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サメとプラナリアと私

サメに乾電池。これを覚えておけば、
職場でも、学校でも、デートのときも、いつサメに襲われても大丈夫。

サメについて

こんな書き出しから始めた理由はサメに対する人々の危機意識の高さからだ。
サメを恐怖の対象とした、いわゆるサメ映画は数え切れないほど多くあるのである。

検索をかけてみると、なんと「サメ映画オススメ135選!」という記事があった。1本90分と見積もって、不眠不休で見続けても8日以上かかるだろう。さすがに貴重な時間を一介の魚類に捧げることはできないが、それほどの量の映画ができるほどサメは恐れられているらしい。

それらサメ映画の金字塔である映画「ジョーズ」ではボンベの爆発でサメを退治することになっている。しかし、実は乾電池でも良かったらしい。もし演出として電池を使ったとしたらどうなっただろうか。主人公は100均の電池で街を救い、USJのアトラクションのお土産も電池だ。地味だ、地味すぎる。

しかしなぜ乾電池が決定打となりうるのか?その理由はサメの器官にあるのだ。彼らはロレンチーニ器官と言われるものが頭部に存在する。100万分の1ボルトという極小の電位差を感知できるもので、捕食のために使われているという。

でも、電気と捕食は一見関係なさそうだが、どう使うのが正解なのか。想像してほしい。食べられる側の魚も必死であるから、全速力で逃げてしまうだろう。よって、サメは獲物がいることを先に知る必要がある。しかし、見た目は偽装されてしまう。小さい魚が集まって泳ぐ理由は自分たちをひとつの大きな魚に見せる働きもあるとされている。

ここで電気の登場だ。筋肉は微弱な電流を発しており、獲物が動けば必ず電気が発生するので、これをロレンチーニ器官で感知すればよいということである。

逆に言えば、これは本来わずかな電位差を感知するものなので、乾電池などで一時的に放電すればサメは大きな刺激を受けてしまう。ゆえにサメはその刺激を避けたいがために近づいてこなくなるのである。この原理はサメよけのかごなどにも使われているという。考えてみればかごの中の人間などサメからすれば格好の獲物だが、器官による刺激には抗えないのだ。

プラナリアについて

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次に紹介するのは不死身の化け物である。もっとも、サメと違って全然怖くないのだが。プラナリアである。ヒルに近い生物で、日本の川にもいる。体を2つに切ると、2つがそれぞれ再生してまたプラナリアになるという特徴を持っている。
体長は3~20mmで自宅でも飼育でき、夏休みの自由研究にもうってつけである。

また、2つ以上に分けても平気かつ、縦に切っても頭が2つになるだけである。ところが、水質の変化などには弱く正確には不死身ではない。しかしそれでも十分驚異的な生命力と言えるだろう。これがSF映画の敵の設定ではなく、実在の生物というのだから驚きだ。

さて、彼らは外敵から身を隠すため、大抵は石の裏にいる。いくら傷を受けても大丈夫とはいえ、一口で食べられてしまえば意味がない。また、再生も結構時間がかかる。したがって、隠れる岩を探すのが彼らにとっての重大事項なのである。

彼らの目は人間のようなレンズこそないものの、光の感知能力は優れている。そのため、プラナリアは光から逃げる性質、負の光走性と言われるものを持っており、これはこの器官に由来するものである。しかしこの性質は弱点にもなりうるらしく、光を与え続けたプラナリアが弱ったとする研究もある。(参考)

私達について

このサメとプラナリアの2例のように、動物とは器官に支配されているといえよう。他にも色々な例を挙げることができるが、一般的に動物は器官によって教えられる、支配されることのほうが多いということは納得してもらえるだろう。では、人間はどうだろうか?人間は、逆に器官を支配しようとする生き物ではないだろうか。

人間は器官による制限を超えようとする。水中にずっといれば苦しくなるが、その限界を越えるために水泳技術を高め続けているのがその良い例である。また、肺における酸素ボンベのように機能の増強を試みることもある。考えてみれば、映像技術や電話といったものは目や耳の機能の増強装置と考えることもできるだろう。
少なくとも、器官が与える範囲には決して満足しないのである。

さらに人間は、器官の機能の拡張も試みる。例としては、まつ毛や鼻を他者への外見的アプローチに使っている事が挙げられるだろう。

もっとも孔雀の羽のように動物にもそういった複数の使い方がなされている場合もある。しかし、それらは種で統一されているものである。人間においては、拡張された機能は1世代の間で発生し、そのまま局所的に消えていくことさえある。例に取った外見的アプローチが特に顕著である。

また、器官を意図的に欺くことさえある。この例としては錯覚を利用した芸術作品が該当する。VR技術なども、それらに該当すると言っていいだろう。

ロレンチーニ器官を制御しようとしたサメも、明るいところを目指したプラナリアもいないのだ。彼らがそれらを実現するとしたら、それは進化に頼るのみである。


一方で人間による器官の支配はいいことばかりではない。支配がかえって人間に苦境を与えるようなこともあるのである。たとえば、いまや外敵から身を守るためには使われない耳にイヤホンをつけ、娯楽のため使役する。しかしこれは難聴を引き起こす。

世界保健機構(WHO)は2015年に、世界各国の男女12歳~35歳の若者のうち11億人が、携帯型音楽プレーヤーやスマートフォンで「有害な音量」の音楽を聞くことによって音響性難聴のリスクにさらされていると報告している。

アンデシュ・ハンセン『スマホ脳』によれば、脳の仕組みを利用して注意を引くSNSなどが集中力低下の原因となりうる。ここで特筆すべきは、支配のメカニズムを生み出したシステムの開発者ですら、その悪影響を自覚しながら対処は難しいとしているところである。

単なる道具と違って器官とは自分の一部である。使役し続けて不具合が生じたとき、道具であれば被害のないような対処もできる。しかし、器官においては一体化している人間への影響は避けられない。確かに医療の改善によって対処することも可能ではあるだろう。しかし我々が際限なく要求をしていれば結局はイタチごっことなるばかりである。

また、器官の方が我々の命令に適応してくれるのは随分先になるだろうが、その頃にはまた新しい状況とそれに伴う要求が生まれているに違いない。

なるほど、支配するということはいいことばかりではないらしい。制御できる立場にあっても、その対象を損なえば意味がないのだ。ではどのような態度をとっていくのが望ましいのだろうか。いまさら他の動物のように器官の方に主導権を渡すのは無理だろう。

文明化以前の暮らしに学ぶ、という考えもあるが、それが完全に私達の身体に適合していたわけではないということに注意しなくてはならない。

この先は、ただ単に器官を支配するのではなく「うまく治める」といったことが必要になるだろう。あたかも絶対的な王様のように主張を通そうとするのでなく、反応を見て指示を変えていくといったことである。

上の2例に合わせて具体的に考えてみよう。耳であれば、試しに聴力検査を受けてみて、異常があるなら大音量の音楽はガマンすべきだ。注意散漫だと感じるなら、スマートフォンを遠ざける工夫をすべきだ。

現代はセンサー等の発達で器官からの発信を積極的に受け取ることができる。個人がこれを用いれば、従来の研究における個人差のようなものも克服し得るだろう。
これを十分に活かして、いかに自分自身のよい統治者となるかを考えていくことが大切である。

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