい)、父はサラリーマン。学力は中ぐらいで友人に囲まれた学生時代を楽しく過ごし、大学ではバイトと学業を両立、ストレートで就職して幸せな結婚して孫もできて寿命まで」
・・・これって誰の価値観??
今の時代、こっちのほうが少数派じゃない?なんて気もしないでもない。

私たちを取り巻く、この「普通」か「普通じゃない」かの価値基準が、今を生きる私たちを苦しめているんじゃないかと思うのです。
それに加えて「白か黒か」「いいか悪いか」「合うか合わないか」の判断、効率化やスピード感なんてのも合わさって・・・
食い違いがほんの一瞬訪れただけで、
フィーリングが合わない、シンパシーを感じられないと判断してしまう。
「この人無理だわー」って。
リスペクトする部分もあるのに。


お互いの違いを理解し合い、認め合える時間と心の余裕を持てないのは誰のせいでもない。

そうしないと、この今の世の中で自分が保てない。
みんな自分を保つのにせいいっぱいなだけ。

そんなふうに思います。


エンパシーは、誰でも身に着けられる、誰にでもできるスキルです。
この「理解を示す共感」のスキルを身に着けて、
自分の内なる世界を豊かに広げる人が増えるといいなと思います。

それが、他人の世界を認める第一歩となるから。

(筆者/認定講師 葉月)


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