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【雑記】『論理哲学論考』とかいう難し気な書物を、物書きとして血肉とするべく

 すこーし背伸びをしまして、難し気な哲学の本を参考にし、ひとつ。物書きさん向けに面白そうな話を。

 哲学について学があるわけでもないのですが、ちょこちょこ知識の幅を広げてはいますから。無名のアマチュア作家の戯言と思ってお付き合い下さいませ。
 今回参考にするのは、

 ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(著)野矢茂樹(翻訳)『論理哲学論考』。
 やや、何やらこの漢字の羅列だけで読むのを敬遠してしまいそうですが、これは…。
 ウィトゲンシュタインが導き出した答え

語りえぬものについては、沈黙しなければならない。

論理哲学論考

 なぬ。
 ちなみにこれ、名言として扱われているらしい。

 まず、ウィトゲンシュタインの主張を乱暴に、簡潔に説明するならば
「愛とか善悪、あるいはなぜ自分が生きているのか。など言語の限界を超えたものについては、そもそも語り得ない。以上、哲学終わり」
 もう少しかみ砕けば、愛とか神とか。そんな抽象的なものを論理的に語ることはできない。それをあたかもわかったように語れば、誤る。だから、黙っとけ。ということらしい。

 ここで僕が考えたいのは哲学ではない。物書きとして、この考え方が執筆において意味のある物か否か。ということ。ある種小説の教則本として、自分の血肉にしてやろうと企んでのものだ。トリッキーだね。
 僕はこの「言語の向こう側の領域」を、文学なら到達できると思っている。論理的ではなく、とても感覚的に共有できると。
 有名作で言えば村田沙耶香の『コンビニ人間』が印象的だ。とても好きな作品で、本作は言語の向こう側の領域を見た感覚があったことを強く覚えている。
 この作品は、言語化して自分の中で落とし込める範疇を超えている気がしていて、コンビニ人間って言葉が、もっと独り歩きして言語として発展していっても良いのにな。とも思ったりしてる。ん?意味わからんかな。まあ、いいや。コンビニ人間については、またの機会に。

 ここで文学的視点で感情の言語化について考える。
「笑いと悲哀、加えて同情の感情です」と、言われたとして、あなたは上手く解釈できるだろうか。日常会話なら「いーや、それどんな気持ちなん?」と聞き返すだろう。では、と。
「愛する人がタンスの角で小指をぶつけて悶絶している姿を見たような気持ち」と伝えれば、「笑いと悲哀、加えて同情の感情」の解像度は上がるだろうか。
 これは単なる比喩表現にすぎず、一文だけを捉えれば的確とも言えるし、まったくもって意味不明だと突き放されることもあるだろう。個々に価値観が違い、さらには言語理解度も違う。なんとなくわかるしよくわからない。そんな表現も文学ではただちに排斥されるものではない。この微妙なニュアンスに込められる面白さもあるし、一文ではなく作品全体を通して必要になってくる場面もあるだろう。

 表現を簡潔に、例えばエモいとか。そんな言葉があれば便利なのだが、またその表現も不確定さがある。ウィトゲンシュタインの言う「語りえぬこと」に該当する。
 秀逸な文学は、タイトルから最後の一文に至るまでぬかりない。これはときに単なるエンタメではなく、芸術と言われる。
 ウィトゲンシュタインも、別に今の言語の外側の言語を作り得ないとは言っていない。
 しかし小説で論じたり問うのは良くないのだろうとも思う。キャラ固有の哲学を表現する際にも、「語る」必要がある。秀逸な作品とは、一貫して語っているのみである。

 物語である以上、物を語らなければならない。そして、僕はここ一年ずっと、物よりも語りを尖らせるよう努めてきた。
 技術を会得したり、多少のリズム感は向上したかもしれない。しかし、一貫して語れていたか。自分を問い詰めなければならない。アマチュアとプロの差。
 語りに重きをおいて執筆に励んできたのには理由がある。やや脱線するが、聞いてほしい。それはChatGPTを始めとした生成AIの飛躍的な進化だ。

 生成AIが台頭する未来は近い。人間の書いた小説が選ばれるためには。二通りあると考えている。
 ひとつ、作者が魅力ある人間であるということ。人間力と言い換えても良いかもしれない。作者個人の魅力の有無は作者自身で量れる物でもない。カリスマ性、あるいは読者とのフィーリング的な部分に委ねるしかない。あとは知名度とか属性、背景や境遇など。それらで読者を惹きつけるような人。
 もうひとつは、文体にファンを作るということ。文体もまた、属人的な表情が出るだろう。ある程度コントロールできうるけれど、表層的な文体では、おそらく通用しない。AIに駆逐されないレベルの文体が要求される。その自分の文体を極めていくことこそ、AIに勝つ唯一と言っていい要素だと考えている。この属人的な文体は、AIでもトレースするのは不可能じゃないかと考えている。
 その両面を極めているのが村上春樹なのかもしれない。

 一方で、今から約20年前に大ヒットした美嘉(著)の『恋空』という作品をご存じだろうか。webから書籍化された小説だが、これがまた特徴的な文体だった。
 当時の僕は中学生か、高校生か。そのくらいの年代だった。女子を中心に話題になっていたと記憶している。ケータイで無料で読めるからと、少しだけ読んだ記憶がある。
 当時の黄昏少年にはまったくもって響かず、最後まで読めなかったのだが、令和になった今、再度目を通してみると、当時の空気感が香る。
 当時の友人間とのメッセージツールと言えばEメール全盛期。『恋空』では、友人とコミュニケーションするようなEメール的な文体と日記調の独白的文体。この文体こそが受けたのではないか。とも考えている。その馴染みある文体で、ハードな内容が盛り込まれているのだから、当時の10代には刺激的だった。
 『恋空』を最後まで読んでいない僕が語るのも見当違いかもしれないが、あのころ10代が熱中した理由も、肌感覚でわかるような気もする。
 これから先、もしも生成AIの小説だらけになったとしても『恋空』のような作品はきっと求められる。賛否のある作品だということは知っているが、事実として売れた作品であって、ここに答えのヒントがあるように思えてならない。

 ああ、すまない文体の話が主になってしまった。
 とっ散らかったのでまとめると、
 愛だとか死だとか。そういう物はウィトゲンシュタイン的、哲学的には語り得ぬもの。なのだろうが、物語として描くのは良いし、哲学的なオーラを纏った小説もまた良いと思っている。語り得ぬものを、存分に語ってほしい。言語の向こう側に接近するのも、文学の醍醐味ではないだろうか。
 僕ら読者は感受した物を無理に言語化しなくて良い。かといって沈黙しなくてもいい、酒でも飲みながら語るなり、浸るなりすればいいだろう。
 しかしまた僕ら物書きとしては、追求して物にすることが求められる。が、そんな難しいことばっか考えて創作なんてやってらんねえ。だから、こういうちょっとしたことを蓄えながら、徐々に身体へ馴染ませて、自然と筆遣いに反映されるようインプットとアウトプットを配分して、作品を書き上げればいい。継続性が大事。
 小説を書く上では作者のあらゆる知見が物になる。哲学かもしれないし、一輪車を上手く乗りこなすコツかもしれない。とにかく無知の知を広げていくことは重要だ。がんばろう。

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