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コーチの価値。(2019/1/30)

練習後の帰り道、電車内で1人の生徒に尋ねられた。
「あと何回、練習来られますか?」

学生コーチとして関わることができる残りの練習回数は、もう残り15回を切っていた日のことだった。

「終わりが見えている」というのは、時にモチベーションとなる、その一方で、それゆえに生じる葛藤がある。


去り行くことが分かっているコーチが、残せるものは何か。


自分がこれまで3年間のコーチ生活でやり残してきたことは、山ほどある。
毎年、送り出す生徒達に言われてきた言葉がある。

「もっと沢山教わりたかった。」

どんな思いを込めて伝えてくれたのかは分からないけれど、その度にいつも、自分が力を尽くし切れていなかったことを悔やんできた。

今、現役プレーヤーの生徒達には、そう思わせないようにしたい。ずっと、本当にずっと、そんな思いを胸に練習を進めてきた。


自分がコーチであることの『価値』は、どこにあるのか。


人間を品定めするような話になってしまうが、そんなことを考えた。
それは同時に、選手が指導者に何を求めているか、ということにもなるのかもしれない。

私は中高時代、共にその部活の競技経験者が顧問をしてくれていた。
中学生時代は、時に厳しく、時に鬼の如く厳しい女顧問の下で、部活をしていた。あって然るべき、ピリッとした空気感を作り出してくれていた。(今、振り返ってこそ、そのありがたさと偉大さに気づくことができるわけだが…笑)

その先生が、怠慢なプレーや練習を許さなかったからこそ、チーム全員がソフトボールの『おもしろさ』を感じることができたのだろう。

高校時代は、これまた顧問は女性の先生だった。
先生自身が学生時代は一流スイマーであったことも大きく、指導力は非常に長けていた。プール内に響き渡る声で、ガンガンと選手を煽る。言い換えれば、応援上手とも言えるだろう。
そんな先生だったからこそ、「あともう一踏ん張り」しながら泳力を鍛えることができた。


私は、いずれの時代も、顧問の先生が大好きになって卒業した。

大好きになって、ということからも分かる通り、最初は正直、そんなに好きではなかった。
これは、自分の特性として自覚しているのだが、基本的に私は、上から目線?笑で物言いをする大人を疑ってかかる。
それでも、徐々に心が開けていったのは、3年間という月日の中で、ちゃんと自分にぶつかりながら指導をくれて、
一人の選手として、結果を残させてくれたからだと思う。

つまり、指導者としての『価値』というのは『結果』と少なからず通ずる部分があるはずだ、と私は考えている。

どんなに熱心に指導しても、勝たせられなければ意味がない。


勝てなくても、生徒達は自分のことを慕い続けてくれるかもしれないが、本当の意味で『勝負の楽しさ』を教えられなかったという点において、自分の指導に合格点を与えることはできない気がする。

だからこそ、自分が参加する残り少ない練習において、どこまで、勝てるチームに引き上げることができるか。

これを、私がコーチを務めることで提供できる『価値』として、選手みんなの想いを大切にしながらも、勝負にとことんこだわった練習を重ねようと思う。

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