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【神話エッセイ】 そしてぼくは途方に暮れる

みなさんはいらなくなった雑誌の処分をどうしているのだろう。

ぼくは結構な頻度でCDや漫画、小説を売ったり、処分する。それにはぼくなりのルール(そんなにたいそうなものではないが)があって、どうしてももう一度聴きたいCDや、読みたい漫画や小説は、また買い替えればいいと思っているからだ。そのほうがアーティストや作家さんにも余計にお金を払うわけだし。

だからというわけではないけれど、CDラックや本棚はいつも一定の数しか収まっていない。ちょっと増えてきたなと思ったら、読み飽きた本や聴き飽きたCDは売ったり処分することになる。残るは本当に必要なもののみ。

ただし、雑誌となるとそういうわけにはいかない。なぜなら、雑誌は再度購入することが困難だから。そりゃぁ、ネットで探せば、なんとか見つかるかもしれないけれど、なかなかそれも大変だ。というわけで好きな雑誌はどんどんたまるばかり。

これはどうしたものかと、思いを決し、一部新しめの雑誌を選んで、BOOKOFFへ買い取ってもらいにいってみた。雑誌って、ほんとに二束三文にしかならないのね・・・。

だったら週末に地元のコミュニティーセンターにもっていって処分してもらったほうがいいかなと思うようになった。というわけで、いらなくなった雑誌を束ねてみることにした。ところが、それが想像した以上に難しいことが分かってきた。

好きな雑誌だけに、いらないものといるものとの区別が難しいのだ。そしてバックナンバーを読み返していくうちに、もう一つの難問に直面することになる。

読みだしたら、止まらない。

途中から、この事実に気が付いた。もう何十年にもわたって愛読してきた雑誌だと、久しぶりに読み返して、好きだった文章にもう一度出会うことになる。これが面白いのだ。さらに、いくら好きな雑誌だって、意外と隅から隅まで読んでいないもの。特に数十年にわたると嗜好も変わってきたりするので、いままで素通りしてきた文章にハッとさせられることも多くなる。

そういうわけで、時間だけがどんどん過ぎていく。

何してたんだろ、と途方に暮れることになる。



 

出雲の神様で伊保大神(いぼのおおかみ)という神様がいる。

大国主命の御子・阿遲須枳高日子根命(あぢすきたかひこねのみこと)の御子の子。すなわち、大国主命のひ孫にあたる。

「播磨国風土記」に伊保大神のことが書かれている。

それによると、大和三山である香久山、耳成山、畝傍山の神たちのいざこざがあったという。香久山の神は畝傍山の女神を愛し、耳成山の神も畝傍山の女神を愛してしまった。三角関係というやつである。そのために香久山の神とと耳成山の神は激しく争うことになってしまった。三角関係恐るべし。

それをなんと出雲の伊保大神が聞きつけ、自らが仲裁に入ろうと思い立った。出雲から大和まで遠かろうに、よく仲裁しようと思ったものである。ひょっとしたら、当時、出雲と大和と繋がりがあったのかもしれない。

伊保大神は葦船に乗って播磨の揖保まで行かれたときに、大和からの使者によってすでに争いが収まった事を聞かされた。伊保大神は「せっかくここまできたのに!」と乗ってきた船をそこに履ふせ、いぼをふられた(不満に思われた)。だからこの地を揖保と名付けられたという。

何してんだろ、と途方に暮れたのではないだろうか。


さて、雑誌の選別の件に話を戻すと、結局、その日選別が終わることはなかった。部屋に散らかした雑誌を片付けながら、週末までに何とかなるだろうかと、また途方に暮れることになる。

みなさんはいらなくなった雑誌の処分をどうしているのだろう。教えてほしいものだ。



今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。 
 
よかったら、伊保神社にもいらしてください。

その際はひとこと、「そんな日もあるよ」と慰めてあげてください。

お待ちしています ♪


ヘッダー画像はうたげさんの画像をお借りしました。ありがとうございました。




こちらでは出雲神話から青銅器の使い方を考えています。

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