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1日ゲームできても、5分勉強できないとき

無駄な努力をし過ぎている。ゲームやSNSにおける努力がこれにあたる。別にプロゲーマーやインフルエンサーを生業にする予定はないのだが、なぜあれほどの熱意を持つことができるのか自分でも疑問に思うことがある。

一方で必要だとわかっているのにできないこともある。1日に数十分でもランニングをすれば健康や体型もよくなるはずだ。数分でも勉強すれば外国語が話せるようになるかもしれない。しかしこちらにはなぜか意識が向かず集中力も湧いてこないのである。

これほど不思議なことはない。自分で意味があって価値が高い、高尚だと思っていることはできないのに、その逆、つまり自分でもあまりよくないと分かっている低劣な方にはいくらでも力を入れることができる。

努力には精神の強さが必要だとよく言われる。しかしこの「強さ」は何に対抗するための強さなのだろうか。私たちはこれを誘惑への対策だと安易に決めつけてしまうが、誘惑がなくても意欲が湧くわけではない。

学校は基本的に集中できる環境を強制的に整えてくれるから誘惑はほとんど無いが、だからといって自然と勉強に情熱を持てたという人は少ないだろう。こう思うと、高いものに向かって努力するのを妨げる何かがまだ残っているような気がする。

実はこれについて考察している先人がいる。フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユである。

おなじ苦しみであっても、高邁な動機モティフ よりも低劣な動機によるほうが堪えやすい

『重力と恩寵』

彼女はこのような作用を精神の「重力」と表現した。なるほど確かに高みへ行くには力を必要とし、低い方へと引き寄せられる様子は重力の影響を受けているようなものである。

ヴェイユ自身は社会問題や平和維持のために活動的だった人物である。教師としての職を得ながら、労働問題のため自ら工場労働者となって働くなど英雄的な逸話も多い。「重力」の考察は決して机上の空論ではなく、むしろ経験に基づいている。以下ような警句も残している。

高邁な行動も、ひとしく高邁な次元で利用しうるエネルギーを欠くなら、行動するものを低めうる。

『重力と恩寵』

単純な例はいくらでも見つかる。元々は善意や正義に即して進んでいた団体、計画がいつの間にか姿を変えていることは多い。見せかけではなく本当に高い志を持っていたとしても、むしろ時にはその方が堕落する危険性を孕んでいるということでもある。

それでは「高邁な次元で利用しうるエネルギー」はどこから用意すればよいのか。精神力は第一候補だが、ほとんどの人にとっては不安定なものに過ぎない。以前までは名誉や信仰、伝統などが使えたかもしれないが、現代でどれほど役立つかはわからない。

対処法としては「重力」に逆らうよりも利用することになるだろう。物理学的な重力への対応と同じである。卑近な例としてはゲーム形式で勉強を教えるものがこれにあたるかもしれない。一見すると普通のゲームのようでありながら数学や英単語を学べるというものもある。

自己顕示欲のためにトレーニングや資格を取るのも「重力」の活用法の一種かもしれない。SNSに自撮りをアップするための筋力トレーニングであっても努力したのは事実である。動機はともかく行動は十分「高邁な」ものになっている。

ヴェイユの言葉は現代の問題を予言したような鋭いものもあるが、こうした内相的な部分にも見直されるべきところが多い。この「重力」についての考察も普段の生活から世の中の動きにいたるまで様々な示唆を与えてくれる。

そう考えてみると、この文章も思想の整理という高尚な行動を、投稿という自己顕示欲を原動力として発動させた例のひとつかもしれない。



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