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【連載小説】オトメシ! 3.牛丼屋の朝食ライジング

こちらの小説はエブリスタでも連載しています。

エブリスタでは2024.1.9完結。noteより更新が早いです。





♦ ♦ ♦
――2002年4月20日
 私は高校生になった。
 小学校高学年から不登校でろくに学校なんて行っていなかった。
 イジメとかグレてとか明確な理由はなかった。
 でもなんとなく人付き合いが苦手で友達と呼べる同性の人間はひとりもいなかった。
 それでも人並みの学生生活がしたくて、ろくに勉強もできなかったけれど、私立の高校に入学して一週間が過ぎた。
 ♦ ♦ ♦
 
 今日は営業で姫原を同行させ出張に出かけていた。
 
「ちょっと早いが昼飯にするか」
 
「あいあいさ」
 
 と俺に対して敬礼する姫原軍曹は、今日も上官にめしをおごってもらう気満々である。

 全国いたるところにある牛丼チェーン店。
 
 時刻はまもなく午後十一時に差し掛かろうかというところ、入店し着席。
 
「ねば牛朝食、牛二倍盛りでお願いします」
「私はカレー並で」
 
 昼飯を食べに来たのに姫原は俺に対して昼なのに朝食かよ、とでもツッコミたげに俺の前に置かれた水の入ったグラスを見つめ、「グルメな部長なら、ここは牛丼つゆだくとか、ねぎだくとか、そんな具合でオーダーすると思ってましたよ」と、思いのほか俺が朝食を注文したことに関しては引っかかっていないようであった。
 
「つゆだくってのはあんまり好きじゃない、牛丼全体の味のコントラストが弱くなるから」
 
「へえ。よくわかりません!」なぜか声大き目、誇らしげに言う。
 
 わからないことを素直にわからないと言う姿勢は新人社員として評価してやるが、せめてもう少し申し訳無さそうに言いなさい。
 
 一分もしないうちに、姫原の前にカレーが配膳される。その後すぐに俺の注文した料理も運ばれてきた。
 
 ライス、オクラと温玉の入った小鉢、みそ汁、牛小鉢の二倍盛り、かつおぶし。これが俺のオーダーした朝限定の定食だ。
 
 食べ方にはこだわりがある。
 
 まず、かつおぶしをオクラに半分振りかける。残り半分はみそ汁に投入。
 
 そして最終的に牛小鉢をライスの上に乗せるのだが、その前にライスの上へ無料トッピングの紅ショウガをトング三回分つまみ入れる。そしてこのライスに紅ショウガをまんべんなくすき込む。これで特製紅ショウガライスの完成だ。
 
 次に小鉢の中に盛られたオクラと温玉。この温玉をライスのど真ん中にオン。小鉢に残ったオクラには、少量の醤油をたらし一気に口へかき込みオクラを完食。
 
「カレーをライジングする」
 
 と俺の口調を真似た声が目の前から聞こえる。UEFAチャンピオンズリーグを制した時に優勝トロフィーをいざ掲げんと、七味唐辛子を両手で持ち、わざと俺の視界に入るよう突き出している姫原。
 
 七味唐辛子をかける瞬間にキラキラしたテープが軽快な爆発音と共にはじけ飛び、スタジアムの大歓声がお前を祝福してくれることだろうよ。
 
 いかにもツッコミ待ちで、カレーに七味唐辛子を振りかける姫原を無視しつつ、お待ちかね。ライスの上に牛肉を君臨させる。
 
 現在目の前に残るはライジングした特製牛丼とみそ汁。
 
 オクラでねとつく口の中を一旦みそ汁でリセットする。半量入れたかつおぶしがよく効いている。香りと旨味のレベルを一段引き上げている。
 
 そして牛丼。一枚肉を持ち上げて目の保養。して食らう。
 
 ここの牛肉は脂身がややしつこい、それがまたライスとの相性抜群なのだが、予め混ぜ入れていた紅ショウガライス。これを口に残る濃い味の牛肉が残るまま丼ごと持ち上げてかきこむ。
 
 牛肉の甘辛い味付けにさっぱりとした紅ショウガの酸味。
 
 一生食える。
 
 そう思わせるほどに箸のスピードは上がって、詰まりかける喉へ風味の効いたみそ汁で流し込む。快感至福。
 
 中盤からは、牛丼に七味唐辛子を振りかけて味と香りにアクセントを付けて食らいつくすのだ。
 
 本来七味唐辛子の使い方はこうだ。と言いたくなって姫原のカレーを見ると、むせ返しそうになるほどカレーが赤く染まっていたので言うのをやめた。
 
「部長、それでこないだ言ってた私に最高のステージ用意してくれるって。あれどうなりましたか」
 
 ハフハフとカレーが熱いのか、唐辛子で口が辛いのかわからないがやや悪い呂律で姫原は言った。
 
「ああそれな。今俺の知人を介して準備中だ」
 
 あのライブの後、俺は早速行動していたのだ。
 
「そんな凄いライブステージ用意されても十中八九上手く歌えませんよ?」
 
「いや、ライブステージとはちょっと違うな。どちらかといえばレコーディングだ」
 
「いきなりCDデビューですか?」
 
「ネットデビューだ」
 
 現代ではネットから人気に火が付き一躍スターになるミュージシャンも多い。今時ライブ活動だけで注目を集めようなんてそちらのほうが難易度が高い。
 
 俺は昔のバンドメンバーである高瀬川たかせがわモリゾウに協力を要請していた。
 
「だから、来週レコーディングする」
 
「あいあいさ」
 
 今こいつの中でブームなのかわからないが敬礼した。辛味で唇を真っ赤に腫らせて笑顔を咲かせながら。

 後日。
 
 賑やかな国道を二本先入った住宅街。俺と姫原は高瀬川たかせがわが住む一軒家に着いた。
 
「え、ここですか!?」
 
 姫原には俺の友人が用意したスタジオでレコーディングするとだけ伝えていたから、まさかこんな住宅街のど真ん中にある家であることは予想外だったのだろう。しかし高瀬川の家は豪邸とは言わないまでも、周りの家々と比較しても金の匂いがプンプンする程度には見事な家屋だ。
 
 高瀬川の家系は代々金持ちであるが、別に親のすねをかじってこんな立派な家に住んでいるのではない。高瀬川モリゾウはいわゆる有能。職業はシステムエンジニアで現在はほとんど家の中で仕事をしているらしい。この家も自分の金で建てたと言っていた。こいつを揶揄するならば独身大貴族、といったところだ。
 
 独身にこんな家いらんだろ。と言いたくもなるが昔から高瀬川は自分のこだわりのある部分には惜しみなく金を投じるようなやつだ。その性格を理解すればなんとなくこの住まいも理解できる。
 
 インターフォンを鳴らし、ややして扉がカチャっと開く。
 
 口の周りに無精髭を生やした小太りのおっさんが出てきた。また少し太ったか?
 
 こいつが高瀬川たかせがわモリゾウ。
 
「よお五十嵐、久しぶりだな。まあ入ってよ」
 
 言う高瀬川は俺の後ろに立つギターのハードケースを背負った姫原の姿をチラチラと見ていた。
 
 玄関を抜けて直進、三〇畳はあるだろう大きなリビングキッチン。やけに白い照明の真下には木製のテーブルに四脚の椅子。それ以外にはテレビやちょっとした家電が見えるくらいで殺風景だが、黒めのグレーを基調とした全体の部屋の雰囲気は居心地よく感じる。
 
 俺がその木製テーブルに据えてある椅子に座ると、横の椅子に姫原が座る。
 
 高瀬川は奥のキッチンからコーヒーを運んでくる。
 
 そんな気を使うような仲でもなかろうに、今日はやけに気合が入ってるな。姫原という若いネエちゃんがいるからカッコつけたくなる気持ちもわからんではないが、まず無精ひげとダサい部屋着をなんとかしたほうがいいのでは。
 
 高瀬川はカタカタカタとコーヒーカップと皿を慣れない手つきで運び、まず姫原の前に置く。どうぞと言ってキッチンに戻り、人数分運んでくる。

 三者のコーヒーがテーブルの上に並んだところで、高瀬川も俺と姫原の前に座る。
 
 あのー、と添えて姫原は「スタジオは?」と言う。
 
「この家の中にあるよ」と高瀬川が言うが、清潔感の欠けるむさいおっさんが言うと不信感があるのだろう。姫原はなんとも浮かない表情である。

 姫原に高瀬川の素性を説明し、俺と昔バンドメンバーでベースギターを担当していたことを伝えると、同じ音楽仲間であると親近感を得たのか少し姫原の表情も柔らかくなった。
 
「で、この子が五十嵐が認めた歌姫さんってことだよね」
 
「まあ、そうだな」
 
 俺はコーヒーを一口飲む。これはただのインスタントコーヒーだな。
 
 高瀬川は「へぇ、楽しみだな。控えめに言って五十嵐が認めるほどだなんてすごいね姫原さん」と姫原に向かって言う。
 
「そうなんですか?」
 
 丁寧な口調で滑舌よく返す姫原。
 
「そもそも五十嵐が人を褒めることなんて滅多にないし、まして姫原さんのために協力してほしいと僕に話しがあった時は控えめに言って本当驚いたよ。五十嵐をそこまで突き動かすほどの歌声の持ち主がどんなもんかって。もはや聴かなくても推測できるほどなんだろうとは思うけど、五十嵐はもう音楽に関して興味ないと思っていたから」
 
 わざとらしく含みのある言い方をした高瀬川が余計な事まで口にしそうで嫌な予感がした。
 
「どういう意味ですか?」
 
 さてこそ姫原は高瀬川が欲していたであろう言葉を述べると「いや、五十嵐はもう音楽やめたから」と言う。
 
 二人の視線が俺に刺さる。さあ理由を言えという姫原の視線と、面白半分で俺から理由を話させたがる高瀬川の視線。
 
「あー、だから高瀬川な。あのことは言わないって約束だろ」
 
「だから僕は何も言ってないじゃないか。当時のことなんて一言もさ」
 
 俺はもうギターをやめた。歌うこともやめた。正確にはできなくなったというほうが正しい。
 
「今話すとややこしいからまた機会があれば話してやるよ。ったく高瀬川にお願いしたことを悔やむよ」
 
 と厳しい口調で高瀬川を睨むのだけれど、高瀬川はニヤリと笑みを浮かべていた。こいつめ……。

 俺たちは高瀬川邸内部にある一室のスタジオへ向かう。厚い扉を開けてスタジオに入ると一通りの音楽機材が揃った防音室に踏み入る。
 
「五十嵐ギターあるけど触ってみる?」
 
「いや、いい触らねえ」と言いつつギタースタンドに立てられた数本のギター。その一番手前フェンダー製のエレキギター、青いボディのストラトキャスターに自然と思い馳せる。それはまるで俺が昔愛用していたエレキギターのようだったから。
 
「セッションします? 部長」
 
 と姫原はギターのハードケースを開けながら俺に言う。
 
 バカいえと一蹴して、スタンドマイクから繋がれた線の先にあるパソコンで高瀬川はレコーディングの準備を進める。マイクとパソコン一台あればレコーディングできる時代か。そりゃみんなネットにアップするよな。
 
 使うかわからないけれど一応映像も撮っておくと高瀬川はカメラもセットして、姫原はマイクの前にギターを構えて立つ。
 
「へえマーチンか」とレコーディングの用意を終えた高瀬川が俺と横並びで立ち、腕組みして呟く。
 
 姫原が持つアコースティックギターはマーチン製のドレッドノート。ボディのくびれが小さく迫力あるサウンドが特徴で、アコースティックギター奏者なら一度は憧れる代物だ。
 
 高瀬川が言いたいことはわかった。強いギターでありその音色は人々を魅了する。しかしながらその強いサウンドを持ったギターであるからこそ扱いが難しい。弾き語りとなればこの音に負けないくらいの声量も必要になってくる。
 
 俺も過去にこのドレッドノートの音圧に飲まれてしまっている売れないミュージシャンを何人も見てきた。
 
 だが、姫原は違う。このドレッドノートを見事に飼い慣らし自分のパートナーとして、自分を引き立てるアイテムとして選択しているのだ。
 
「はい、じゃあいつでも歌って大丈夫だよ」
 
 姫原は目を閉じギターを掻き鳴らす。
 
 ライブ会場とはまた違う、そしてライブ会場の外で聴いた時ともまた違う。スタジオ特有の音の籠り具合にドレッドノートから発せられる音色に圧倒される。
 
 そして、姫原はドレッドノートの迫力に負けない強烈でいて繊細な感情表現ある歌声をマイクに向かって解き放つ。
 
 やはりそうだ。姫原の才能は本物。
 
 その証拠に音楽通である高瀬川は、俺の横で肩を揺らし、音が入ってしまわぬよう声を押し殺しながら泣いている。
 
 レコーディングは一時間とかからず三曲の収録を終えた。
 
「なあ五十嵐、僕は控えめに言って死ぬほど感動したよ。彼女はきっと成功すると思うよ」
 
「だろうな、俺もそう思う」
 
「もう一度、音楽やる気になった? 五十嵐もメイルに重なる部分があって今こうやって姫原さんを……」
 
「何コソコソ話しているんですか?」
 
 姫原が割って入る。
 
「いや、なんでもない」
 
「何かさっきから私に隠し事してない? そういうのいくない」
 
「昔のことだよ。気にすんな」
 
 不服そうな顔の姫原に、小太りの気さくを装ったおっさんが「そういえば姫原さんってメイルのファンなんだって?」と言った。
 
「はい、めっちゃ好きです。私の憧れ」
 
「実は僕と五十嵐はね、昔メイルとバンド組んでいたんだ」
 
「え、うそ!!」
 
 姫原はあんぐり開いた口を隠すように手を当てて、俺を見る。
 
「ボーカルの天神てんじんメイルとギターボーカルの五十嵐レンダのツインボーカル。ベースが僕、高瀬川モリゾウ。あとドラムは今在家いまざいけキョウシロウってやつがいて……」
 
「はあー! なんで黙っていたんですか部長!」
 
 バシッと俺の腕を叩く姫原。
 
 あー、面倒くさいことになったら嫌だったから口止めしたのに、と高瀬川を睨んで「だからそれは言うなって口止めしていただろうに」と言った。

「いいじゃないか。控えめに言っていずれバレるんだし」
 
「ライディスですよね」
 
 ライジングディストーション――通称ライディス。当時俺たち四人で結成されたバンド名だ。
 
「なんで知ってるんだ?」
 
「ファンならそりゃ知ってますよ。メイルがメジャーデビューする前に所属していた伝説のバンドくらい。それがまさかこんなおじさん二人だなんて信じられない!」
 
 伝説なんて英雄譚は似合わない。
 
 なんの因果か陰謀か。姫原の声に心底惚れてしまった自分が情けないとすら思えてしまう、これもきっとメイルの声の影に魅せられているだけだろう。そんなことはわかってはいるけれど、それでも。
 
 ポツリと高瀬川が「なあ五十嵐、昔みたいに俺たちももう一度バンドやろうぜ」と言った。
 
「何言ってんだよ、俺はもう音楽はやめたんだ。それに……」
 
 それに、俺はメイルに会いたくもない。この名を口にすることすらはばかられる。
 
「まあ、五十嵐の言いたいことはわかってるよ。でも僕と今在家いまざいけはずっとあの日の続きを夢見ている。そのことだけは覚えておいてくれよ」
 
「わかってる。本当にすまないと思ってるよ。でも、俺はもう音楽をできない」
 
「そうか、まあ待ってるよ」
 
 高瀬川は俺の肩に手を置いた。
 
 レコーディングは終わり、高瀬川が編集して近日中に動画配信サイトにアップするとのことで、今日は解散した。
 
 数日後、高瀬川邸に再集結。
 
 レコーディングした当日、すぐにアップしたという動画。いくらか再生されて、コメントもわずかながら付いているということらしい。
 
 リビングで椅子に座ってパソコンを操作する高瀬川。その背後から高瀬川の背中越しに俺と姫原は画面を覗く。
 
「あ、これこれ」
 
 と画面を指さす動画には、姫原が弾き語りするサムネイル。その下に
 
 『【オリジナル楽曲弾き語り】SAKUYOU ー定常的周遊ー 』
 『155回視聴 6日前』
 
 とあった。
 
「155回だけか」
 
「まあ最初はこんなもんだよ。SNSからの導線もないんだからむしろよくこんなに再生されたと言ってもいいよ。それにほら、コメントもいくつかついてる」
 
 コメントが4件あるようで高瀬川が「あれ、昨日見たときより増えてる」とタブを開く。
 
 『凄い歌声。一発でファンになりました』
 『応援しています。新曲アップ待ってます』
 『歌詞の韻の踏み方とか、歌い方とかすごい』
 
 と好感の持てるコメントがあったが、
 
 『GDAの劣化版でしかない』
 
 と辛辣なコメントもあった。
 
 今この動画サイトでも累計再生回数数億回を超える、今話題の謎の歌姫GDA(ジーダ)。バックには大手音楽事務所がジーダをプロデュースしており、アニメの主題歌や、顔出しこそしていないもののテレビ出演による楽曲の生歌唱。今日本中で知らない者がいないほどの超売れっ子アーティストである。
 
 姫原ほどの才能があっても今の時代ネットで一夜にしてバズるようなことはないのか――、実は少し期待していた。こんなに圧倒的な歌が世間に評価されないわけがない。メイルの歌に誰もが魅了されたように、姫原も同じ道を辿って行くのではないかと思っていたがそうも甘くないようだ。
 
 当の姫原は黙ってコメントを見つめていた。
 
「なあどうすればもっと見てもらえるんだ?」
 
「定期的な動画のアップはもちろんだけど、SNSやリアルのライブでも宣伝したり。とりあえずはそのくらいかな」
 
 姫原はアカウントだけ作ってあるが、余り触っていない放置気味のSNSがあるようで、そのアカウントとこの動画サイトのアカウントと紐づけて宣伝することになった。
 
 それでもバズるかどうかはわからないが、進捗具合を見ながらテコ入れしようと高瀬川は言った。
 
「あ、そうだ、良いコーヒー仕入れたから淹れてくるよ」
 
 高瀬川は言ってキッチンに向かう。
 
「はぁ、やっぱりこんなもんだよね」
 
 姫原は一応落ち込んでいるらしい。前に大見得きって『最高のステージを用意してやるよ』と言った俺は姫原に対して申し訳ないやらなんやら、会社の上司としても格好つかず、なんて声をかけていいかわからないでいた。

「ねえなんでライディス解散したの?」
 
 サワっと俺の胸を直接素手で撫でるように痛い一言だったが、「俺には才能が無かったって、それだけのことだ」とごまかすように言った。
 
「つまりメイルはソロデビューだったけど、バンドから一本釣りされて解散したってこと?」
 
「まあそんな感じだ」
 
 ことはそんな単純な話しでもない。しかし当時のことなんて今さら思い出したくもない。
 
「部長が話したくないなら無理には訊かないけど、私ずっと気になってたメイルが活動休止した本当の理由。もちろんそれも知ってるってことだよね」
 
「それに関しては俺も詳しくはわからない」
 
 高瀬川がコーヒーを淹れて戻ってくる。
 
「僕いいこと思いついたよ! 姫原さんの歌をバンド構成に編曲して、ボカロ風にアニメーションや歌詞をつけてアップしよう!」
 
 たしかに姫原のひとつ大きなセールスポイントとして挙げられるのは文学的な比喩を多用した歌詞にある。それとボカロ風にタイポグラフィアニメーションを付けた動画というのは相性が良いかもしれない。より具体的に姫原の楽曲の世界観をわかりやすく再現するには適している。
 
「だから、五十嵐ギター弾いてよ。歌はいいからさ」
 
「いやいや、俺には無理だって。もう何年もギターなんて触っていないし、それに……」
 
「わかってるよ五十嵐。ただ僕はね、控えめに言ってもう一度五十嵐の音楽が聴きたい。しかも姫原さんという逸材と五十嵐が組んだらどんな音を奏でるのだろうって。シンプルに、五十嵐のファンとして僕はお願いするよ」
 
 まったく、調子のいいやつだ。そんな口説き文句で俺がやるとでも思っているのか。
 
 浅はかだが理解できる部分もあった。姫原の歌い方にはメイルのそれが少しだけ宿っている気がする。本人もメイルのファンだと言っているからメイルの歌い方に引っ張られている部分はあるだろう。
 
「ライディスの演奏で歌えるとか最高かよ」
 
 こう勝手にテンションが上がっている姫原には申し訳ないが、
 
「いや、俺はやんねぇぞ。それにやるなら今在家にも声かけるつもりだろ? あいつ仕事に家庭に忙しくてそんなことやる暇ないだろう」
 
「今在家がやるって言ったらやるかい?」
 
「まあ……それなら考えてやるよ」
 
 俺はギターをやめた。もう持たないし、歌わない。不幸になる音楽なんてやる意味なんてないのだから。

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