『チョコレートドーナツ』を観た話

『チョコレートドーナツ』という洋画を観た。

この話は男性同士のカップルが、不遇な環境にある障害を持った男の子を育てるという話だ。1970年代の実話を基に作られたこの話は、まだ同性カップルに対する風当たりも強く、終わりもハッピーエンドではない。

同性であるから差別を受け、結婚という形に昇華すらできず、子供の保護権をもらえないという実態は、今もなお残っている。なぜ、同性を好きになることが差別に当たるのだろうか。

私には小学校で出会った一人の親友がいる。彼女は小学校、中学校と彼氏もいたし、恋する対象も男の子だった。高校に入って、彼女が付き合った人は同世代の女の人だった。彼女は、中学校の部活で仲の良かった四人組の中で、バイセクシュアルになったとカミングアウトした。

私たち四人は、同世代の中でもかなり思考回路が大人ぶっているほうで、よく社会現象などに文句を言う質だった。カミングアウトされ、私たちから出た言葉は「素敵だね」だった。なんの他意もなく、この言葉を言える人が世界にどれだけいるだろう。

バイの彼女は、会うたびに「少数派といわれるカップルに対する制度はまだ整わない。私は家族に言えるけど、相手は家族に自分が女の子を好きだといえない」と言った。この世の中には、多くの不条理が存在する。同性愛やトランスジェンダーへの理解者が少ないのは、実は身近にそうした存在がいると知らないだけのような気もする。

私は小学生のころ、ずっと男の子に生まれたいと思っていた。女の子の格好をするのが何より嫌で、スカートは履かなかったし、家族が買ってくる女の子らしい服はほとんど着ようともしなかった。バレエを習っていたが、そうした衣装はコスプレとしてとらえていた節があったのだと今では思う。

肉体と精神の性別に違和感を覚えるトランスジェンダー。恋愛対象が同性の人たち。そうした人は、隠している人も含めれば、かなりの数が存在するといわれている。そうした人は、声を上げなければ自分たちの人権を守れない。なぜ彼らにとって自然な欲求を満たすために、周りの人に奇異な目で見られなければならないのか。

映画『チョコレートドーナツ』においてもそうだ。彼らはどうしても大切に育てた子供を最後まで自分たちで育てたかった。それだけなのに、裁判ではゲイであることを否定的に取られる。なんで。どうして。その苦悩に触れたとき、観客は涙が止まらない。


この事実に触れても、なんとも思わない人がこの世の中にはいるでしょう。彼らはきっと、彼らの中しかない小さな世界で、自分で測ったベクトルで生きているのだと思います。それはもったいないことだと思います。多くのことを知ったほうが、この世界を楽しむ術を見つけやすくなるとも思います。この映画を作ってくださったすべての方に感謝を込めて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?