見出し画像

【随想】芥川龍之介『侏儒の言葉』①

 とりわけどうか勇ましい英雄にして下さいますな。わたしは現に時とすると、攀じ難い峯の頂を窮め、越え難い海の浪を渡り――云わば不可能を可能にする夢を見ることがございます。そう云う夢を見ている時程、空恐しいことはございません。わたしは竜と闘うように、この夢と闘うのに苦しんで居ります。どうか英雄とならぬように――英雄の志を起さぬように力のないわたしをお守り下さいまし。

芥川龍之介『侏儒の言葉』(短編集『侏儒の言葉・西方の人』)新潮社,1968

 我我の――或は諸君の幸福なる所以も兎に角彼等の死んでいることである。

同上

 人生は狂人の主催に成ったオリムピック大会に似たものである。我我は人生と闘いながら、人生と闘うことを学ばねばならぬ。こう云うゲエムの莫迦々々しさに憤慨を禁じ得ないものはさっさと埒外に歩み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思うものは創痍を恐れずに闘わなければならぬ。

同上

もし幸福と云うことを苦痛の少ないことのみとすれば、蟻も亦我我よりは幸福であろう。けれども我我人間は蟻の知らぬ快楽をも心得ている。蟻は破産や失恋の為に自殺をする患はないかも知れぬ。が、我我と同じように楽しい希望を持ち得るであろうか? 僕は未だに覚えている。月明りの仄めいた洛陽の廃都に、李太白の詩の一行さえ知らぬ無数の蟻の群を憐れんだことを!

同上

 わたしは不幸にも「人間らしさ」に礼拝する勇気は持っていない。いや、屢「人間らしさ」に軽蔑を感ずることは事実である。しかし又常に「人間らしさ」に愛を感ずることも事実である。愛を?――或は愛よりも憐憫かも知れない。が、兎に角「人間らしさ」にも動かされぬようになったとすれば、人生は到底住するに堪えない精神病院に変りそうである。Swift の畢に発狂したのも当然の結果と云う外はない。
 スウィフトは発狂する少し前に、梢だけ枯れた木を見ながら、「おれはあの木とよく似ている。頭から先に参るのだ」と呟いたことがあるそうである。この逸話は思い出す度にいつも戦慄を伝えずには置かない。わたしはスウィフトほど頭の好い一代の鬼才に生まれなかったことをひそかに幸福に思っている。

同上

 天才の一面は明らかに醜聞を起し得る才能である。

同上

 あらゆる神の属性中、最も神の為に同情するのは神には自殺の出来ないことである。

同上

 死は救いとなるか。自殺は一つの手段である。何の為の。勿論、救われる為である。何から救われるのか。勿論、苦しみからである。生きることは、苦しい。生まれ落ちた瞬間から、世界は地獄に変わる。僅かな喜びの水溜まりに顔を浸し燃え盛る業火から目を背ける者たちを尻目に、顔を上げて目を正面に据えて地獄を歩む者がいる。それは苦しむ者である。苦しみから逃れることが出来ない者、苦しみから逃れることを許せない者である。馬鹿だ、馬鹿だ、わざわざ、苦しんで、馬鹿だ。その通り。だが生来の生真面目さによって苦しみを引き受けることを人格の中心に据えられてしまった人間が、確かにいるのである。自殺は、意志である。誰のものでもない、自分を自分と呼ぶことの出来る精神の証明である。自殺は、勝利である。誰にも何にも自分を殺させなかった、生命の勝利である。自殺は、透明化である。肉体が消えて精神だけが残る。町の空気に、人の記憶に、残る。透明は、見えないだけでそこにある。

この記事が参加している募集

素晴らしいことです素晴らしいことです