できることvsやりたいこと問題の結論と、両方ない人への救済
どのように人生の意思決定していけばよいのか。
成功者たちの意見は、いつも 二つに分かれています。
「できることからはじめろ」
もしくは
「やりたいことだけをやれ」
いずれにせよ、片方をしていればもう片方も手に入ると、口を揃えて言います。
「難しいなあ」と、いつも思います。
前者は「できるから、やりたいようになる」パターンです。
主に、他者と比較して優れている部分が、自分の「できること」になります。
それを実行していると、雪だるま式に自分の「できること」の範囲が広がり、さらに人から必要とされ、やがて クリエイティビティを発揮できるようになると それは「やりたいこと」に変化していきます。
対して、後者は「やりたいから、できるようになる」パターンです。
これは自分の適性とか、周りに何を求められているかということに関係なく、内発的衝動によって自分の「やりたいこと」を持っているケースです。
単純な好奇心と、やりたいけどできない 理想と現実の間でもがくパワーによって、半ば 必然的に「できること」になっていきます。
どちらも説得力がある真理です。そして規模感はどうあれ、どちらのパターンも皆さんは経験していることと思います。
明らかなのは「できること」と「やりたいこと」の間には、強い相互作用があるということです。
もっと言えば これらの関係性は、きっかけとして「できること」スタートだったり「やりたいこと」スタートだったりするだけで、結局は「できること」が「やりたいこと」を創り、その「やりたいこと」は「できること」を創り、またその「できること」が「やりたいこと」を・・・というように循環しています。
上手くいっている人は、この循環の中にいるだけです。最初から唯一無二の能力(できること)、あるいは果てしなく大きな夢(やりたいこと)があって、そこを起点にした 長い一本道を黙々と歩んできたわけではないと 考察しています。
目の前にある小さな できること/やりたいこと のいずれかにコミットし、それがまた新しい できること/やりたいこと を生むという好循環の中で、それぞれのスケールを拡大してきたように見えます。
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問題は、いかにしてこの循環の中に飛び込むかということです。
就活生のとき、フレームワークを与えられ「できること」と「やりたいこと」についてずっと考えていましたが
「そんなものはないし、というか、分からん」
としか思いませんでした。
特に サッカーを長く続けていると、サッカー以外に「できること」が何もないように思えます。そしてサッカー以外に「やりたいこと」が、本当によく分からなくなります。
「できること」も「やりたいこと」もない人間です。
こうなると、例えば「やりたいこと」が見つからないから 立ち止まってしまう。すると「できること」も生まれず、どんどん狭い世界に閉じ込められて「やりたいこと」には益々出会えない。一種のトートロジーの中で、悪循環が起きます。
これは因果性のジレンマと呼ばれる「鶏(ニワトリ)が先か、卵が先か」に近いものがあります。
この論争に関しては生化学、数学、神学の立場からあらゆる見解が出されていますが、ここでは以下の言明を支持したいと思います。
「鶏は鶏という生物種だけですが、卵は鶏以外の鳥類も卵を産むのでどう考えても卵が先です。進化論から考えると鶏に近い種の卵から徐々に鶏という種に近づいていったということです」
「鶏は卵から生まれるが、卵は鶏以外からも生まれる」というのが一つのキーワードであるように見受けられます。
同じように「できることが先か、やりたいことが先か」のジレンマに置き換えるとどうでしょうか。
僕が立てた仮説はこうです。
「やりたいこと」は「できること」から生まれる。
しかし「できること」は「やりたいこと」以外からも生まれる。
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「やりたいこと」は原則、できると思っていることから生まれます。
「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」とはジュール・ヴェルヌ(海底2万マイルとかの)の有名な言葉です。例えば「空を飛びたいな」という想像から、飛行機という乗り物が生まれています。
「タイムマシンも同じように実現される、なぜなら我々はそれをもう想像できているから」というような文脈でよく使われます。
逆に言えば、人間は「実現できることを想像する」のです。実現できることを、やりたいと想像するのです。
今すぐ僕が 15年前にタイムスリップしてにジャニーズJr.としてデビューして芸能界のトップに登りつめることは想像しない。思いついたとしてもそれは妄想です。それをやりたいとは思わない。これは、どう考えても実現不可能だからです。
我々は無意識的に「できること」に制約を受けて「やりたいこと」を規定しています。
その「できること」には、自分をどれだけ信じられるかの具合に個人差があり、それを飛躍させられる人間が 他人が想像もできなかったようなことを成し遂げます。つまり、この場合の「できること」は未来の可能性を含むような、非常に広い範囲を意味しています。
だから自己効力感が強く 何でもできると思っている人は、当然 何でもやりたがるわけです。
しかし、それでも 確実なのは「やりたいこと」は「自分ができると思っていること」の枠内でしか発生しないという点です。
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「できることが先か、やりたいことが先か」のジレンマの答えは「できること」が先です。
「できること」vs「やりたいこと」問題は、まず「できること」を考えるべきです。
前述の通り「やりたいこと」は「できること」から生まれるけど、「できること」は必ずしも「やりたいこと」からも生まれるわけではないからです。
他にも「できること」が創られ得る場面がいくつもあります。
ザッと考えて 三つ 思いつきました。
① 生まれ持った特性
出自(血縁関係)、言語(日本語?)、身体(健康であることは何よりも素晴らしい「できること」だ)。
② やりたくなかったこと
子どもの頃やらされていた習い事、所属している(せざるを得ない)コミュニティでの雑用的仕事、リレーション形成・コミュニケーション能力
③ 相対的にできるとされてしまうこと
自分でどう思っているかに関わらず、誰かと比べてという文脈において、それができる人として周囲から求められる。特に環境を変えたときは、そのように偶発的に「できること」が発生する場合がある。
「やりたいこと」がなくても、こういうところから自分の「できること」は現在に至るまで 誕生し続け、知らずのうちに成長している可能性が大いにあります。
そこに気づけば「できること」も「やりたいこともない」という悪循環から脱することができます。
「できること」をして、それが「やりたいこと」を創っていくのです。成功者のサイクルに 招待されたも同然です。
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とはいえ「できること」は抽象的で 考えるのは難しいので、もう少し具体化していくための 文章を用意しました。
このフォーマットを開発(?)したのは、大学一年生のときです。サッカー部のトップチームにいて、自分だけ下手くそで「できること」が何もなくて、当然「やりたいこと」が生まれるわけもないような、今思い出してもしんどくなるような居心地の悪い地点にいたときです。
これは半分ネタですが
トップチームの 1年生で 一番 正確に サッカー部の鍵を 管理することが できる
これに気づき、心の拠り所にするように、持てる限りの自負とリソースを投下して この鍵を管理していました(病んでいた)。
「大学に入ったとき、同級生にものすごくうまい選手が2人いて、こいつらには勝てないと思ったのです。では自分が勝てるのはどこか。1年生は部室などのカギの管理をするので、まずカギについて完璧にマスターしました」
四年生になったときは主将として、150人のサッカー部員のトップに立ってマネジメントし 二度 日本一になりましたが、それを成し遂げる道のりの 最初のところは「鍵の管理」という「できること」でした。
ここから少しずつですが チームの仕事を引き受け、同期のまとめ役のようなことができるようになり、マネジメントとか組織の面白さに目覚め、信頼してくれる仲間、主将としての裁量を獲得して、そして生きがいのようにサッカー部のことだけを考えるようになりました。
「できること」をやって それが「やりたいこと」に変わり、また「できること」が増えていくような、そういう好循環をしている典型でした。
今の我々にも、それを考えることができるはずです。
社内でも クラスでも 家族でも 単位は何でもよくて、必ず何かの一番であることを探します。速くなのか、深くなのか、美しくなのか、粘り強くなのか、それがあなたの武器になります。そしてそのできることとは何なのか、です。
サッカー選手で一番 深く スポーツを 考えることが できる
今の僕の「できること」は、こういう感じです。
これは独りよがりな思い込みで 測定することはできないけど、自分で納得しているのであればOK、それは「やりたいこと」へと変わっていく、すなわち好循環に入るための一歩目の条件としては十分過ぎるほどに十分です。
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少し話は逸れますが、スポーツは分かりやすいです。世界のスーパースターを簡単にロールモデルにすることで「やりたいこと」が可視化されています。多分「やりたいこと」がみんな 真っ先にあるはずです。
それを目標にして努力をしますが、そう上手くもいきません。
他の世界と違って、自らのリソースは 身体能力とか技術という形で「できること」として同じく可視化されているので、だから それをチームメートと照らし合わせたり 今このチームに何が必要かということを考えたりして、自分を「できること」ベースでアジャスト(調整)していきます。
「やりたいこと」と「できること」の間で葛藤し、それをパワーとして活用していく術を磨いてきたのです。
これはスポーツをしてきたことの価値を伝える上で、面白いと思ってもらえる話の一つです(就活中の体育会生の方々へ)。
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出典:『生命を燃やすことと失うことの違いと思考の関係と、二元論への終止符』(先ほどと同じ記事内にある画像)
できることはやりたいことから、やりたいことはできることからしか生まれないという『小さい視野を選択すると思考停止に陥ります』。
「できること」は 他のところからも発生する、だから誰もが もう既に、何らかの方法で得た「できること」を持っている。そういう仮説を元にして、ここまで考えてきました。
この図では AもBも、他から発生する要因を持っています(外から矢印が飛んできている)。
ここにきて 矛盾することを平気で言いますが、同じように「やりたいこと」も「できること」以外の何らかの刺激によって生まれることも、たまにはあるでしょう。
外側の世界は、そういう自分の「できること」を反芻する暇もなく「やりたい」とだけ直感的に思えるような、そういう出会いで満ちていることも また事実です。
重要なのは『生命を燃やすことと失うことの違いと思考の関係と、二元論への終止符』にも書かれてある通り、視野を限定しないことです。何事も、あるか/ないかではなく、気づくか/気づかないかみたいなところに真実があったりします。
「できること」は必ずあります。「やりたいこと」も必ず見つかります。
それに気づくために、思考し行動してみるということは、今の自分にとって まぎれもない「できること」です。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。