さぁ、おもう存分、泣こうではないか♪

「最近、歳のせいか涙もろくてね」

昔からよく使われることばだ。ほんとうにそんなに涙もろくなるものかななんて思っていたけれど、ほんとうだった。

最近、ほんとうによく泣くようになった。

毎朝欠かさず見ているHNKの朝ドラも、そこで泣けてくるかというところで目じりに涙がたまってくる。今、放送されている「舞いあがれ!」もちょっとした場面でウルッとくるのでハンカチが欠かせない。

若い頃はそんなではなかったんだよと弁解したいところだけれど、それを証明する手立てが今のところない。これが歳をとるということなのだろうか。



学生時代、忘れられないのは友人Aとの別れだろう。お互い卒業後は地元に帰ることなっていたが、Aが先に地元に帰る日が決まったので、お別れにいった。Aには彼女がいたので(ぼくは当然いなかった)、ぼくはいいよと断ったが、ぜひ来てくれといわれ、しぶしぶ出かけることになったのだ。

新幹線のプラットフォームにはすでにAと彼女が到着していた。もうすでに彼女は泣きだしている。ほかに友達はいない(ぼくだけきてしまったのか!)。

(やばい、これは・・・)

なぜ、Aはぼくを呼んだのだろう。彼女とふたりで別れを噛みしめればよかったんじゃないだろうか。すると、ふとAがぼくのところにやってきて、

「今までありがとう、楽しかったよ」

といって、握手を求めてきた。

そんな青春マンガじゃないんだからと思いながら右手を差し出した瞬間、突然涙があふれて止まらなくなった。

オロローンッ、オロローンッ(涙)

かんちゃーん(あれ、誰と間違えているのかな?)!!


そうだった、Aと彼女を結び付けたのはぼくだったんだ。

あれ、ぼくは昔から泣き虫だったのか・・・



出雲神話の中で個人的にもっとも哀しい別れといえば、大国主命と少名毘古那(スクナヒコナ)神との別れだろう。大国主命は国造りを始める時、隣にいつもスクナヒコナがいた。スクナヒコナと大国主命に関しては面白い話が多くて、いつか紹介したいと思うのだけど、長くなるので今回は割愛させていただく。

スクナヒコナは国造りの途中で、粟に弾き飛ばされて海のかなたに消えてしまう。このときの大国主命の心理描写はまったく述べられていないが、さぞ悲しんだことだろう。大国主命も友との別れに際し、男泣きしただろうか。

その粟で弾かれた場所にスクナヒコナは祀られている。粟島神社である。



ついに司馬遼太郎原作の「峠 最後のサムライ」がDVD化された。

映画公開時は初日に観に行った。「峠」はぼくが最も愛する愛読書。もう何回読んだかわからない。


これを見るまではぜったい死ねない(おおげさ!)と思っていたが、実際に観たときは、あらすじや画面を追うのが精いっぱいで不思議なことに泣くことができなかった(無念・・・)。


早速、DVDを購入し妻子のいない時を見計らって思う存分楽しもう♪

今回は家で一人で見ることができるので、思いっきり泣くことができる。

さぁ、おもう存分、泣こうではないか♪


・・・なんだか泣く話ばかりになっちゃったな。



今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。 
 
よかったら、粟島神社にもいらしてください。

スクナヒコナはきっと泣かずに待っててくれるはず ♪

お待ちしています。



こちらでは出雲神話から青銅器の使い方を考えています。

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