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眠れないときに読む本たち

いつまで経っても寝付けないという経験は誰にでもあるものだと思うが、眠気を待つまでの間にちょうどいいのは読書である。テレビなどのように余計な神経を刺激する心配もなければ、酒のように健康を害する恐れもない。

ところで、私は眠くならない理由は大きくふたつに分けられる。ひとつは何かを考えてばかりいるときであり、もうひとつは1日を終えるにはどこか物足りないと感じるときである。

考え事が終わらない日のお供は堺屋太一の『豊臣秀長』と決めている。これは豊臣秀吉の弟であった秀長を題材とした歴史小説である。秀長は生涯のうち農民として過ごした期間も長かったから、周囲の武士たちとは全く違った視点で生きている。

血の気の多い戦国時代は権力のためなら身内ですら裏切るのが常であり、またそれを維持するためには武功を示して目立つことが必要という考えも根強かった。しかし秀長はこのどちらも「学んだ」のであり、いざとなれば忘れることのできるものに過ぎない。

敵が押し寄せ、自軍は退いていく。武士ならこんな武勇を失うようなことはとても耐えられないが秀長は平気である。最終的に兄が勝てばよいのであり、自らの栄誉など後でどうにでもなるのである。

こんな戦い方は当然目立たず、作者も述べているように秀長を扱った作品は今でも少ない。しかし武士の常識を外れることができるという点では、秀長は戦国時代の中でも型破りで大胆な武将であったといえるだろう。

なにも奇抜な行動や目を引く冒険ばかりが革新的だというわけではない。本当の意味で既存の枠組みにとらわれないものは、時に歴史からも外れてしまうことがある。しかしその偉大さだけは決して消えることがない。

大きな活動の中心にいながらどこか外側で生きているような秀長の生涯を辿っていると、自分がいかに小さな考えに甘んじていたかに気付く。ちっぽけなものなら時間をかけることもない、と安心して眠りにつけるというわけである。

今日という日が物足りない、何か刺激が欲しいという時は三島由紀夫の『小説家の休暇』を読む。私が持っているのは新潮社から出版されている文庫版で、表題作のほかにいくつかの随筆や評論などが収録されている。

それぞれの文章の扱う主題はさまざまだが文章には共通した特徴がある。文は一見すると明晰な形をとっているように見えるが、よく読めば表現されている思想は情念的なものなのである。理性と情熱が微妙なバランスで成り立っているのである。

自分の得意分野だけならともかく、演劇論からファシズム、果ては日本文学史までをこの巧みな手腕で書き表すことのできる人物はそうそう現れないだろう。

それぞれの章や文自体は長くないので気軽に読み始めることができる。また、三島は技術的な研究も怠らなかったから、文章を書くうえで参考になる表現や構成もたくさん見られる。

必ず新たな発見を得られるこの本さえあれば少なくともひとつは学びを得たと満足してその日を終えることができる。

もちろんこの2冊以外にも夜に引っ張り出されてくる本はいくらでもある。ニーチェの『愉しい学問』や井筒俊彦の『意識と本質』なども常連である。しかしこんな気まぐれな読書を続けているといつの間にか枕元に本が溜まってしまう。

書物は、それが書かれたときとおなじように思慮深く、また注意深く読まれなければならない。

ソロー『森の生活』

なんとも耳の痛い格言である。しかし、眠れぬ夜を経ることなしに完成した名作がそれほどあるだろうか。同じ経験をしてこそ作者の思想にも近づけるだろう。眼光紙背に徹するには、暗闇に慣れた眼差しも持っている必要があるに違いない。そう言い訳して私は今日も夜更けまで本を読むのである。

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