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あのトンボは早すぎた

6月のはじめ、そろそろ梅雨入りするかどうかという時に、道でトンボが死んでいるのを見つけた。まだトンボを見かけるような季節ではないし、セミもまだ鳴いていない。成虫になる時期を間違えているような気もする。

ひと目でトンボだとわかるくらい綺麗に形を保ったまま息たえているところを見ると、体の調子もどこか不完全だったのかも知れない。年中働き者のアリ達は既にこの不幸な亡骸を片付け始めていた。

生物学に従うならば突然変異が何らかの変化を促し、このような季節外れの事故を生み出したのだろう。突然変異でも生存に役立つものなら受け継がれていく。他に先んじて成虫になることは思わぬ利点もあったかもしれないが、彼の冒険はただ他の仲間のいない孤独な空にたどり着いただけで終わってしまったらしい。

このような生物の「挑戦」は基本的には遺伝子を残さないことには伝承されず、ただ一回きりの例外として土に還ってしまう。今いるどんな動物も、もしその始まりの一人が不幸にも子孫を残さず死んでしまっていたなら跡形もなく消え去る運命にあったのである。

これに比べると人間は恵まれている。子孫や生存の長さに関係なく、人は「語り継がれる」ことで消滅せずに済む。ソクラテスや孔子が今でも影響力を持っているように何千年という月日を経てもそれは残り続けることもある。

動物達にはこのように時を超えて「語り継がれる」ことはないように見える。もし人間同様に知識を伝承する動物がいれば、それは私たちにとってかなりの脅威になっているだろう。他の種とある程度平和に暮らせているのはこの違いがあるからでもある。

一方で人間の側にも限界はある。もし偉大な人物が忘れ去られたり、偉業が書き留められなければ、どちらも動物と変わらない儚い運命を辿ることになる。古代ギリシアの詩人ホメロスはこれを深く理解していたので、勝者アキレウスだけではなく、敗れたヘクトルの功績についても公平に書き残していた。

言動の大きさが偉大さの源であって、単なる人気や結果からの稼ぎというものとは無関係であった。叙事詩の活動actionより統計学の、行動behaviorに慣れてしまった現代の私たちはむしろ動物に近くなっているのかもしれない。

大層なことを言ってはいるが、すぐにアキレウスやヘクトルになれるわけではないし、ホメロスの役割を担えるという身分でもない。ただ消えゆくものに目を向けることはできる。まずは、あの独り寂しい空に飛び立とうと試みたトンボのことを書き留めるのみである。

何かに挑むとき、私たちもあのトンボと変わらぬ結末を迎えるかもしれない。それを変えるのは儚いものに語り継ぐ精神である。飛び立つには早いかったかもしれないが、偉大さというのは飛び立つことに違いない。




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