堂々と生きていこう ♪
地元のラジオ局を聴いていると、だんだんなじみのラジオパーソナリティーができてくる。何度も聴いていると、声だけで誰がしゃべっているかわかってくる。
地元のラジオ局はTV局と連動していることが多く、ラジオパーソナリティーがTVに映ることもある。ぼくはなるべくラジオパーソナリティーの姿を見ないようにしている。
ぼくが想像していたラジオパーソナリティーのイメージとのギャップがありすぎて、いつも幻滅するからだ。もちろん、これはラジオパーソナリティーが悪いわけではけしてない。ぼくが悪いのはわかっている。ぼくの問題なのだ。
ラジオパーソナリティーの声があまりにも耳に馴染み過ぎているために、おそらくぼくはその姿を勝手に想像してしまい、いいイメージを作りすぎているためであろう。
同様のことが、このnoteの世界でもある気がする。前にも書いたことだけど、(自分の姿を最初から見せている人は別として)ぼくのように文章だけでイメージを膨らませている人は、相手が勝手に姿を想像してしまい、いいイメージを作りすぎているのではないかと不安になる。
noter(noteの世界の住人はこう呼ぶらしい)同士が出会って「凄い素敵な人でした♪」なんて記事を目にすると、ぼくはほんとうに申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
もし、フォローしてくださっているnoterのみなさんがぼくに出会ったときに、「うわぁ~、想像していたのより全然キモイなぁ(がっかり)」と思われてしまっては申し訳なく思うのだ。よってぼくは日々、自分のことを正確に伝えようと腐心している。
先日もnoterのみなさんの想像上の自画像を盛る盛る盛り盛りで描いた。
ただ、鏡に映るぼくの姿とどんどんと離れていっているようで、非常にこころぐるしいのが正直なところだ。
こうなっては、これからもなるべく皆様の前に醜態をさらさぬよう、ひっそり暮らしていくしかないなんて思っている。どうか、みなさん、ぼくはひっそりと生きていきますので、お探しにならないでください。
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出雲神話でどんどん姿が変わってきているのではと、ぼくが考えるのは大国主命である。
「古事記」には、大国主命の特徴として、スサノオが「葦原醜男(あしわらのしこお)」と呼んだように、顔や体にやけどの跡があったのではないかと想像している。さらには八十神の従者扱いだったときに、おおきな袋を担いでいた姿も印象的だ。
ただ、現在の大国主命の姿はおよそこういう風なイメージではなかろうか。
二つの米俵に乗っかって、片手に袋をもち、もう一方の手に打ち出の小づちをもっている。米俵や打ち出の小づちは、いったいいつから加わったのだろう。
ひょっとして、一寸法師から譲り受けたのだろうか(大国主命が先だからそれはないか)。
調べてみると、どうやらインドの神様で七福神のひとりである大黒天と大国主命が神仏習合したときにイメージが付け加わったらしい。大黒天は豊穣の神様で、打ち出の小づちを持っていたという。さらに福袋も持っていたことから大国主命とイメージが混じり合ったのだという。
それでは全然、大国主命の最初のイメージと違うではないかと思うけれど、まぁ大国主命は心の広い神様だから、そんなことは気にしないのかもしれない。
だからぼくも自分の姿など気にしないでいこうと決めた。しょせん、他人が持つイメージについて思い悩んだところで、どうにもできないことなのだから。というわけで、みなさんに嫌われようが、ぼくは堂々と生きていくことに決めました(笑)
大国主命は出雲大社に祀られている。
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今回も最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
よかったら、出雲大社にもいらしてください。
あなたのコンプレックスも解消されるかもしれませんよ ♪
お待ちしています。
こちらでは出雲神話から青銅器の使い方を考えています。
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