4.誠意を欠いた言動(親鸞会会員による憂い)


1.なぜ、親鸞会の人間からは胡散臭さが漂うのか?

 親鸞会の人間の言動に胡散臭さを感じてしまうのは、私だけだろうか?特に講師や顕正講師など、組織内部の人間ほどそれが顕著である。これは一体どういう訳なのか、私なりに考えてみた。

 結論から言うと、「胡散臭い」とは言い換えれば「形式的」なのである。親鸞会では「善い行い」の形ばかりに囚われて、誠意が感じられない偽善的な人間が多い。

 親鸞会では救われたいのなら善行に励めと教えられる。そして「こういう事をするのが良い/言うのが良い」と、「善い行い」を具体的に勧められる。一例を挙げれば、法話会場に来た会員に「よく来られましたね」と声を掛ける、などである。
 加えて親鸞会では、「師の教えにはそのまま素直に従うべし」と説かれている。するとどうなるか?推奨されている「善い行い」を表面的な形通りやっただけで「自分は教えに素直に従って善い行いに努めている」と満足してしまう、否、自惚れてしまうのである。
 「一番大事なのは体や口ではなく心の行いである」と常に説かれているはずなのだが、その教えと乖離した言動を取る人間が講師部員などに見られるのは残念な限りである。


2.宗教という大義名分がもたらす弊害

 彼らの言動が胡散臭く形式的なものになってしまう更なる要因は、その「善い行い」が単なる道徳を超えて宗教的な動機付けが与えられているからではないかと思う。宗教という絶対的な大義名分があると、「その教えに従っている自分は偉い」という慢心を余計に生みやすい。だから形だけやっていても満足してしまうのである。

 誠意を欠いた言動は、その人個人ないし所属する組織の信用に関わる問題である。改善してもらいたいものだが、難しいだろう。そうした者達は大抵、尊大に構えておられるから。

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