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どっちでもいい、という感覚。アドリブとピントの話

ジャズってアドリブですよね。即興なんですよね。というお話。
これに関しては確かに即興音楽ですし、皆さんアドリブでソロをとります。

が、はっきりいってしまうと、それを意識したり論じたりするのは半端なリスナーや、ダサい評論家や、理解度の低いプレイヤーのみです。

個人的に色々な人と話したり教わったり自分でも感じますが、アドリブかアドリブじゃないかは、どっちでもいい、もっというとどうでもいい、です。

例えば毎日現場で演奏してたら、そりゃどっちでもよくなります、そんなものは。毎日のようにクラブで演奏して、レコーディングして、、みたいな事をやってた40-60年代のアメリカのジャズマンだってんなこたどっちでもいいと思ってたはずなんです。

チャーリーパーカーの音楽が何がすごいのかというと、アドリブだったからすごいわけではなくて、アプローチというか手法そのものを革命的に新しくして、かつそれが音楽的によかったからですよね。

キースジャレットの音楽が素晴らしいのは即興性ももちろんすごいですが、大前提、その音楽の良さにあります。
もちろん即興であるからこその美しさはありますよ。
同じフレーズを弾かないとかどうのって話はどうでも良いことです。

なにが言いたいかというと、音楽を語る時に、アドリブかどうかという話と、すごさと優劣を同時に語るということはピントが狂ってるよね、ということです。

音楽は、大前提として、良いかどうか、でまずは語られるべきで、その後人それぞれの深度で理解すればよろしい。

例えばパーカーの録音、あれって純粋な即興かというと違うんです。明らかに。
テイクを重ねて、実は内容をまとめています。
なぜか。
当時は録音時間に制限があったからです。

なので、パーカーは何テイクかリハーサルをし、かつ、誰も思いつかないようなラインを吹くことに全力を注いでる節があります。ビバップ黎明期の当時において、見せつけたいんですよ、自分は特別であると。

チャーリーパーカーのDonna Leeの演奏より
これらのフレーズ、毎コーラスで同じこと吹いてます。



チャーリーパーカーという人はおそらく世間が思っているようなジャズ大魔神ではなく、もっとオープンな、ストラビンスキーも聴き、ジュークボックスでカントリーが流れたら耳をすませるような、とても人間として成熟したユニークな音楽革命家なんです。

小難しい顔してジャズばっかり聴いてる、話のつまらないジャズオタおじさんなんかでは想像もつかないような人間性の広さがあるわけです。

ソニースティットという人がいます。
パーカーより確か少し年上で、パーカー出現とともにテナーに持ちかえ、パーカーが死んだらまたアルトを吹くという調子のいいサックスおじさんです。
非常に多作家で何十枚もアルバム録音を残しています。
僕はスティットが大好きで、何枚もレコードを持っています。デジタル化されていない音源を手に入れるために、当時レコードを買い漁ったので僕のレコード棚はスティットだらけです。

ただ、このスティット、どのアルバム聴いてもほとんど一緒です。一枚持ってればいいと思います。
選曲が違うだけで、演奏のクオリティも内容もほとんど一緒なんです。これをアドリブか、アドリブじゃないか、論じるだけでアホらしいんんですが、スティットは自分の言語で演奏しているだけで、生涯その内容が一貫して大きくかわらなかったってだけなんです。
それが退屈で、ジャズじゃないか?
そんなわけないですよね。
スティットの音楽はおんなじようなフレーズばっかりだし、構成も大体いっしょですが、紛れもなくジャズなんです。

スティットのこのプレイズってアルバムは最高です。ただ、ギターのフレディグリーンがいることでやたら縦ノリ感が強くて蛇足です。


こうなってくると即興性がないとジャズにならないかどうかも怪しくなってきます。

ほら、どっちでもいいですよね。
どうでもいいですよね。

コルトレーンのジャイアントステップスのそろが書きソロかどうか、どうでもいいですよね。

前も話したとおり音楽というのは時間芸術で、録音というのは録音という別の芸術媒体なんです。

ジャズのレコードは、彼らが毎日毎日、創意工夫をしながら演奏を進化させていった一瞬を切り取っただけの切り抜きなんです。

毎日毎日の真剣な演奏をしていて、アドリブかどうかなんて覚えてもいないだろうし、どうでもいいじゃないですか。

料理の上手い人が、例えば核家族の料理の担当の人が毎日料理を作ります。最初はレシピを参考にするかもしれませんが、だんだん毎日3食作る中で、飽きが来ないように工夫したり、家族の舌に合わせて味付けを変えます。
でも結果美味しいものを作るという目的で作るわけです。



そのくらいジャズマンというのはジャズを演奏するというのが日常でなくては土俵に立てないんです。

そういう事に思いを馳せず、部分的な事実で物事を語る人はピントが狂っています。ピンボケの議論は決して本質に辿り着くことはありません。

そんな議論をするくらいならゲーセンでメダルゲームをやってる方が100倍くらいましです。

ゲーセンのメダルゲームって、お金が増えることもないし、この世で一番無駄なことだと思ってます。

最後にもう一つお話。
尊敬するサックス仙人K師匠ですが、
ありとあらゆるお客さんや、評論家やらに、誰々に似てる、あのフレーズはロリンズと一緒だ、やらなんやかんや言われ続けたと。で、

最終的にそんなことはどうでも良くなった


とおっしゃっていました。

どっちでもよい、どうでもよいことでピントを狂わさず、良いかどうか、で音楽を楽しみたいなと思います。

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